【テキスト版】CROSSOVER「STANCE」深堀圭一郎×吉田義人

北島忠治監督に見込まれ明治大学に進学。“前へ”という指導でチャレンジできる自信を確立

深堀:吉田さんの大学以降のラグビー人生について、お話を伺います。吉田さんは、高校時代に活躍されていたので引く手数多だったと思いますが、なぜ明治大学を選ばれたのでしょうか?

吉田:実は進学するときに、体育の先生になりたい気持ちが強かったんです。当時人気ドラマだった『熱中時代』で水谷豊さんが演じた北野広大先生に憧れていたんです。それで秋田工業高校の監督さんが、日本体育大学の卒業生だったこともあり「日本体育大学に進学して先生になろう」と思っていました。当時は高校の日本代表でしたから、大学側も入学の意思を伝えると喜んでくれましたね。特待生制度があり、それにも掛け合ってくれると。でも、行かせてもらえなかったんです。明治大学の北島忠治監督が「吉田は俺が預かる」というのが理由でした。当時、北島監督はラグビー界の大御所で日本体育大学側も「忠治さんにそういわれたら、我々が吉田くんを預かることはできない」と。

深堀:そのときの心境はどうでした?

吉田:後にその話を聞いたんですが、やっぱり自分の人生は「自分で決めたい」と感じましたね。

深堀:実際に、明治大学に進学してどうでしたか?

吉田:入学前にラグビー部の事前合宿があって、そのときに初めて北島監督に挨拶をしました。当時は高価な体育会のブレザーを買わないといけなかったのですが「これを着ろ」とブレザーを手渡してくれたんです。「ありがたいな」と思っていたら、隣にいたOBが驚いた顔をして「ちょっと見せて」と裏をめくると、「北島」という名前が入っていました。監督が着ていたブレザーをいただいたんです。

深堀:これからの明治を「託す」という意味だったんでしょうね。北島監督の指導法はどうでしたか?

吉田:ほとんど指導はせず、自分たちが練習する姿を見守る感じでした。ときどき集めらると「ゲームやるぞ」と。それで「出たい奴は手を挙げて」という問いかけに、全員が一斉に手を挙げて試合が始まる。そんな感じでした。

深堀:吉田さんは、その後キャプテンにも選ばれていますよね。

吉田:あのときはビックリしました。4年生を送り出す納会で、中央に集められて突然「次のキャプテンは吉田」といわれて。キャプテンの経験がなかったので、他の選手がなると思っていましたから。当時は、自分のラグビーのキャリアを極めていきたいと考えていたので、自分勝手な行動もしていたと思いますしね。例えば、ストレッチなども僕だけ違う動作をする。「あいつ勝手なことをやっているな」と。

深堀:そういう意味では、吉田さんに「従来と違うものを作って欲しい」という期待があったのかも知れませんね。

吉田:監督に明治大学のキャプテンとして認められたわけだから「自分のスタイルを変える必要はない」と考えました。逆に変えれば監督の期待を裏切ることになる。ただし、ひとつだけ心に決めたのが「全員が同じ意識を持って行動し練習に取り組む」ということ。僕は全部員の前で「日本一になりたい」といいました。これには、練習にも日本一の質と量が必要になります。

深堀:やはり練習を数多くする人のほうが成績もついてくるのでしょうか。

吉田:質の良い練習が一番重要ですね。「この練習を何のためにするのか」を理解して実践していく。練習のための練習ではなく「試合のために、どれだけイマジネーションを働かせて取り組めるか」で大きく変わってきます。

深堀:北島監督からも、何かアドバイスはありましたか?

吉田:スポーツ人は、スポーツを通じ自信をつけて社会のさまざまな分野に存在しています。監督はそこを指導してくれましたね。人として社会に出てプロフェッショナルになり報酬をいただく。そのためには確固たる自信をつけておく必要がありますから。いわゆる「社会にチャレンジしていける人間」になるには「前へ」という監督の哲学が活きてくるんです。前へ進むには、自分自身の弱い部分に戦いを挑んで、それに勝ち続けなければいけません。

深堀:「大学で日本一になりたい」という目標は存在しているけど、その先に進むための準備もしっかり行う。「今一番になればそれでいい」という話ではありませんよね。

吉田:結局、日本一になりましたが、これは成果にしかすぎない。成功体験は「いかに準備をしてきたか」の方が大切。準備力が最終的な結果につながりますから。深堀監督と選手の相乗効果が生んだ賜物ですね。

仕事とプレーの両立を目指し伊勢丹へ入社…ラグビー界の発展を考え海外でプロになるのを決意

深堀:吉田さんの大学卒業後のラグビー人生について伺いきます。明治大学で輝かしい成績を残されて社会人チームへ進む際、伊勢丹のラグビー部を選ばれましたが、理由はあったのでしょうか。当時は神戸製鋼などが有名で強かった印象もあるのですが。

吉田:僕は三度の飯よりもラグビーが好きで、専攻も「明治大学ラグビー部・北島忠治学科」なんです。就職のときも当然ラグビーがやりたい、将来は日本代表で「日の丸を背負い海外の選手と試合がしたいと考えていました。ところが、当時の国内はアマチュア組織で、プロ契約が認められていなかったんです。しかし、強豪チームに入れば生活自体はプロと変わらないのでは、と感じたんですね。実業団なのにプロのような日々を過ごすことへの疑問もあったわけです。伊勢丹さんには「社業もしっかり頑張って欲しい」といわれたことも魅力に感じました。しかも、大学2年時にオファーを出してくれて。3年生になると神戸製鋼さんをはじめ、東芝さんやサントリーさんなど数多くのチームからオファーがありました。でも伊勢丹さんに「これからラグビー部を強化していきたい」といわれたのが決め手になりました。やはり、強豪チームは時計(チーム)を動かし続けるために、いろいろな部品(選手)があり機能しているわけですから、歯車のひとつという印象は否めません。それより僕は仕事をしっかり行い、いろんなことにチャレンジしたかった。そういう意味で伊勢丹さんから「吉田くんが学んだことをチームに還元して欲しい。仕事面も百貨店だから100通りの業務に携われる。自分に合うものが見つかるのでは?」といっていただいたのも魅力的でしたね。

深堀:ご自身の考え方と伊勢丹のチームがリンクしたんですね。伊勢丹に入社した年には、日本代表としてワールドカップにも出場されました。ジンバブエ戦では、2トライを挙げるなど日本代表のワールドカップ初勝利にも貢献されましたね。

吉田:1991年の第2回ワールドカップですね。僕はこのときに初めて世界の舞台に立ちました。そして活躍を認めていただき、翌年にはニュージーランドラグビー協会100周年記念試合で日本から唯一「世界選抜」に選ばれました。対戦相手はオールブラックス(ニュージーランド代表)。試合のためにニュージーランドに呼ばれて、1か月半近く世界の代表選手と寝食を共にしたんです。

深堀:それはすごい経験ですね。短い時間ですが、吸収できたものはありましたか?

吉田:ラグビー選手は「こうあるべき」という点を、当時のスーパースターと私生活をともにして学びましたね。試合での振る舞いはもちろん「人としてどうあるべきか」などを教えてもらいました。

深堀:大学、社会人リーグと輝かしいラグビー人生を送っていた吉田さんですが2000年に海外のフランスリーグにも挑戦していますよね? 年齢的には30歳を超えていたと思いますが、なぜ海外のプロリーグに挑もうと考えたのですか?

吉田:ラグビーと仕事の両輪で順風満帆の人生でしたが、伊勢丹のラグビー部の活動が縮小されて、東日本社会人リーグからの撤退も決まったんですね。このとき「今後は日本のスポーツ、中でもラグビーにもっと貢献したい」と感じました。そして、プロとして活躍する人たちと「同じ土俵で話ができるようになりたい」と考え、プロになる決意をしました。フランスを選んだのは、中学生のころにテレビで見たフランス代表の芸術的なプレースタイル「シャンパンラグビー」に憧れていたからです。

深堀:アマチュアからプロの世界に飛び込むと、戸惑う部分もあったと思うのですが。

吉田:プロの世界はアマチュアとは違い、崖っぷちから転落すると「二度と這い上がれないのでは」と思うほど、奈落の底まで突き落とされる厳しさがあります。アマチュアの世界には「どこか安心感」がある。仮に怪我をして引退しても会社が守ってくれますしね。

深堀:反対に、プロだからこその魅力などは感じましたか?

吉田:技術を突き詰め「すべての時間を注ぎ込める環境と時間がある」のは魅力だと思います。若いころから、この時間が得られれば選手寿命は確実に伸びるでしょう。もちろん、プレーのレベルや質も格段に高いですし、選手同士の競争意識なども強いですね。

深堀:アマからプロ、そして日本から海外へ。環境を変えることにより「人は大きく成長する」というのを強く感じますね。

退路を絶って明治大学ラグビー部の監督に就任!その後は7人制ラグビーの普及にも尽力

深堀:現役引退後のことなどについて伺います。プロスポーツ選手は、それまで当り前だった自分のフィールドから離れなければいけないタイミングが必ず来るわけですが、吉田さんが決断したタイミングはいつだったのでしょうか?

吉田:引退ですね。よくいわれている「引退の美学」は美しいものです。しかし、本当に美しいかは分かりません。その人が「どのレベルで生きていくか」だと思いますので。僕は幸い日本代表やプロにもなれました。そして、一番輝いている場所で、多くのファンに支えられ応援もしていただいた。ですから、どれだけレベルが落ちても「できる限りプレーする」という選択肢もあったのですが、僕の場合は「トップレベルでやれない」と自分が自覚したちきに辞めようと考えました。

深堀:現役引退後、母校・明治大学の監督をされましたが、打診のときはどう思われました?

吉田:北島忠治監督は67年間に渡り、生涯を捧げて明治大学ラグビー部の発展、そして選手を自信を持って社会に送り出すよう指導されてきました。そのラグビー部が北島監督が亡くなってから低迷し、全国大学選手権にも出場できないほどの成績になったんです。私に再建のオファーが届いたとき、社会に出てからも北島監督に恩返しをしたいと思っていたので明治大学をもう一度、表舞台に引き上げられたら本望だなと。当時勤務していた会社にも期待されていたので、悩みました。出向という形にして明治大学へ行く選択肢もあった。しかし、学生にとっては一年一年が勝負なので退路を絶つべきだと思いました。本当に「自分たちと心中してくれる監督なのか」がすごく大事なので。

深堀:監督就任後、最初の練習の際は選手に自分の気持ちを伝えるじゃないですか。吉田さんは何をいわれたのですか?

吉田:「人として、こうあるべき」という部分を学生たちに分かりやすく5つの言葉「礼儀」「真摯」「矜持」「継承」「感動」で伝えました。

深堀:監督として大学選手権では、最後の年に優勝されたんですよね?

吉田:対抗戦で14年ぶりに優勝できました。大学の監督は4年間やらせていただいて、本当に素晴らしい選手たちに巡り会えました。

深堀:明治大学の監督を辞められた後、吉田さんは7人制ラグビーの普及に取り組まれていますが、何か理由はあったのでしょうか?

吉田:実は7人制のラグビーも1993年からワールドカップが開催され、僕はそのときの日本代表のキャプテン。その後も、32歳になるまで7人制の日本代表のキャプテンを務めました。

深堀:主宰される7人制ラグビー専門のクラブチーム「サムライセブン」は、どんな活動をしているのでしょうか?

吉田:他競技からも選手達を受け入れて、7人制ラグビーのスペシャリストを育てています。なかには100mを10秒5で走るスプリンターや、アメリカンフットボールでランニングバックをやっていた選手もいます。

深堀:来年にはオリンピックもありますね。

吉田:そうですね。このチームから一人でもオリンピックに出場する選手が育てば。

深堀:指導者としては、やはり後進を育てたいですよね。吉田さんは大学院でも学ばれたと聞いたのですが。

吉田:そうですね、最後の一年は修士論文でも書いた「ゴールデンエイジ」を研究しました。「ゴールデンエイジ」とは人間の発育・発達には医学的な観点から成長の3つの柱があり、それが「骨」「筋肉」「神経系」なのです。中でも「神経系」の発達が一番敏感ななのは9歳から12歳といわれています。例えば「ボールを投げる・打つ・キャッチする・蹴る」とか「体を反転させる・回転させる・切り替えさせる」などの運動動作が、一番自分の神経回路に速いスピードで入ってくる時期が9歳から12歳。また、その前の「プレゴールデンエイジ」は4歳ぐらいから始まるといわれています。今の時代は、あまり外遊びができません。その代わりスポーツチームがありますから、いろいろなスポーツを経験した方がいいと思います。それにより、運動神経が養われていきますから。この時期に、例えばプロゴルファーを目指すからゴルフだけやる、というのではなく、体操や水泳、時にはバスケットボールなどいろいろなスポーツを続けることが大切です。

深堀:吉田さんのように、医学的に勉強されてから選手に伝えると分かりやすいですね。本当にその行動力には頭が下がります。今回はお忙しい中、ありがとうございました。

▼吉田義人/よしだ・よしひと

1969年2月16日生まれ、秋田県出身。19歳で日本代表入り。31歳で渡仏し、日本人初の1部リーグのプロラグビー選手となる。現在は日本スポーツ教育アカデミーの理事長を務め、精力的に活動中。

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