【テキスト版】CROSSOVER「STANCE」深堀圭一郎×吉田義人

輝きを放つアスリートたちは、どのようにして頂点を極め、そのときに何を感じ、そして何を手にしたのか—— 。

自身もプロゴルファーとして活躍している深堀圭一郎が、スポーツ界の元トップ選手や現役のトップ選手たちをゲストに招いて、アスリートたちの深層に迫る、BS無料放送『クロスオーバー』連動企画のテキスト版。

そこから垣間見えてくる、ゴルフにも通じるスポーツの神髄とは? 第8回目のゲストは吉田義人さん。

※敬称略

突出した実力が同級生からの妬みを生んだ高校時代…姉の一言で気持ちを整理し再スタート!

深堀:今回はラグビーの日本代表としてご活躍され、現在は日本スポーツ教育アカデミーの理事長として精力的に活動される吉田義人さんにお話を伺います。実は僕とは明治大学の同級生。当時、大学ラグビーの大スターだったのを鮮明に覚えています。そんな吉田さんは“ラグビーどころ”の秋田県出身ですが、ラグビーとの出合いはいつですか?

吉田:始めたのは小学校3年生で地域のラグビースクールに入りました。

深堀:当時の指導者は、どんな方でしたか?

吉田:最初に教えていいただいた佐藤コーチは、素晴らしい人でした。熱心で、怒られたことは一度もありません。子供たちのいいところを見出して褒めてくれるんです。佐藤コーチの存在はその後の僕のラグビー人生に大きな影響を与えたと思います。

深堀:中学生の時も、ラグビー部に入られたんですよね?

吉田:実は入学した中学校にラグビー部がなく、野球部に入部したんです。ところが、先輩の居残り練習に付き合って遠投をしていたら、1か月後にヒジを壊して投げられなくなって。当然、練習に参加できないので球拾いをしていたら、同級生に「一緒にラグビーをやろう」と声をかけられたんです。僕が「ラグビー部ないじゃん」というと「先生に頼んで作ってもらった」と。もともとラグビーが大好きでしたから、すぐに入部しました。

深堀:そこからラグビー漬けの毎日が始まるわけですね。

吉田:そのつもりでしたが、中学2年生の時に椎間板ヘルニアで、歩くのも辛い状態に。医者からは、腰が硬いのが原因といわれたので柔軟性をつけるために前屈運動を毎日100回は行いました。それでも、完治するまで半年程度かかった。しかも、ラグビー部に戻っても、ブランクの影響で全然練習についていけなかったんです。その差を埋めるため、部活が終わった後に自主的にランニングを始めました。毎日、弟に自転車で先導してもらい、暗い夜道を4キロ。真っ暗な道だけ走っても面白くないので、練習が午前中で終わる日曜日の午後は寒風山に走りに行きました。寒風山を登ってくる車を見つけると、追いかけて全力で走ったり。これが坂道ダッシュのインターバルトレーニングに自然となりました。その結果、走るスピードがダントツに速くなったんです。中学3年生の運動会では100m、200m、400mリレー、走り幅跳びで4冠を達成。陸上部より足が速くて、男鹿市の大会に推薦で出場して4冠。さらに、ラグビーでも県大会を勝ち上がって秋田代表となり「第3回東日本中学生大会」に初出場で優勝したんです。この経験から「人より努力すれば必ず結果に繋がる」ことを悟りました。

深堀:ゴルフ界が強くなっている理由に、運動能力の高い人たちがプレーするようになってきた点がありますが、吉田さんも素晴らしいポテンシャルの持ち主ですね。中学での活躍もあり高校はラグビーの名門、秋田工業に推薦入学されたんですよね。

吉田:1年生は基本的に体力作りから入るのですが、僕だけすぐに上級生のレギュラー組とプレーすることになり、同年に全国制覇を成し遂げたんです。でも、同級生やレギュラーになれない2年生との間に壁ができて、3年生の先輩が卒業するとチームメイトとの関係が悪くなり不登校になりましたが。でも、母親に心配をかけたくなくて朝は学校に行くフリをして電車に乗り、ホームの待合室で昼まで時間を潰した。午後は練習が終わるぐらいの時間まで小遣いで映画を観ました。しかし、そんな生活は長く続かず、友人の家に。すると、その夜に担任の先生が来て、先生のところに身を寄せました。当時は父親が怖くて家に帰れなかったんです。先生に小さいときに可愛がってもらった「姉に会いたい」と相談すると、「出世払いでいいよ」と旅費を出してくれました。会いに行く道中、夜の青函連絡船から真っ暗な津軽海峡を見ていたら「飛び込んだら楽になるかも」という気持ちに一瞬なりました。しかし、函館駅で大きな荷物を背負って電車に乗り込んで来る、お婆ちゃんたちの活力を見て、自分が情けなく感じて。札幌に着いて姉に「応援しているから頑張れ」といわれて号泣し、家に戻ったのを覚えています。

深堀:お姉さんに会うことで、気持ちの整理ができたんですね。

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