• HOME
  • 記事
  • サッカー
  • 【#2】女子サッカー「冬の時代」 寺谷が「お前たちは下手くそ」と言う理由(東京ヴェルディアカデミー寺谷真弓氏インタビュー) 
寺谷真弓,東京ヴェルディ

【#2】女子サッカー「冬の時代」 寺谷が「お前たちは下手くそ」と言う理由(東京ヴェルディアカデミー寺谷真弓氏インタビュー) 

27歳で引退し、偶然が重なり指導者への道を踏み出した寺谷真弓。意気込んで指導者を引き受けたものの、当時のベレーザ・メニーナは厳しい環境に置かれていた。さらに女子サッカー全体に「冬の時代」が襲おうとしていた。女子サッカー界に一体何が起こっていたのか。(取材・文:武田鼎/写真:殿村誠士)

>>第1話:サッカーとの出会い 「たまたま」指導者の道へ

女子サッカー界に吹きすさんだ「冬の時代」

寺谷真弓,東京ヴェルディ

「冬の訪れ」は、ただ1度の国際大会での敗北から始まった。当時の女子A代表(当時は「なでしこジャパン」という呼称は用いられていなかった)がオリンピックの出場権を逃してしまった。1999年のことだった。

3試合で10失点の大敗――。1999年FIFA女子ワールドカップでの出来事だ。同大会でグループリーグ敗退が決まったことで、翌年の2000年シドニーオリンピックへの出場権を女子サッカー日本代表は逃してしまった。実業団が中心になって運営される女子サッカー界にあって、五輪出場は数少ない注目を浴びるチャンスだった。

寺谷真弓,東京ヴェルディ

たった一度の敗北がそのスポーツ自体の存続をも脅かしてしまうのはマイナースポーツの宿命かもしれない。シドニー五輪を逃したことで、プリマハムが伊賀フットボールクラブくノ一から、松下電器が松下電器LSC・バンビーナ(現スペランツァ大阪)から…。雪崩をうったように企業が実業団の運営から手を引いていった。

「当時は、女子サッカーという競技の存続が危ぶまれていました。国際試合の結果一つでスポーツの存続が左右されるんだな、と」

寺谷が指導者としての第一歩目を踏み出したのはそんな時代だった。

寺谷真弓,東京ヴェルディ

「そのときに、たくさんの才能ある選手が辞めていきました」と当時を振り返る。

それでもサッカーを続けた選手たちはいた。所属するチームと、安定した仕事を失っても、サッカーを続けた選手たちがいた。彼女たちこそ2011年のW杯を制するチームの立役者になっていく。

「2011年のW杯優勝ばかり注目が集まりますが、ターニングポイントはその11年前の2000年なんですよ」

W杯優勝時に「ボンバー」の異名で一躍有名になった荒川恵理子がレジ打ちをしていたのは有名な話だが、ほとんどの選手が生計を立てるのに必死だった。

寺谷はそんな時代に、選手たちが必死にアルバイトと練習を両立させようともがく姿を見てきた。

寺谷真弓,東京ヴェルディ

昨今、セレクションを受け、ベレーザやメニーナに入ってくる選手の中に、どんなにサッカーが上手な子がいても、こう声をかけ続ける。

「あいつらに比べたらお前たちはまだまだ下手くそだよ」

「いい選手」とはなにか。女子サッカーの冬の時代を痛感したことで、寺谷なりに指導者としての答えを見つけつつあった。

(第3話【通信簿もチェック 「サッカーより学業第一」を掲げる指導哲学】に続く)

関連記事