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スポーツビジネス最前線を走り続けてきた半田裕が語る、業界で生き抜くための5つの要素【前編】

長きに渡って、国内外のスポーツビジネスの第一線で活躍してきた日本人の1人、半田裕氏。半田氏は世界的なアスリートマネジメント会社・IMGで多くの著名選手を担当した他、アディダス・ジャパン創設メンバーとして日韓サッカーW杯に携わりました。

それ以降はナイキ・ジャパン、ジャパン・スポーツ・マーケティング取締役を経て、2009年にOffice Strategic Service株式会社を設立。現在は複数のスポーツ関連企業の事業コンサルティングを行いながら、バンタンスポーツアカデミーにおいて、明日のスポーツ界を担う若者に教鞭を振っています。

スポーツビジネスの最先端を走り続けてきた半田氏に東京五輪を見据えたこれからのスポーツ業界、選手のキャリア形成、今まで関わってきた選手とのエピソードなどを伺っていきます。

◆何気なく誘われたアメフトがスポーツ界への道を開く。

私はプレーヤーとしてはハンドボールとアメリカンフットボールをメインでやっていました。アメフトは社会人になってから、先輩にチームに入れられて、その先輩がチームの幹部だったので、同時に運営の方も手伝うことになりました。そこから28歳で日本社会人アメリカンフットボール協会(Xリーグ)の常務理事になり、それ以降13年間社会人として働きながら、ボランティアで務めていました。

協会ではマーケティングについての知識を活かせるようなことを頼まれたほか、プログラムや日程の作成、グラウンド確保など様々な協会の仕事をやるようになっていきました。…いつの間にか僕を誘った先輩は転勤でいなくなっていましたが(笑)。結局これが僕のスポーツに運営側として関わるようになったきっかけなんですよ。本業ではないところから、本当にたまたま広がっていっただけのことです。

僕が「人とのご縁を大切にしなさい」と言っているのはそういうことが起き得るからなんです。

アメフトに関わるようになった当時、駒沢第2競技場での社会人アメフトの試合には観客が500~1000人程度しか入っていませんでした。でも、半ば素人の僕が観ても面白い試合をしていたので、これはもったいないと。そこで、前回の東京五輪に使われたその施設の古い音響から、試しに会場に音楽をかけてみたんです。他にもプログラムのデザイン変更や、回数券を作ってみると人が増えていきました。初めはやらされていたけど、そうしたらだんだん僕も楽しくなってきて。

そういった小さいことを積み重ねていって人が入るようになり、最終的に東京ドームでも開催できるようになりました。僕から言わせれば文化祭も、駒沢第2の試合も、東京ドームの試合も、サッカーW杯も同じですよ。そして、その根本には“どうせやるならもっと楽しくやりたい”という、誰もが同じように持っているはずの気持ちがありました。

◆新卒では食品メーカーへ。スポーツ界の門を叩いたのは…?

僕は新卒でネスレに入ったのですが、26歳の頃、雑誌・POPEYEで初めてスポーツをビジネスにしている会社があることを知りました。IMGやジャック坂崎さん(トヨタカップ、フェドカップ、世界陸上開催実現に携わったスポーツマーケティングの第一人者)の会社などが載っており、こんな楽しいことをして、給料もらっている人がいるということをその時初めて知りました。ただ、この時点ではただの情報でしかなく、特に何か考えていたわけはありません。

でもいつからか食品メーカーとアメフトという全く畑違いの場所でやり続けることに疑問を持つようになっていたんです。できればIMGのような会社にいながら、アメフト協会の仕事ができるのならその方が親和性も高そうだと。では、その頃から何をしたかというと、とにかく「IMGを知っていますか?」と人に聞きました。インターネットも発達しておらず、僕の中でのIMGについての知識はPOPEYEで見た情報のみですから。

ある日IMGを知っている人と出会い、紹介してもらうことができました。ちょうどその時IMGはIVYリーグ(アメリカ名門大学のアメフトリーグ)選抜と日本学生選抜の試合を行いたかったようで、日本でのアメフト試合開催についてノウハウを求めていました。僕はアメフト協会でまさにそこに関わってきていたので、IMGに入れることになりました。

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