おやじゴルフニュース「ゴルフがとりなす素晴らしき出会いや縁」

イラスト・とがしやすたか

今回はちょっとテイストを変え、ゴルフがとりなす出会いや縁を探りたいと思います。個人的にはゴルフ雑誌に記事を書いていることもあり、仕事仲間はだいたいゴルフ仲間になっています。おやじ世代にとっては、ゴルフと仕事、そして人生が、それだけ密接に繋がっている場合があります。

まあイマドキのZ世代の若者には、ちょっと理解しがたいとは思いますけどね。これから紹介する3つのエピソードを読んで頂き、ゴルフもまんざら捨てたもんじゃないなと思ってくだされば幸いです。

■1)「夜霧よ今夜も有り難う」誕生秘話、浜口庫之助と石原裕次郎


1966年、「バラが咲いた」などでお馴染みの音楽家、浜口庫之助が山梨県の山中湖近辺のゴルフ場で仕事絡みのラウンドをしていました。そのとき、骨折後のリハビリでゴルフをしていた石原裕次郎に偶然出くわします。浜口が声をかけ、合流してラウンドすることになったそうです。

プレー後、バーで裕次郎は「足を骨折して仕事も休んでるし、税金ばかり取られる。今度リサイタルをやるんで、先生何かいい曲を作ってもらえませんか」と半ば冗談のように頼み込みました。それで出来上がったのが名曲「夜霧よ今夜も有り難う」(1967年)です。

浜口はそれまでの裕次郎映画から、裏町のネオン街をトレンチコートの襟を立てて歩いている、そんな姿をイメージして曲を作ったそうです。そのイメージが本人にぴったりで、トータル255万枚の大ヒットとなりました。

そして曲の発売とほぼ同時に、映画の「夜霧よ今夜も有り難う」が公開されます。これは名作「カサブランカ」の構成をそのまま拝借し、日本に舞台を変えて作られた映画です。だからハンフリー・ボガード演じる酒場のオーナーが石原裕次郎で、政治活動をする奥さん役のイングリッド・バーグマンを浅丘ルリ子が演じています。

話がしっかりしていて、かつ曲の世界観がそのまま投影された、一級の日活アクション映画に仕上がっています。何しろ主題歌として「夜霧よ今夜も有り難う」が、いろんなアレンジで何度も流れてくる。裕次郎ファンにはたまらないでしょう。映画は最後、夜霧に紛れて浅丘ルリ子と政治活動家が港を去って行く。ちゃんと曲のタイトルと映画の内容がシンクロするのです。

あのとき、ゴルフ場でふたりが出会わなかったら、この歌や映画はできなかったと言えます。ちなみに石原裕次郎は社交的で人懐っこい面があり、伊豆のホテルのバーで飲んでいたとき、素人学生のカップルを見つけて一杯酒を奢り「きみらがこの店で一番イカしてるぜ、ベストカップルだよ」と誉めてあげたそうです。


その無名の若者が後の大作詞家、なかにし礼でした。なかにしは「シャンソンの翻訳をしていると」と言ったら、裕次郎は「だったら自分の詞を書いて持って来いよ」といい、後にそれが実現し、彼は作詞家の道を歩むことになるのです。

■2)黒澤明と本多猪四郎 


70歳を間近に控えた黒澤明監督は、映画人生最後の戦いを始めようとしていました。映画「トラトラトラ」の降板騒動から10年、途中ソ連に招かれて製作した「デルス・ウザーラ」でアカデミー外国映画賞はとったものの、過酷なロケの連続で心身ともにボロボロになっていました。

日本で黒澤映画を作るには、同世代で一緒に組んでくれるパートナーが必要だ。まずそこをなんとかしないと。


そんなある日、黒澤監督が成城のゴルフ練習場でボケーっと練習をしていると、ゴジラでお馴染みの本多猪四郎監督を見つけました。お互いに暇で練習に来たという。じゃ一緒に何かやろうよとなって、映画「影武者」でタッグを組むことになります。

でもこれには他にも説があって、最初から黒澤監督が本多監督を口説く目的で張っていたという説です。今となっては真相は分りませんが、実際に本多監督は黒澤監督の下で、演出補佐の仕事をしています。つまり縁の下の力持ち的な仕事を依頼されたのです。

影武者が完成したとき、黒澤監督が本多氏に監督の名を共同クレジットしようと提案したが、本多氏はかたくなに固辞をしたといいます。黒澤監督の優しさが伝わりますね。というわけで黒澤監督の晩年の傑作の数々は、ゴルフ練習場でのナンパから始まったのです。

■3)アイゼンハワー大統領とオーガスタ


アイゼンハワー大統領(1953~61年在任)がオーガスタ・ナショナル・ゴルフクラブのメンバーで、頻繁にラウンドしていたのは有名な話です。アイゼンハワーツリー(雪で倒れたが苗が育成中)やアイゼンハワーキャビン、アイクスポイントなどが未だ存在し、どれだけ彼がオーガスタに通っていたかを物語っています。

ちなみにアイゼンハワーは8年の在任中だけで29回もオーガスタを訪れ、年間100ラウンドをやり続けたといわれています。トランプ大統領すら在任4年で300ラウンドですから、いかにゴルフばかりやっていたかお分かりでしょう。

このアイゼンハワーとオーガスタを結びつけたのが、ボビー・ジョーンズとオーガスタを共同経営していた クリフォード・ロバーツという実業家です。アイゼンハワーは第二次世界大戦で、連合国遠征軍最高司令官としてノルマンジー作戦を指揮した伝説の将軍です。戦後アイゼンハワーは政権側の政治・経済顧問をやっていたので、クリフォード・ロバーツは半ばスカウトするようにメンバーにし、そこから大統領選に出馬させたのです。

実際、クリフォード・ロバーツは大統領選挙の金庫番となり、選挙の指揮もしていました。だからオーガスタから大統領を輩出したという評判となったのですが、話半分かなあ。

なぜなら、アイゼンハワーはもともと人気者だったのです。第二次世界大戦当時、連合軍でマッカーサー元帥も太平洋方面で活躍しており、ふたりのライバル関係が戦後注目されます。マッカーサーは士官学校を首席で卒業した秀才で頭脳明晰。その頭のよさが仇となって人望がない。しかも朝鮮戦争で核爆弾の使用を進言し、司令官の役を解かれて失脚してしまいます。


一方、アイゼンハワーはもの凄い貧乏で、学校に行く学費も払えず、兄弟で1年交代で学校に行った逸話が残されています。つまり片方が学校に行き、兄弟の片方が学費を稼ぐために働く、そんなことまでして学校を卒業し、軍隊に入るやぱっとせず、16年間ずっと少佐のままでおり、凡庸な生活を送っていました。

しかし、連合軍司令部に入ってからメキメキ頭角を表し、いつの間にか連合軍のトップに躍り出たのです。アイゼンハワーは苦労人だから、人の話をよく聞いて、もの凄く人望があったそうです。実は大統領選挙に出馬するとき、共和党と民主党の両方から推薦されていたのです。

結果共和党から立候補しますが、その理由がしばらく共和党から大統領が出ていないからだそうです。このバランス感覚、なかなかどうして敵を作りませんね。

アイゼンハワー大統領のゴルフといえば、日本では岸首相とのゴルフが有名です。1957年に岸首相が訪米したときに、一緒にゴルフをしています。そのときのスコアはアイゼンハワー74、岸首相99だったとか。


そのお返しとばかりに、1960年に現職米国大統領としては初めて日本に来る予定でした。しかし、学生運動が盛んだった当時の日本、アイゼンハワーの先遣隊だったハガチー大統領秘書官が乗ったクルマが、羽田で学生に取り囲まれて大騒ぎに。結局米軍の手で助けだされましたが、これを聞いたアイゼンハワー泣く泣く訪日を断念します。そのとき、すでにフィリッピンまで来ていたのにですよ。

岸首相はその後、国会前デモを経て日米安保条約改定を引き換えに退陣します。そしてその孫の安倍晋三首相が、トランプ大統領とゴルフを日本でして、おじいちゃんの果たせなかった夢を叶えたというわけです。

たかがゴルフ、されどゴルフ。ゴルフは一緒にラウンドするとお互いの性格というか、本性が分かり打ち解けやすいですね。今後も重要な社交ツールとして、もちろんスポーツとしても、未来永劫残ることでしょう。

あと何回ゴルフが出来るんだろう、あと何人ゴルフで知り合えるんだろうか。そう考えながら、おやじの人生を送ってます。

■プロフィール■
木村和久
きむら・かずひさ/1959年生まれ、宮城県出身。世の中のトレンドを追求し、ゴルフや恋愛に関するコラムを多数執筆するほか、マンガ原作も手がける。隔週刊ゴルフ誌「ALBA」ほか、連載多数。
 
とがしやすたか
1959年生まれ。東京都出身。「青春くん」などで知られる4コマ漫画家。ゴルフ好きが高じて雑誌でラウンドレポートなども展開。

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