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甲子園を目指し審判の道へ。アフリカでの普及にも尽力する小山克仁

小学生から野球を始めた小山克仁氏は甲子園を目指す球児だったが、惜しくも出場することはできなかった。進学した法政大学で選手としてプレーしていた中、大学3年時より指導者の道を志して、学生コーチへ転身。大学卒業後は仕事をしながらアマチュア野球の審判を始め、東京六大学野球の他、シドニー五輪の決勝戦なども担当してきたという経歴を持ち、今夏の甲子園準決勝でも審判を務めた。そんな小山氏は現在、アフリカ野球の普及・発展のためにも積極的に活動しており、タンザニア野球甲子園の開催に向けて資金の他、実際に現地に行って野球の指導を行っている。

4年間で一緒にプレーした選手のうち、17人がプロ入り

——今は審判としてご活躍されている小山さんですが、元々野球に出会ったきっかけは何だったのでしょうか。

小学校2年生の時に2つ上の兄が始めたことがきっかけで、一緒に少年野球チームに入りました。私が野球を始めた翌年の昭和45年に東海大相模が甲子園で優勝したのですが、その時の三塁手が同じ町内に住んでいたということもあり、憧れてどんどんのめり込んでいきました。高校は法政二高に進学して、そこから硬式野球を始めました。まだ当時はボーイズやシニアは盛んではなかったので、それまでは中学校の軟式野球部でやっていました。

——当時の法政二高は強かったのでしょうか。

強かったですね。私が2年生の時は春の県大会で優勝して、夏は絶対甲子園に出る!と思っていましたが、予選で負けてしまい、結局出場できませんでした。

——そのまま法政大学に進学し、野球を続けられていますが、途中で学生コーチに転身しています。

3年生の時に鴨田勝雄監督(当時)から指導者の道をアドバイスされました。どうしても甲子園に行きたいという想いがあり、元々そういう道を歩みたいとは思っていたので、ノッカーとして関わることにしました。

鴨田監督ご自身も現役の時に自分が選手としてこのままやっていくのは厳しいと判断し、途中で指導者になった人でした。それで自分も同じ道を進んで、別の形で甲子園を目指すために高校の教員採用試験を受けたものの、落ちてしまいました。ろくに勉強もしていなかったですから仕方ないですね(笑)

——選手としてプロになりたいとは思わなかったのでしょうか。

大学に入って周りの選手を見た時に自分には無理だと思いましたね。私が4年間で一緒にプレーした選手のうち、17人がプロ入りしていますから。

——そんなにたくさんプロ入りしたんですか!具体的にはどういった選手と一緒にプレーされていたのでしょうか。

まず、同期には小早川毅彦さん(83年ドラフト2位・広島)。銚子利夫さん(83年ドラフト1位・大洋)。1つ上には田中富生さん(82年ドラフト1位・日本ハム)、木戸克彦さん(82年ドラフト1位・阪神)、西田真二さん(82年ドラフト1位・広島)、2つ上には池田親興さん(83年ドラフト2位・日産自動車→阪神)、川端順さん(83年ドラフト1位・広島)、1つ下には秦真司さん(84年ドラフト2位・ヤクルト)、2つ下には若井基安さん(87年ドラフト2位・日本石油→南海)、4つ下には石井丈裕さん(88年ドラフト2位・プリンスホテル→西武)などがいました。他にもたくさんいますが、どの選手も第一線で活躍した方ばかりです。

——それで現在も勤められている海老名市役所に入ったということですか。

そうです。指導者の道は諦めて入ることにしました。でも働き始めて2年ほど経った時に職場の上司から審判のお誘いを頂いたんです。

小山克仁

——審判をやるきっかけはそこからということですね。お誘い頂いたその方が審判をやっていたのでしょうか。

誘ってくれたのは神奈川県大会の決勝戦で主審を務めるほどの方です。その人から「君の若さで始めれば、甲子園で審判をすることだって夢じゃないぞ!」と言われました。やはりその「甲子園」という言葉に反応した自分がいて、審判を始めることにしました。

——小山さんの甲子園に対する熱い想いが蘇ってきたわけですね。

その熱さが今まで私にずっと審判を続けさせてきました。審判の道はやればやるほど厳しいものです。限界がないですから。極めれば極めるほど、奥が深くなっていきます。そろそろ掴めてきたかな、と感じる頃には体力もなくなってきます。だから私は今が審判としてそろそろ潮時だと思います。

当時はプロ野球OBが審判をやる場合が多かった

——プロ野球の審判をやろうとは思わなかったのでしょうか。

プロの審判の世界はもっと厳しいと思っています。当時はプロ野球OBが審判をやる場合が多かったというのがあって、自分がやることは考えなかったです。技術的にはいけるかな、と思った時期もありますが、プロ審判の皆さんと交流を深めれば深めるほど、難しいことがわかってきました。

——プロの審判になるには厳しい条件もあるんですか?

今は、「NPB主催の審判学校で合格しないと採用されない」と、規定が変わりましたが、私が審判を始めた頃は身長175㎝以上で、その上で採用試験などを受験しないとプロ野球の審判にはなれませんでした。でもあくまで私は甲子園に行きたかったので、それは重要な問題ではなかったです。28歳の時に母校・法政大学のOBの方から声がかかって東京六大学野球の審判をやるようになってから、私の審判員人生の運命が大きく変わりました。その後、都市対抗や甲子園大会、五輪などの国際大会に行く機会も増えていきました。世界のあらゆる大会に行ったと言っていいかもしれません。

——アマチュア野球の審判になるためには何か資格を取らなくてはいけないのでしょうか。

今までは特になかったのですが、ちょうど今年の4月から審判ライセンス制度ができました。なぜライセンス制度が必要になったかというと、1つには審判界の高齢化があります。若い世代が審判にいないといったアンケート結果から、若手の育成を図る必要があるということです。2つ目には、全国には素晴らしい技術を持った審判の方がたくさんいるということです。その方たちが、頑張れば都市対抗野球や全日本大学選手権、そして、国際大会の舞台に立てるようにしなければ、若い世代が夢を持って取り組むことができない。そこでライセンスを作ることでそういった人々にも公平にチャンスができる仕組みを作りました。

野球場

——小山さんが審判をしてきて、今まで一番印象に残っている試合を教えてください。

十数年前の東京六大学の秋季リーグ戦、立教大学の優勝がかかった試合は印象的でした。対戦相手は東京大学です。9回2アウトになってから立教はバッテリーを交代させ、秋季リーグ戦中は、調子が上がらず登板機会のなかった4年生エースを出しました。その投手は三球三振を奪いましたが、ストライクスリーのコールをした時に審判をしていて、初めて涙がこぼれそうになったのを覚えています。このアウトで立教大学が優勝をしました。審判冥利に尽きる試合でした。それ以外は基本的にミスをした試合しか覚えていないんですよ(笑)

——やはりジャッジをミスすることもありますか。

毎試合あるわけではありませんが、細かい部分でのミスは過去の試合であります(笑)あの一球が流れを変えてしまったなと感じる時もあります。例えばある大会の決勝戦の時です。テレビやスタンドのお客さんは誰も気付かないですが、その場ではどちらとも判定できるようなプレーで、後からビデオで見返した時にこれはダメだな、と思ったことはあります。選手は分かっていたと思いますがね。

小山克仁

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