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ミランの凋落期に“10番”は何を残したのか。伊番記者が語る本田圭祐との4年半「心を開けばもっと愛された」

日本人史上初のミランの10番となった本田。様々な物議を醸した4年半はミランに携わる人間にとってどんな時間だったのか。(C)Getty Images
もし本田圭佑が“あの”ミランにではなく、“この”ミランにいたならば、いったい何が起こっていたのだろう?

「もし」に正しい答えなどない。しかしこの仮説には好奇心を掻き立てられる。果たしてステーファノ・ピオーリが率いる現チームで本田はレギュラーの座をもぎ取れたろうか? チャンピオンズ・リーグ(CL)やスクデット争いに加わるチームで主役になれたろうか?

答えは一人ひとり違うだろう。まず、私の考えを3つのポイントから探っていきたい。

テクニカル面から見れば、答えはSI(活躍できる)だ。ケイスケは疑い様もなく高いレベルのテクニックを持っていた。それは今のミランでも十分通じるはずである。

ただ、戦術面から言うと多少の疑いが残る。トレクアルティスタ(トップ下の意)は、本田がミランにいた数年前よりも進化し、スピードが要求されるようになっている。とりわけピオーリはこのポジションに最新の解釈をしており、かつての古典的なトップ下の意味合いは薄れてきている。

プロ意識という面では、まったくもって問題ない。ズラタン・イブラヒモビッチやシモン・ケアとともに、仕事に向かう態度やプロフェッショナルとしてのアプローチを若いチームメイトたちに叩きこんでくれたに違いない。

本田がミランを去ってから4年半が経つ。しかしミラネッロの変わりようは、まるで40年が経ったかのようだ。彼が所属した最後の年にやってきた中国人オーナーのヨンホン・リーは、たったの1年でチームを「エリオット」に売却。そのアングロ・アメリカンのヘッジファンドの下、ミランは7年ぶりにCLに復帰すると、スクデット争いにも舞い戻り、今は新たなスタジアムも建設予定だ。

図らずも彼がミランにいたのは、シルビオ・ベルルスコーニ時代の終焉と重なっていた。国内ばかりでなく、ヨーロッパ、いや世界でもあまたのタイトルを手に入れ輝いていた栄光のミランの終わり——その凋落を止めるのはもはや不可能な時期だった。

また、彼の加入は、ミランの経営がグローバル化を目指した時期とも重なっていた。それまで以上に世界に目を光らせ、ヨーロッパ外でのファンの拡大に情熱を傾けていた。だからこそ、本田がVIPに囲まれサン・シーロのエグゼクティヴルームに姿を現した時、「マーケティング目的のオペレーションであることは明白」と誰もが思った。お披露目の様子は世界中に配信され、オリジナルロゴまでが作成された。

しかし、実際はそうではない。経済効果への期待は確かにあったが、それは本田獲得の理由の一部にしか過ぎなかった。彼は確かにピッチでの活躍を期待されていたのだ。 もちろんミランでの背番号が、彼に重すぎた面はあっただろう。それはかつて栄光の10番を背負ってきた男たちを振り返れば一目瞭然だ。ジャンニ・リベラ、デヤン・サビチェビッチ、ズボニミール・ボバン、マヌエル・ルイ・コスタ、クラレンス・セードルフに比べ、本田は人々を熱狂させることはできなかった。

しかし、だ。ひとたび本田という人間を知ると、サポーターは彼らしさを評価もするようになった。所属した3年半の間、サン・シーロ(ミランの本拠地)が、本田に惜しみない拍手を送ったシーンも少なからずあった。それは彼がどんな時も力を出し惜しみしない選手であるとミラニスタたちもわかっていたからである。

私個人としては、もう少しだけ皆に心を開いてくれたならば、彼のミランでの日々は変わっていただろうと思う。本田が自身の言葉で、自らの思いを語ってくれたなら、ミラニスタにもっと愛されたはずだ。

性格を変えるのは難しい。だが、ミラン番としてチームに帯同した時、私は何度も本田の姿に違和感を覚えた。例えば、2016年の夏にプレシーズンのアメリカツアーへ行った時、ヴィンチェンツォ・モンテッラ監督から与えられた唯一の自由時間、多くのチームメイトは連れ立ってアメリカの夜を楽しんでいた。だが、本田はチームとは全く無関係の人たちと出かけていた。

また、イタリアに帰国する前の空港ゲートでも、飛行機に乗る前にも、本田は仲間たちとは離れ、たった一人でずっとタブレットをいじっていた。彼が取り組んで様々なビジネスに関する仕事をしていたのかもしれない。飛行機に乗った後もそれは変わらず、彼は皆から離れた席を選んで座っていた。

ただ、その頃には仲間もそんな本田の姿には慣れっこになっていて、幸いにもそれを傲慢さや過信とからくるものとは受け取っていなかった。それが本田という人間なのだと皆分かっていた。仲間たちがそんな彼を受け入れたのは、彼がいつも真っ先に練習場にやってきては、最後に帰る人間だったからだ(ミラネッロへの送迎は運転手付きの車と、これまた他の選手とは異なっていたが)。

こうした本田の仕事への姿勢はもちろん監督たちにも歓迎された。フィリッポ・インザーギは、自分のスタッフにこう漏らしていたことがあった。

「なんで選手たち全員がホンダみたいじゃないんだ」

監督が期待するような真面目さで練習に臨まない選手がいたのだろう。 今、ミラニスタに「本田圭佑」と問えば、真っ先にどんなシーンを思い浮かべるだろうか。

2014-15シーズン開幕直後の7試合で6ゴール決めたこと、2017年のボローニャ戦でFKを決めミランをヨーロッパの舞台に戻したこと——。印象的なシーンはさまざまにある。

もちろんいいことばかりではないだろう。彼のプレーには波があり、その結果、多くのブーイングを—他の選手に原因があることも多かったが—サン・シーロで浴びせられた。最終シーズンにおいては、モンテッラ監督にほとんど顧みられることがなく、ベンチに置かれていた。
本田がメキシコへ旅立ってからの1年、ミランという船は2億ユーロをかけて補強したにもかかわらず、あちこちに水漏れが目立っていた。その当時、ミラニスタは本田の不在を何度もSNSで嘆いていた。彼らが、当時31歳のサムライを恋しがっていたのは、サッカーに真面目な選手をチームにとどめておきたかったからに違いない。

4年半という時間でミラニスタの印象に残ったのは、どんな仕事にも真摯だった本田の姿だ。本物のプロとして人々に記憶される選手は、世界広しと言えども、そう多くはない。

文●マルコ・パソット(ガゼッタ・デッロ・スポルト紙)
翻訳●利根川晶子

【著者プロフィール】
Marco PASOTTO(マルコ・パソット)/1972年2月20日、トリノ生まれ。95年から『ガゼッタ・デッロ・スポルト』紙で執筆活動を始める。2002年から8年間ウディネーゼを追い、10年より番記者としてミランに密着。ミランとともにある人生を送っている。

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