【テキスト版】CROSSOVER「STANCE」深堀圭一郎×平瀬智行

高校2年の時に燃え尽き症候群でスランプに…温泉治療でリフレッシュして復活!

深堀:高校はサッカーの名門、鹿児島実業に進学されましたが強豪校ならではの指導や練習方法などで驚いたことはありましたか?

平瀬:本当にビックリすることの連続でした。まずは、中学生のときも坊主頭でしたが「引き続き坊主」だといわれて(笑)。当時から、高校は基本的に髪を伸ばしていい学校が多かったですから。しかし、鹿児島実業では、新学期が始まる4月にサッカー部は全員頭を刈るんですね。朝練も毎朝7時から上半身裸で練習していましたね。それが、当時の鹿児島実業の伝統だったんです。寒い日もありますし、冬や雨の日などは大変でした。今はそういう練習はありませんけど。

深堀:上半身裸でサッカーですか。それは今振り返っていい練習だったと思いますか?

平瀬:風邪などは引かなかったですね。免疫が付いたのかも知れません。

深堀:体が強くなったんですかね。練習量なども中学生時代に比べて増えましたか?

平瀬:そうですね。学校の授業が終わる16時30分ぐらいから練習が始まって、22時ぐらいまでやっていました。そのあとも自主練して、朝から再び練習です。

深堀:その時期は、遊ぶ時間などは全然ない感じですね。

平瀬:一切ないです。一応、月曜日は練習が休みなのですが「ミーティング」になることが多くて。

深堀:上下関係などはどうでした?

平瀬:僕が1年生のときに、2学年上に城彰二さんや遠藤彰弘さんなどが先輩でいたのですが、トレーニングも含めてイジメなどは一切なかったですね。

深堀:過酷な練習のなか、平瀬さんは1年生からレギュラーに抜擢されたんですよね?

平瀬:実力というよりは、奇跡的になれた感じですね。自分でもレギュラーに選ばれた理由がよく分からないんです。先程も述べましたが、当時は僕の2学年上に城さんや遠藤さんがいて、鹿児島実業「史上最強メンバー」といわれるぐらい強かったですから。

深堀:そんな状況で選ばれるのは、やっぱり上手かったからでしょう。

平瀬:いえ、周りが上手すぎたので、毎日「なんで自分が出ているんだろう」と不思議に思っていましたよ。

深堀:当時から城さんは上手かったんでしょうか?

平瀬:それはもう!めちゃくちゃ上手かったですし、学ぶことも多かったですね。それでも「城さんのプレーは自分にはできない」と思いました。

深堀:僕も周りに上手い人が数多くいて「そういう人たちに手が届かないとき」に落ち込んだりしたのですが、平瀬さんは高校時代にスランプで悩んだ経験などはありますか?

平瀬:1年生の時は無我夢中でプレーしていた感じで、先輩たちも上手かったので楽しくプレーしていましたね。しかし、高校2年生のときに、城さんら先輩が卒業した途端「今までやってきたのと全然違うサッカー」が現れたんです。自分が「エースといわれる存在」になってから、上手くいかなくなりました。体も疲れていましたし。

深堀:そのときはどのように自分のコンディションを戻したんですか?

平瀬:体がいうことを聞かなくて、燃え尽き症候群のような状態で、何をやっても上手くいきませんでした。毎日「サッカーをやめたい」と思っていましたね。夏合宿に入ったときも少し腰が痛かったので、意を決して先生に「痛みがあって走れません」と直談判したんです。その結果、先生の勧めで合宿期間中は練習には参加せずに、朝夕の2回温泉治療を行うことになりました。これでコンディションが回復していったんです。

深堀:いい先生だったんですね。やはり、目先だけではなく「選手を将来的にどう導いていくか」を考えるのが指導者には必要だと思います。

平瀬:あのときは本当に助かりました。当時、もし練習を続けていたら僕は潰れていたと思います。温泉治療が終わってリフレッシュした後は、3年生の時点でベストコンディションに持っていけるようにと考え、まずはサーキットトレーニングで体作りに力を入れました。

深堀:温泉治療で「休養することの大切さ」や「体作りの必要性」を学ばれたのですね。

平瀬:そうですね。実際に、3年生の夏過ぎころから結果が徐々に出て、全国高校サッカー選手権大会で優勝できました。

深堀:闇雲に練習するのではなく、「コンディションを維持することの大切さ」を改めて感じます。

ジーコ監督に憧れ鹿島アントラーズに入団…プロ入り後のスランプは基礎の反復練習で克服!

深堀:平瀬さんのプロ入り後のことについて伺います。高校卒業後、鹿島アントラーズに入団されましたが、どのような経緯でチームを決められたのですか?

平瀬:当時、ジーコ選手が鹿島に在籍していたのが大きいですね。僕の憧れの人でしたから。それと高校のトレーナーさんが、鹿島でも同じ仕事をしていたんです。そのため、チームの雰囲気などを理解していました。僕が高校1年生のころから、スカウトの方が定期的に見に来てくれたのもうれしかったですね。

深堀:それは選手としてはうれしいですよね。チームを選ぶ際は、学校の監督さんなどの影響もあるのでしょうか。

平瀬:当時は、先生から何チームか提案されて、そこから選ぶ感じでした。ちなみに、僕は『鹿島アントラーズ』と『名古屋グランパス』の2チーム。自分的には、鹿島に決めていたので迷いはありませんでしたね。Jリーグで優勝を狙えるチームでしたし、日本代表を目指すのにも最適だと思いました。ジーコ選手以外にも、レオナルド選手やジョルジーニョ選手など、世界的なスーパースターが所属していましたから。

深堀:世界で活躍していたサッカー選手が、平瀬さんに影響を与えたんですね。ジーコさんは後に鹿島の監督にもなっていますよね。

平瀬:最初は怖かったです(笑)。基本に忠実な人なので、シュート時にアウトサイドで打つと怒られました。インサイドでボールを蹴りなさいと。シュート自体も無理なところからは打たないで、パスが出せるときはそちらを選択するのがジーコの教えでしたね。

深堀:2000年には、柳沢敦選手とツートップを組んで三冠を達成していますが、名門クラブでレギュラーを勝ち取るのは大変だったと思うのですが。

平瀬:僕は入団してから3年間で、1試合しか出場していないんです。当時は「このまま終わるのでは」と思っていました。しかし、途中でブラジルのサッカーチーム『CFZ・ド・リオ』にレンタル移籍で留学させてもらい、修行をする機会に恵まれたんです。

深堀:どのぐらいの期間、行かれていたのですか?

平瀬:7か月くらいで1シーズンです。このときはフラメンゴやバスコダガマといった一部リーグの強豪チームとも頻繁に練習試合を重ねて。当時は、ロマーリオ選手など現役のブラジル代表もいて、練習試合がいい勉強になりました。

深堀:そういう経験が、シドニーオリンピック予選の最多得点に繋がったんでしょうね。

平瀬:オリンピックは、Jリーグで出場できず苦しんでいたときに訪れたチャンスでした。大事な試合でフォワードにケガ人が出て初先発することになって。このときに必死にプレーして4点取ったんです。奇跡は続くもので、トルシエさんが偶然この試合を見ていて、日本代表に選ばれました。当時は代表があまりにも縁遠かったので、トルシエ監督のことを知らなくて思わず「誰ですか」と聞いた自分がいましたけど(笑)。

深堀:Jリーガーなのに(笑)。ちなみに、点が取れるのはどういうときですか?

平瀬:「積み重ね」だと思います。僕の場合は、試合に出られないときに当時の鹿島のサテライトチームの監督だった関塚隆さんから指導を受けた基礎の反復練習が成果に繋がったと思いますね。

深堀:基礎練習は地味ですが、僕もその先にしか見えてこないものがあると思います。

平瀬:今は子供たちにサッカーを教える機会もありますが、「基礎練習は面白くない」と。これはすごくもったいないと思います。

深堀:平瀬さんは基礎練習を楽しくやっていたのでしょうか?

平瀬:アマチュア時代は楽しかったですね。しかし、プロになってからは「この先どうなるのだろう」という不安の方が強かった。それでも「積み重ねが大切」と自分に言い聞かせて腐らずに実践しました。例えば、オリンピック予選で僕が取った17得点は奇跡的だと思いますが、これも「積み重ね」から生まれたものです。ヘディングが下手だったので、当時の鹿島アントラーズのトニーニョ・セレーゾ監督から「練習するぞ」といわれて特訓を始めたんですね。関塚さんが左、セレーゾ監督が右のコーナーから蹴ったボールを連続でヘディングシュートする。この練習を繰り返しました。

深堀:本当に「反復練習は力なり」ですね。

三浦淳寛選手に救われた移籍後の戸惑い…その教えを若い選手に言葉ではなく行動で示す!

深堀:2004年に鹿島アントラーズからヴィッセル神戸へ完全移籍されましたが、チームが変わるときはどんな気持ちなのでしょうか?

平瀬:当時は「少し環境を変えたい」という気持ちがありました。そんなときに話をいただいて、「行っちゃえ」みたいな感じで、誰にも相談せず決めちゃいました(笑)。

深堀:移籍してから問題などはありませんでしたか?

平瀬:サッカースタイルが違うことに戸惑いましたね。当時の鹿島アントラーズはパスを繋ぐのが中心で、自分が動けばボールをもらえる環境だったんです。ところがヴィッセル神戸は、後からドーンとロングボールを入れて、カウンターで攻めるスタイル。僕がこのカウンター攻撃に慣れていなかったので最初は難しかったです。

深堀:それは監督さんやチームの方針だったのでしょうか?

平瀬:当時のヴィッセル神戸の戦術でした。

深堀:戦術の違いに戸惑ったとき、チームの先輩には相談をしましたか?

平瀬:いいえ、自分で考え抜いて最終的には「成るようになる」と開き直りました。その後、移籍2年目にスチュワート・バクスターさんが監督に就任してからチーム戦術も変わり、次第にカウンターサッカーがなくなっていったんです。このときの中心選手は三浦淳寛さん。そこから面白いサッカーに変貌しましたね。ちょうどJ2に落ちて1年目だったこともあり、J1復帰を目指しチームもひとつにまとまっていました。しかもバクスター監督が面白い人で、キャンプ中に僕のコンディションが上がっていないときに「君はコンディションがよくならない限り一切使わない」とハッキリいわれて(笑)。

深堀:コンディションとは、体のキレみたいな部分でしょうか?

平瀬:まさに体のキレです。そのときの僕を見て仕上がっていないから使わないと。正直、また「このパターンか!」と思いました(笑)。それで仲の良かった三浦淳寛さんに相談したら「今日から全体練習が終わった後にオレと毎日シュート練習するぞ」といわれたんです。このときから半年間ずっと僕のシュート練習に付き合ってくれましたね。

深堀:三浦淳寛さんはすごいですね。後輩の面倒も見てくれるのですから。

平瀬:本当にそう思います。当時、三浦淳寛さんはアキレス腱を痛めていたのですが、それでも僕に付き合ってくれましたから。

深堀:平瀬さんは、その後2008年にベガルタ仙台へ完全移籍されていますが、このときはいかがでした?

平瀬:ベガルタ仙台に移ったときは、戦術の変化はありませんでした。それでもチームにフィットしたのは移籍した年の4~5月ごろでしたが。

深堀:ベテランという立場での移籍でしたが、役割などは変わりましたか?

平瀬:僕は言葉で喋るのが苦手で「行動で若手に示す」タイプですね。特に、三浦淳寛さんが僕にしてくれたことを「後輩にも伝えたい」と思ったんです。当時のベガルタ仙台の手倉森監督からも「若手を引っ張って欲しい」といわれたので。例えば、自分が居残りでシュート練習をして「若手に気づいてもらえれば」と。結果的に1か月後ぐらいから若手も練習に参加し、半年ぐらい一緒に練習して僕は徐々にフェードアウトしたんです。

深堀:そのような練習でチームも変わりましたか?

平瀬:J2から抜け出せずに苦しみましたが、手倉森監督になって雰囲気も良くなり選手の意識にも変化が出て、J1に手が届きそうなところまでレベルが上がりました。

深堀:改めて「チームの一体感や戦い方の共通認識の重要性」を感じます。そして「練習における高い意識と自分を磨き上げることの大切さ」も見えますね。2010年に現役引退されて、今はベガルタ仙台のクラブコーディネーターをされていますよね。

平瀬:はい、チームは選手や監督などの現場だけが頑張っても上手くいきません。やはり、僕らのような裏方が「本気でチームを強くしたい」と思う必要があるんです。

深堀:現在はクラブコーディネーターですが監督に興味はありますか?

平瀬:ありませんね。どちらかといえば「チームの強化」に携わりたい。ただし、サッカー教室で子供たちに教えているので、C級ライセンスは取りに行こうと考えています。

深堀:平瀬さんは経験が豊富ですし、今後もさまざまな面でサッカー界に貢献できると思いますね。今回はありがとうございました。

▼平瀬智行/ひらせ・ともゆき

1977年5月23日、鹿児島県出身。鹿児島実業高校で活躍後、鹿島アントラーズへ入団。サッカー元日本代表。現在はベガルタ仙台のクラブコーディネーターを務める。

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