【テキスト版】CROSSOVER「STANCE」深堀圭一郎×荻原次晴

双子の兄が金メダルで時の人となり、自分は偽物扱い…存在を証明するため五輪出場を決意!

深堀:次晴さんは高校を卒業後、兄の健司さんと共に早稲田大学に進学しスキー部に所属されています。全日本の強化指定選手などにも選ばれていますが、国際大会も視野に入っていたのでしょうか。

荻原:国際大会では、時には「ズルイ」と感じることもしなければ勝てない、と思いました。例えば、人が滑っている前にスキー板を出してブロックしたり、ストックをライバルの目前に出したり。そして1992年のアルベールビル五輪の直前、ノルディック複合の日本チームに外国人スタッフが入り、海外でも臆することがなくなり成績が上がった。それが、アルベールビル五輪のノルディック複合、団体競技の金メダルに繋がったと思いますね。

深堀:僕ら世代も含めて、先輩ゴルファーの多くは「欧米人はみんなゴルフが上手い」と感じる傾向があったように思います。理由は、情報が少なかったからです。そういう意味では、ノルディック複合も同じだったのではないでしょうか?

荻原:当時は、情報が4年に1度しか入ってきませんでした。選手なのに「世界にどんなライバルがいるか」を見たこともなかった。しかし、健司たちがアルベールビル五輪の団体競技で金メダルをとったことで認知度が上がり、少しずつ変わっていきました。

深堀:基本的に、ノルディック複合はヨーロッパの選手が強いと思うのですが、練習方法などを参考にすることはあったのでしょうか?

荻原:当時、ノルウェーにエルデン兄弟というトップ選手がいて、僕らと同じく兄弟で競技をしていたこともあり、パフォーマンスを参考にしていました。エルデン兄弟の練習は、僕らはランニングなら1時間程度で十分だと思っていたのを、彼らは毎日2~3時間走り続けた。そんな練習で、僕が最初に思ったのが「耐えられない、ついて行けない」と。そして、世界を目指すのは「もういいや」と思いました。

深堀:大学時代に伸び悩んだのは、それが原因だったのでしょうか?

荻原:そうですね。しかし、健司は「世界で勝ちたい、オリンピックに出たい」といった。そして、大学4年で日本代表に入り、アルベールビル五輪に出場し、団体で金メダルに輝いたんです。僕は、スキー仲間と健司たちの活躍を大学の寮で見ていましたが、このとき「本当に健司か」と思うぐらいレベルが高く、兄弟ではなくなった気さえしました。

深堀:兄の健司さんは、物すごい練習をしていたのでしょうか?

荻原:はい、反対に当時の僕は練習をさぼりがちでした。ノルディック複合で世界を目指す気持ちが全然なかったので。実は「DJになりたい」と、ラップミュージックの世界にハマっていました。しかし、同じ顔をした双子の健司がオリンピックで金メダルをとり有名になると、頻繁に間違われるようになって。それが嫌でしたね。もし、健司と顔が似てなくて年が離れていたら、僕はオリンピックに出場していなかったと思います。

深堀:お兄さんの大活躍で嫌な思いをされて、そこから「自分も」という気持ちになったのでしょうか?

荻原:玄関を一歩出ると「荻原健司さんサインください、写真撮って」といわれましたから。僕が「違います、弟の次晴です」というと、ガッカリされる。気持ちは分かりますが、キツかった。時には「荻原の偽物か」と吐き捨てられたり、生きていることを否定されている感じで。それからは、引きこもりましたね。ところがある日、気づいたんです。もともと健司は体操もスキーも下手だった。健司が金メダルを獲れたのなら自分も本気になればオリンピックに出られるのではないかと。そして、自分が「偽物ではないことを証明してみせる」と、ノルディック複合に本気で取り組み始めたんです。

深堀:スキルも落ちていたでしょうし、コンディションを上げるのは大変だったのでは?

荻原:僕のなかに甘い考えがあって「本気になれば健司にすぐ追いつける」と思っていたんです。ところが全然ダメでした。唯一の希望は、リレハンメル五輪の開催が決まっていたことです。それを目標に一生懸命トレーニングに励みましたね。その結果、リレハンメル五輪の代表に選ばれそうなレベルまで到達したんです。ところが「急成長しているが国際大会の実績がない」という理由で、最終的には選出されませんでした。

深堀:当時は選考基準にも曖昧な部分があったんでしょうね。

リレハンメル五輪の選考で落選…いつか見ていろよ!という想いで世界選手権で金メダル

深堀:次晴さんがリレハンメル五輪を目指し懸命にトレーニングされたと伺いました。当時はスキーにすべてを捧げた生活だったと思いますが、どのような想いでしたか?

荻原:双子の兄の健司に間違われるのが嫌で頑張りましたね。このとき初めて、自分でトレーニング計画も立てたんです。それでも最初の1年間は苦しみましたが、2年目に入って徐々に成績が伸びてきた感じです。

深堀:結果もよくなり「リレハンメル五輪の代表に選ばれるかも」と思っていたら、選考で漏れてしまった。必死にやってきたのに出場を逃すと心が折れると思うのですが?

荻原:正直「どうして選ばれないのだろう」という気持ちはありました。しかも、僕が代表から落選したリレハンメル五輪のノルディック複合の団体競技で、健司達が再び金メダルを獲り連覇を果たしたんです。それがすごく悔しくて。

深堀:健司さんが金メダルに輝いた瞬間をどこで見ていたんですか?

荻原:当時、日本代表のBチーム(2軍)のヨーロッパ遠征中で、そこで見ました。しかも、偶然帰りの飛行機がリレハンメル五輪の出場選手と一緒で。当然、空港にはメディアやファンの人たちが金メダルチームを待ち構えていました。ところが、健司たちは飛行機を降りるなり記者会見場へ。そして、僕がゲートから出た瞬間、金メダルチームが記者会見場へ直行することを知らなかったメディアやファンの方々から「おめでとうございます!健司さん」という声が飛び交って。これは本当に恥ずかしかったですね。

深堀:そんな「悔しい気持ち」をエネルギーに変えられたわけですね。

荻原:「いつか見ていろよ」という想いでした。実際に、リレハンメル五輪の翌年からは日本代表のAチームに呼ばれ、健司たちと海外遠征をするようになったんです。国際試合でも、時には健司が優勝、僕が2位という好結果を残しました。また、1995年の世界選手権の団体戦では、健司とチームを組んで金メダルを獲りました。その結果、僕の名前も少しずつメディアで取り上げられるようになって。とはいえ、話題の中心が健司なのは変わりません。例えば、兄弟でスポーツイベントに呼んでいただいたときは紹介の仕方が「オリンピックのノルディック複合の金メダリスト!荻原健司さんにお越しいただいております。また、弟さんも来ています」と。僕は名前すら呼んでもらえなかった。この状況を覆すには、オリンピックで結果を残すしかない。しかし、日本代表に定着し好成績が残せるようになると「悔しい気持ち」が薄れ、次第に国際大会での成績が悪くなったんです。そこには「甘え」があったと思います。

深堀:モチベーションを保ち続けることの難しさですね。プロゴルファーのなかには道具の進化に対応できず、感覚の違いに苦しむ選手が数多くいます。スキーはヨーロッパが主流で、日本人選手の活躍が目立つたびにルール変更が行われたように感じます。やはり、ルール変更時の対応などは難しいのでしょうか?

荻原:そうですね。例えばジャンプのフォームの主流が変わったときも、対応できず成績を落とした選手が数多くいました。やはり、時代の進化に合わせることが不可欠です。

深堀:僕らは、道具やフィジカルのスペシャリストのサポートを受けながら、新しいことを取り入れます。ノルディック複合競技でも、コーチやスタッフなどが緻密に分析して対応策を考えるのでしょうか?

荻原:日本代表で考えていく形です。当時は、科学的なトレーニング方法なども取り入れられたころで、クロスカントリーの効果的な練習も実現できるようになりましたね。

深堀:その成果が長野五輪へと繋がっていくわけですね。

荻原:実は長野五輪の前に一度B代表に落ちているんです。そのとき、周りの必死に頑張っている選手たちを見て「もう一度上を目指す」という気持ちが湧きました。あのとき、もしもB代表に落ちていなければ、僕は長野五輪に出場していなかったかもしれません。

深堀:B代表に落ちる挫折を乗り越え、長野五輪の出場を決めたときの心境は?

荻原:手が震えるほどうれしかったですね。それと同時に「このままオリンピックに出場して大丈夫か」と不安にもなりました。

深堀:挫折を経験してからトップの位置まで戻るのは大変なことだと思いますし、だからこその「喜び」と「不安」だったのではないでしょうか。

死ぬ気で空に飛び出して長野五輪で入賞!引退後はウィンタースポーツの普及に尽力

深堀:長野五輪に出場されたときのことや現役引退後の活動などについて伺います。次晴さんは長野五輪で悲願のオリンピック出場を果たされたわけですが、ノルディック複合の団体戦で5位入賞、個人戦6位入賞という成績に関して、どう受け止めましたか?

荻原:出場する前は、世界ランキングが低い状態で代表に選んで頂いたので「好成績で期待に応えられる」とは思っていませんでした。頑張っても30~40位ぐらいで終わるのでは、と不安だったんです。しかし本番当日、一生に一度のオリンピックだから「死ぬ気で空に飛び出してみよう」と本気で考えました。その気持ちでスタートを切ったら、上手く風がつかめてK点を超えることができたんです。結果的に、健司よりも遠くに飛べてジャンプで3位になれた。このときに「人は気持ちひとつで大きく変わる」と感じましたね。そして、以前から「死んでもいい」という強い気持ちでテイクオフすればよかったとも思いました。とはいえ、最終的には入賞を果たせたのでよかったです。

深堀:スポーツ選手にとってメンタルの強さは大切ですよね。結果について、ご家族の反応はどうでしたか?

荻原:両親はすごく喜んでくれました。大会当日も、長野県白馬村のクロスカントリー会場の一番キツイ上り坂で、両親が応援してくれたんです。僕らがツライと感じる坂道で、母が「次晴!」と大きな声を出してくれたのがうれしかった。それと同時に、昔は母に嫌な思いをさせてしまい迷惑をかけたな、という思いも頭をよぎりました。兄の健司が有名になって、僕が人違いをされたときは、悔しい気持ちを母にぶつけていたんです。「何で双子に産んだんだ」みたいなヒドイ言葉も浴びせていました。自分のなかで「いってはいけない」と分かっていながら、誰かに八つ当たりしないと精神的にもたなかったんです。本当に「オリンピックが終わったら謝りたい」と思いましたね。

深堀:ゴルフ界でもそうですが、兄弟でスポーツをすると、どうしても片方が注目されたり、比較されるケースが出てくると思うんです。その結果、心が少しネジ曲がって環境のせいにしたり。でも、最終的にはそんな難しい状況をよい方向へ変えた力はすごいと思います。次晴さんには、ぜひ兄弟で苦しんでいる人にメッセージを発信して欲しいですね。努力が必ず報われるわけではないのがスポーツで、自分の気持ちも含めて新しい道を見出していくことが求められますから。次晴さんは長野五輪後、現役を引退して、スポーツキャスターやウィンタースポーツの普及活動などで活躍されていますが「痛みを知って乗り越えた人」は、いろいろな角度から物事を伝えられると思います。

荻原:最初はスポーツキャスターなんてカッコよすぎて無理かも、と思ったんです。しかし、ノルディック複合の認知度を高めて、ゴルフや野球、サッカーといったメジャースポーツ出身の方々と肩を並べられるようなポジションを目指すには「スポーツキャスターという肩書で活動するのもよいのでは」と考えました。

深堀:2014年のソチ五輪で、渡部暁斗選手がノルディック複合の個人戦で銀メダルを獲得した瞬間、解説の次晴さんが号泣したのは今も語り草ですよね。あのときの心境は?

荻原:ノルディック複合は「日本のお家芸だからメダルが取れますよね」と多くの方にいわれながら、実は20年間近く期待に応えられていなかったんです。そんなときに渡部選手がソチ五輪で銀メダルに輝いた。その瞬間、過去の苦しい時代を思い出し、うっかり泣いてしまいました(笑)。

深堀:関係者の方々は、本当にうれしかったでしょうね。

荻原:特に渡部選手は健司が指導をしていて、家族ぐるみの付き合いだったので感慨深かったです。ちなみに、放送を見た友人には「泣きすぎ、女性アナウンサーにフラれたみたいだった」といわれました(笑)。

深堀:それだけ大きな感動がだったのですね。最後に次晴さんの今後の夢について聞かせてください。

荻原:今はスポーツキャスターとして「2020年の東京五輪にどう関わるか」を常に考えています。そして、ウィンタースポーツを今よりも多くの方に知っていただき応援してもらうため、自分が「どういう振る舞いをすればよいか」も考えながら活動しています。

深堀:次晴さん世代の頑張りがウィンタースポーツや冬季オリンピックを身近にしたと感じます。これからも素晴らしい活動を続けてください。今回はありがとうございました。

▼荻原次晴/おぎわら・つぎはる

1969年12月20日、群馬県出身。中学から双子の兄・健司とともにノルディック複合を始める。1998年、長野五輪で代表入り。同年、現役を引退。現在はスポーツコメンテーターなどで活躍中。

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