【テキスト版】CROSSOVER「STANCE」深堀圭一郎×清水宏保

空気に呑まれ不本意に終わったリレハンメル五輪…その後はトレーニングで自信を構築!

深堀:清水さんが世界デビューしてからについて、お話を伺いたいと思います。海外は環境が違いますし、ライバルも多かったと思うのですが。

清水:まず、国内と大きく違うのが水でした。リンクの氷が変わってしまうんです。これが滑りに影響しますし、時差なども克服しなければいけません。しかも、僕が日本代表として初めて海外の試合に出場したときは、ライバルの外国人選手の身長が190cm以上とが大きかったんです。向こうにしてみれば、日本代表は「なぜ小学生を連れて来ているんだ」という感じだったと思います(笑)。そして、今と違い昔はスタートの順番が、タイムの速い選手からでした。僕は最終組でしたが、上位選手のタイムを抜いて優勝しちゃって、周囲は相当ビックリしていました。

深堀:外国人選手との体格差を埋めるためのトレーニングなどは行いましたか。

清水:メチャメチャやっていました。「世界で一番トレーニングをしたのではないか」と思います。日本で今流行っている『タバタ式トレーニング』という方法があるんですが、これは高校生のころに僕たちのために開発されたんです。ハードなトレーニングで、当時の日本のスピードスケートの選手を支えていました。ものすごい高強度の負荷で、自転車を20秒間全力で漕ぐんです。その後、10秒間休んで、再度20秒間全力で漕ぐ。これを8回繰り返します。

深堀:その追い込み方はすごい。結果として、1993年のイタリア開催のワールドカップで、初出場ながら優勝。18歳での栄冠でしたが、このときはどうでしたか。

清水:正直、実感が薄かったですね。「あれ、勝っちゃった」みたいな感じです。もちろん、優勝した喜びもあったのですが、オリンピック以外の試合では世界選手権がメインで、それ以外は調整する選手もいましたから。優勝しても「本当の実力は分からない」という気持ちでしたね。

深堀:清水さんは、ワールドカップや世界スプリントなどの活躍により、19歳で1994年開催のリレハンメル五輪代表に選ばれたわけですが、初のオリンピックはどうでした?

清水:4年に一度しか開催されない大会ですから、プレッシャーもありましたし、他の大会とは雰囲気が全然違いましたね。僕は日本チャンピオンを取り、オリンピックに出場しましたが、当時は「出ること」しか考えていなかったんです。そのため、オリンピック会場の空気感に呑まれました。皆が強く見えて、落ち着きを取り戻せなかったんです。

深堀:結果は500m が5位、1000mが19位とメダルには届きませんでした。大会が終わった後、ご自身での評価はどうでしたか。

清水:「情けない気持ち」でいっぱいでしたね。メダルを取る実力があったのに結果を残せなかったので。「全力で滑れば勝てる」と思っていましたが空回りしたんです。さらに、ライバルだったアメリカの選手が1000mで世界記録で優勝した姿を見て、4年後のオリンピックで戦うための「心や身体の準備」に強く向き合うようになりました。

深堀:日本人では、堀井学選手がいい刺激になりましたか。

清水:先輩で同部屋、さらにライバルだった方が銅メダルを獲得したので「悔しい気持ち」はありましたね。

深堀:その想いを晴らすのは4年後ですが、どんなトレーニングをされたのでしょう。

清水:1年ごとに目標設定を行いました。そしてトライ&エラーで、トレーニングメニューや試合への挑み方など、さまざまな面で挑戦しましたね。いろいろなことを試して「自分に合う方法」を取り入れました。

深堀:清水さんは、自分を限界まで追い込む練習を現役時代ずっと続けられました。やはり、その効果を強く感じていたのでしょうか?

清水:心が弱かったんです。だからこそ、ものすごい量のトレーニングを行い「しっかり練習してきた」という自信を持ちたかった。ここまでやってダメなら仕方がないと。

深堀:アスリートが強くなれるのは、「怖さ」や「弱さ」を知っているからだと思います。例えば、震えていても自分らしくプレーできるというか。「ここまでやった」という自信は持っていないと力が発揮できないと感じますね。

清水:スタート前は本当に緊張してそうなります。構えたときに、足がガクガクするんです。それを何度も経験することで「落ち着ける自分」を作り上げられると思いますね。

深堀:弱さを受け入れ、努力と経験で克服する。アスリートに欠かせないことだと思います。

リンクの真ん中で大の字に寝て自分を取り戻し、長野五輪で念願の金メダルを獲得!

深堀:1998年に開催の長野五輪に出場されたときのことについて、伺いたいと思います。当時、清水さんが500mで金メダルに輝いたシーンをテレビで拝見し「躍動感がすごい!」と感じました。ご自身は「勝てる」という気持ちはあったのでしょうか?

清水:長野五輪のときは「勝てる」と思っていましたね。「しっかり準備してきた」という自信もありましたから。大会では2日間滑ったのですが、1日目は「全力でいくとミスが出る」と考えて8割の力に抑えました。それで2~3番目にいれば、翌日は大丈夫だろうと。ところが、初日に1位。これでトップなら「いける!」と思い、翌日は「全力に近い状態で滑ろう」と決めました。しかし、朝起きたらもすごく体が重くて。前日まで緊張して全然寝られなかった反動で、逆に眠り過ぎてしまったんです。

会場に入っても体が動かずマズイと思っていたら、海外の選手が転倒して競技が20分程遅れたんですね。そのときにコーチから「スケート靴を脱いで休もう」といわれ、リンクの真ん中で大の字に寝ました。これで力が抜けて体が軽くなり「今までの自分」に戻れたんです。スタートラインに立つと、会場からの大声援も響いてきて「絶対にいける」と確信しました。考えていたのは「スタートの一歩」だけです。これが上手くいけば大丈夫だと。

深堀:ウイニングランや金メダルをかけられたときはどうでしたか?

清水:達成感の塊といいますか「やり切った」という感じでした。それまで相当な重圧がありましから、この時間を「存分に味わいたい」と思いましたね。そして、もし父が生きていたら「どんな言葉をかけてくれるのだろう」とも考えました。表彰式前、バックヤードで、すでに涙がポロポロ溢れてきて。アレ、もう泣いちゃっている、みたいな。

深堀:オリンピックで金メダルを取るというのは、「努力」というレベルを超越している世界だと感じますね。長野五輪の後、次のソルトレイクシティ五輪にも出場されましたが、気持ちの切り替えはどうでした?

清水:実は長野五輪の直前ぐらいから、靴のカカト部分が離れる構造のスラップスケートが使われるようになり、道具が劇的に進化したんです。タイムでいえば、1週で1秒ぐらい短縮できるようになった。それもあって、僕は金メダルを取った数週間後に世界記録も出せたんです。このとき「まだタイムを縮められる」と感じて「もう一度金メダルを取りたい」という新しい目標ができました。そこからは、オリンピック連覇を目指して、誰も到達したことがないタイム領域に入るための技術を追求しましたね。そして、世の中の人に「もっと自分のことを知ってもらいたい」という気持ちになりました。

深堀:結果として、02年に開催されたソルトレイクシティ五輪は500mで銀メダルだったわけですが、ご自身の中では長野五輪の金メダルより価値を見出していると聞きました。それには、何か理由があるのでしょうか。

清水:実はソルトレイクシティ五輪が開催される3カ月ぐらい前に交通事故に遭い、腰がまともに動かなくなったんです。最終的には、痛み止めの注射を打って競技に挑みました。その状況で、銀メダルを取れたのは自分の中で評価できますし、うれしかったですね。心が折れそうなときもあったので「よく持ちこたえた」と思います。

深堀:清水さんは36歳まで現役を続けられましたが、引退は怪我の影響もありましたか?

清水:腰の状態がよくならず、練習も思うようにできなくなりました。手術もしましたが完治せず、今も後遺症が残っています。最終的に引退を決めたのは、競技者としての限界や心の限界を感じたから。そして、引退後のセカンドキャリアも考え始めましたね。

深堀:13年に整骨や鍼灸の治療院を開かれていますが、きっかけは何だったのでしょう。

清水:引退後、大学院で医療経営学を学びましたが、そのときに「アスリートがリハビリを支える」という発想になったんです。実際に、自分も怪我をしてリハビリの経験がありますから。例えば、怪我が原因で競技を続けられなくなった選手が医療を支える、そんな環境を作っていければ「アスリートの大きなセカンドキャリアの実現と社会貢献につながる」と考えました。

深堀:清水さんの「次の世界を作り上げていく行動力」は、本当に素晴らしいと思います。今回は貴重なお話をありがとうございました。

▼清水宏保/しみず・ひろやす

1974年2月27日、北海道出身。1998年の長野五輪では500mで金メダル、1,000mで銅メダルに輝く。02年ソルトレイクシティ五輪の500mで銀メダルを獲得。10年、現役引退。

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