【#1】サッカーとの出会い 「たまたま」指導者の道へ (東京ヴェルディアカデミー寺谷真弓氏インタビュー) 

寺谷真弓,東京ヴェルディ

日本女子サッカー界の立役者として必ず名前が上がる人物がいる。寺谷真弓(てらたにまゆみ)、その人だ。数多くのなでしこジャパンの選手を輩出した女子サッカーの名門、日テレ・ベレーザとその下部組織であるメニーナの監督を歴任してきた。現在はユース選手などが所属する東京ヴェルディアカデミーのアカデミーダイレクターを務めている。

寺谷真弓,東京ヴェルディ

今でこそ、指導の現場の最前線を離れて5年が経つが、かつてはピッチの上で誰よりも声を張り上げ、選手たちを叱咤激励した。ついたあだ名は「鬼軍曹」。数々の選手たちが鬼軍曹の薫陶を受け、一流アスリートへと飛躍を遂げた。

鬼軍曹の軌跡を紐解いてみよう。それはそのまま日本女子サッカーの歴史を紐解くことになるのだから。(取材・文:武田鼎/写真:殿村誠士)

寺谷少女、サッカーに出会う

寺谷真弓,東京ヴェルディ

寺谷がサッカーと出会ったのは小学生の頃だった。1980年代の当時はスポーツといえば野球の時代で、Jリーグ発足は10年以上も先のことだった。カラダを動かすのが大好きだった寺谷だったが、女子が入れる野球チームはなかった。最初は「仕方なく」女子も受け入れているサッカーチームに所属した。

そこで、サッカーの面白さにのめり込んでいく。1981年の第2回トヨタカップ(現在のクラブワールドカップ)を観戦した際に、熟練したジーコのプレーを目の当たりにした。元来、運動が得意だった寺谷は貪欲に知識を吸収していく。

「当時テレビ東京でダイヤモンドサッカーという番組があって、それを必ず土曜日の夕方に見て、日曜日に感想文をクラブの監督のところに持って行くようになって。サッカークラブでもただ自分たちがプレーするだけじゃなくて、海外サッカーの面白さを教えてくれたりとか。サッカーに限らず、いろんなことを経験させてもらいました」

寺谷真弓,東京ヴェルディ

中学高校は女子サッカー部がなかったことからバレーボール部に所属、そのかたわら、週末はサッカークラブに顔を出していた。高校から急激に身長が伸びたことでバレーボール部でも重宝されるようになった。

再びサッカーを本格的に始めることになったのは些細なきっかけだった。大学時代、何気なくサッカー雑誌をめくっているとベレーザ(当時は、読売日本サッカークラブ女子・ベレーザ)のセレクションがあることを知った。

「受験資格に中1から20歳までって書いてあったんです。当時、19歳か20歳で、最後に受けられるから受けてみようかなみたいな」と軽い気持ちで受けてみたところ見事合格を果たした。

「たまたまそのタイミングでベレーザがキーパーを探していたんです。 “キーパーやってみないか”って誘われました」

173センチという高身長、バレーボールで培ったボールのハンドリング技術、寺谷はこれ以上ないGK向きの選手だった。

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27歳で引退、受付アルバイトから偶然指導者へ

寺谷真弓,東京ヴェルディ

現役時代は選手としてプレーするのに精一杯で、指導者の道など考えたことはなかった。そもそも、当時の女子アスリートは30歳手前で引退するのが当たり前とされていた。結婚や出産だけが理由ではない。女子サッカーは今と違ってプロリーグがなく、30代で生計を立てることができる業界構造ができ上がっていなかった。結果、引退後のキャリア形成は個人任せだった。寺谷も同様に、1999年に27歳で引退(当時は鈴与清水FCラブリーレディースに所属)してからは「これから仕事、探さなきゃなぁ」という具合だった。

引退後は、たまたま、当時のベレーザの監督を務めていた松田岳夫氏(現・マイナビ仙台レディース監督)に、「ヴェルディの受付でアルバイトを探してるぞ」と誘われ、受付でサッカースクールの事務作業を1年間続けた。

転機になったのは松田氏からの「ボールを蹴れるならGKコーチの手伝いをやったら?」という一言だった。受付のアルバイトも楽しかったが、久しぶりのピッチの感触はひとしおだった。

寺谷真弓,東京ヴェルディ

だが、その当時はベレーザの置かれた環境は厳しかった。98年に読売グループがヴェルディから完全撤退し、同年にベレーザから西友グループがスポンサー契約を引き上げた。クラブの経営権は日テレが引き受けたものの、ベレーザ・メニーナは縮小を余儀なくされた。さらに追い打ちをかけるように「女子サッカーの厳冬期」が訪れようとしていた。(第2話【女子サッカー「冬の時代」 寺谷が「お前たちは下手くそ」と言う理由】に続く)