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スポーツビジネス最前線を走り続けてきた半田裕が語る、業界で生き抜くための5つの要素【前編】

◆誰もが知る、あの超一流選手の担当に。

IMGでは自分が担当する選手が日本に来た時の滞在中のスケジュール調整・同行・空港までの送り迎えなどは全て任されることになります。ナディア・コマネチが日本に来た時には「コマネチ!コマネチ!」のネタで有名なビートたけしさんと会わせたこともあります(笑)

アイルトン・セナがヘルメットを日本のメーカー・SHOEIと契約していた時は、一旦現物がIMGの事務所に送られてきていました。それで中身を確認して、セナが手にする前に被ってみたこともあります。

IMGでは企画書作成、営業、契約、来日した選手のアテンドまで、すべて自分がワンストップで行います。同時に選手やチームに関する数字を背負うことになります。1年間の売り上げ目標があって、2億〜2億5000万円ほどのノルマが設定されていたはずです。だから数字を達成することへの厳しさはありました。そのせいか、実際僕が8年間所属していた中でも20〜30人は辞めています。年1回副社長と面談があるのですが、その時に「半田くんいくら欲しいの?」と聞かれるんですよ。額に応じてノルマ設定されると考えると怖いですよね(笑)

とはいえ、選手も複数年で契約している人もいますし、IMGでしか売れないビッグネームもいるので、クライアントに対して強い立場でいられることもあります。セナに至っては1億円以下の案件はすべて断ることになっていました。結局そのくらいの金額になってくるとCM撮影のための数日間の拘束など、選手にやってもらう内容にそこまで差がないからです。

逆に売れない選手もいます。そこの感覚はある程度分かるようになりました。今は選手のマネジメントについて志のある若い人が増えていますが、そんな簡単にお金に変えることはできないということだけは言えます。

◆日韓W杯を見据え、アディダス・ジャパンへ。

サッカーの仕事も増えていく中でクーバーコーチングのトム・バイヤーと親しくなりました。そのトムからアディダスがデサントとの契約が切れたタイミングで、「アディダス・ジャパン」を立てるということを教えてもらいました。そして、その代表がトムの友達であるクリストフ・ベズで、人を探していると言われたんです。それがちょうど日本がサッカーW杯初出場を決めたフランス大会前年の1997年であり、2002年の日本開催も決まっていたため、まだサッカーはこれから伸びると思いました。

トムを通してクリストフ・ベズと会い、簡単なレジュメの提出と条件を提示したら、どんどん話は進んでいきました。でも最後にベズからどうしても会ってほしい人がいる、と。それがロベルト・ルイ・ドレフィスでした。全世界のアディダスのトップで、たまたま東京に来ていたんです。

真夏の暑い日、銀座のホテルにスーツでネクタイを締めて行ったら、現れたのはヨレヨレのアディダスのポロシャツを着た人物。紛れもない、彼こそがロベルト・ルイ・ドレフィスでした。結局その場で2、3質問に答えただけで、合格しました(笑)その時点では、外からアディダス・ジャパンに入った日本人は僕以外1人もいないです。

そこから2002年の日韓W杯までは怒涛ですよ。1998年には長野五輪もありましたし、あっという間でした。

◆迫り来る期限と巨大化する組織を作り上げる中で。

仕事の密度の絶対的な比較でいうと、IMGに入って4年間でネスレ8年分の仕事を、アディダスの2年間でIMG8年分の仕事をしたくらいのスピード感でした。2002年という期限が決まっていて、それをずらせないというプレッシャーもあるわけです。加えて僕1人だったのを最終的に600人になる組織にまで作り上げ、チームとして進めていく必要がありました。これらは面白かったと同時にめちゃくちゃしんどかったです。

そんな中でサッカー日本代表のスポンサーを僕とベズさんで獲ってからはもう怖いものはなかったです。W杯と日本代表両方のスポンサーになっているのはアディダスだけなんですから、持っている権利のパワーは物凄いものがありました。

サッカーW杯開催国の代表はずっと大会自体のスポンサーでもあるアディダスと契約しているという不文律もあったので、それを達成した日本代表との契約は特に印象的で、僕にとっても大きな仕事の1つでした。

◆ナイキでグローバルな視点でのスポーツマーケティングを

日韓W杯が終わった後、僕はアディダスで140日休みが溜まっていたんですよ(笑)そんなに休んだら、もはや辞めるのと同じだと思ったので、ベズ社長からは休職でと勧められましたが、一旦辞めさせてもらいました。

休みに入り、家族と旅行に出かけたりしている中で、ナイキからのアプローチがあったんです。正直アメリカの会社がフットボールをやりたいなんて…とどこかでバカにしていました。

でも最終的にアメリカのナイキ本社に行った時に会ったのはヨーロッパ人が多く、フットボールの話も普通にできるし、IMG時代の知り合いもいたりして、何か相性が良い感じがしたんです。『フットボールで世界No.1になりたい』とはっきり言っていましたし、この人達となら面白いことができそうだと思ったので、最後はブランドというわけではなく、この人たちと働きたいと言う思いが強くなり入ることにしました。アディダスをやめてから3ヶ月後のことです。

ナイキではかなりの日数海外に行っており、世界中のナイキの同僚と連携しながら物事を動かしていくことと、ナイキが目指す、よりライフスタイルに近いスポーツの在り方の提供という点で、学びはたくさんありました。

ナイキまでの経歴で僕は世界のほとんどの大きなスポーツイベントやそれに携わる選手達と関わってきました。でもその一方で自分のアイデンティティはやはり日本にあると思っていました。だから、その中でジャック坂崎さんがジャパン・スポーツ・マーケティングを立ち上げ、“日本版IMG”をやろうとしていたことが大変魅力的に感じたのでそちらに移り、さらにはその後のOSSの起業に繋がってきています。

▼半田 裕(はんだ ひろし・Office Strategic Service株式会社代表取締役)

1956年1月30日生まれ、大阪府出身。甲南大学法学部卒。 大学卒業後、ネスレ日本に入社。自身は中学生からハンドボール出身だが、社会人アメリカンフットボールチームでプレーし、28歳からは同時に日本社会人アメリカンフットボール協会常任理事を13年間務めた。1997年から2002年日韓サッカーW杯に向けて設立されたアディダス・ジャパンに創設メンバーとして参画し、日本代表との契約などに携わる。 日韓W杯後はナイキ・ジャパンにて主要競技のスポーツマーケティングの陣頭指揮をとる。2006年からはジャパン・スポーツ・マーケティング株式会社取締役を務めた。2009年にOffice Strategic Service株式会社を設立し、現在は複数のスポーツ関連企業の事業およびマーケティングのコンサルティングを行う傍ら、バンタンスポーツアカデミーにおいて次世代のスポーツビジネスを担う若者に教鞭を振るっている。

▼協力:AZrena(アズリーナ)

※後編へ続く

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