【テキスト版】CROSSOVER「STANCE」深堀圭一郎×杉山愛

母のコーチでスランプを脱出…深呼吸とイメージで大舞台で力を発揮できる選手に成長

深堀:現役時代についてお話を伺っていきます。実は松岡修造さんが杉山さんの選手としての強さに「コミュニケーション能力の高さ」があるとおっしゃっていたのですが、英語などの「言葉の活用」も含めてご自身はどう思われますか?

杉山:私はジュニア時代から海外に行っていたので、プレーに英語が必要なことを痛感していました。しかし、実際にプロとしてプレーすると環境が全然違ったんですね。ジュニアは「お祭り的な感じ」で、みんなで楽しむ雰囲気でフレンドリーなんです。ところが、プロは勝負の世界ですから、自分の居場所やツアーにおける友人などを作る必要がありました。ですから、気が合う人をすごく大切にしていましたね。

深堀:やはり、いろいろな方とコミュニケーションを取りましたか?

杉山:そうですね。私自身が話すのが好きですし、先輩たちからも可愛がってもらいましたね。若手のころは、当時のトップ選手に練習相手として数多く呼んでいただきました。例えば、シュテフィ・グラフ選手は他選手と練習するのがあまり好きではないのですが、私は3回ぐらい呼んでもらったり。ほかにも、モニカ・セレシュ選手なども全豪オープンの期間中、私が敗戦した後はフィッティングパートナーとして毎朝呼んでくれました。当時は自分の中では大変でしたけど。やはり、トップ選手たちと練習するのは気を使いますから(笑)。とはいえ、すごくいいい経験をさせてもらったと思いますね。

深堀:杉山さんは、2000年ころにシングルスで伸び悩まれた時期がありましたが、当時は自分の中ではどのように感じていたのでしょうか。

杉山:プロになって8年目ぐらいでしたが、ダブルスではメジャー大会に優勝して世界ランキングも1位になるなど絶好調だったんです。ところが、反対にシングルスは完全にスランプに陥って絶不調でした。ですから、どんなにダブルスでいい成績が出ていても、常に気持ちはモヤモヤしていましたね。

深堀:そのときに「プレーを辞めたい」と思ったことはありましたか?

杉山:はい、初めてテニスを辞めたいと思いましたね。完全に自分自身を見失っていて。それで困り果てて、母に相談したんです。すると「今辞めたら他のことを始めても上手くいかないのでは? 本当にアナタはやり切ったの?」といわれました。この言葉を聞いて「まだ全然やり切ってない」と感じたんです。そこで母に「何をすべきか分からないんだけど、ママには見える?」と聞いたら、「見えるわよ!」と(笑)。実践すべきことが見えているなら「ついて行こう」と思い、母にコーチを依頼しました。母には「見る目」があるのだと思います。「プロはここだけは抑えている」という部分、いわゆる「理に適った動きの追求」などが得意でした。今考えると、あのときの「見えるわよ!」という母の言葉がなければ、私のその後はなかったと思います。

深堀:名選手の裏には、やはり家族の支えがあるんですね。ご両親のうちのいずれかが「子供のスポーツを理解して良いコーチになっている」ケースは、ゴルフ界にも結構あります。杉山さんは17年間、プロでご活躍されたわけですが、アマチュアとプロの違いについては、どう思われますか。僕は一生懸命に頑張るだけではなく「プレーすることで観ている人たちに何かを伝える存在」であるべきだと思うのですが。例えば、ジャンボ尾崎さんは「ギャラリーがいないとゴルフができない」といっていました。観客の方々に「いいプレーを見せるのがプロ」という意識を強く持っていたからだと思います。

杉山:元気や勇気、エネルギーなどを感じていただける試合をするのがプロだと思います。しかし、私は大勢のギャラリーの前でプレーするのが苦手でした。緊張しやすい性格で、本来はプロ向きではなかったと思います。どうすれば力を発揮できるかを考えて辿りついたのが「呼吸」と「イメージ」でした。これは今も続けていますが、深呼吸をしてから腹式呼吸を続け、いいイメージ(躍動感のある動きや楽しくプレーする様子など)を想像するんです。現役時代は、朝30分、夜30分の1日に2回は時間を取って実践していました。これにより、試合中にパニックに陥っても、ひと呼吸おけるようになったんです。例えば、疲れたときは疲労物質が出ていくのをイメージして、パワーが欲しいときはエネルギーが入ってくるのをイメージする。イメージの力を最大限に活用していましたね。

深堀:まさに、禅の境地のような呼吸法ですね。僕もスランプに陥ったときに、ある先生から「プレーに入る前に呼吸を合わせることが大切」といわれ、呼吸の入れ方を研究した経験があります。

引退直後はプライベートを優先…今のやりがいはジュニアの国際大会『Ai Sugiyama Cup』

深堀:引退時の想いやその後の活動などについて伺います。2009年に「全豪オープン」のダブルスで決勝進出を果たす活躍などもありましたが、同年9月に現役引退を発表されました。当時ご自身の引き際について、どのように考えられたのでしょうか。

杉山:00年にスランプに陥ったときから「自分自身テニスをやり切る」ということを決めていました。これにより、選手としてのピークが28~29歳頃にきたのですが、30歳を過ぎてからは「まだやれるの?」と自問自答しながら続けていたんですね。そして、34歳の年(09年)に「もうプレーできない」と強烈に感じたんです。以前から引退するときは、今まで支えていただいた日本のファンのみなさんの前で、と考えていたので「東レ パン・パシフィックオープン」を現役最後の試合として選びました。

深堀:ゴルフ界は長くプレーできるため、引き際が難しい面があるんです。実際に、僕も明確には引退をイメージできていません。杉山さんは引退してからテニスと少し距離を置いた生活をされていたと聞きましたが、何か理由はあったのでしょうか。

杉山:引退直後は、次の人生のイメージができていなかったんです。私自身は、現役時代にいろいろなトレーニングを行い、自分の体で実験しながら動きを検証するのが楽しかったので、何となく「動きを見ることができるテニスコーチや指導者になりたい」という希望はありました。しかし、コーチになるには勉強も必要なため、すぐに実現できるわけではありません。さらに、一生独身で過ごす強さもなかったので「結婚したい」という気持ちもありました。子供も欲しかったので第2のキャリアを積み重ねる前に、プライベートを優先しようと考えたわけです。

深堀:杉山さんは現役時代の05年に、後進の育成やテニスの普及活動を目的にテニスクラブ『パームインターナショナル湘南』を立ち上げ引退後もさまざまな活動をされていますが、これも素晴らしいと思います。

杉山:自分のテニスクラブがあるのは大きいですし、そこでジュニアの指導をしていきたいと考えています。そして、昨年からジュニアの国際大会『Ai Sugiyama Cup』を開催できるようになったのも良かったです。

深堀:やはり「杉山愛さんと一緒にやりたい」というファンが多いのだと思いますね。

杉山:運も味方したと思います。これまで日本にはジュニアの国際大会の枠は6つでしたが、昨年からひとつ増えて7つに。偶然そのタイミングで申請したのが私たちだったんです。実際に『Ai Sugiyama Cup』のトーナメントディレクターをやらせていただいてすごく楽しくて、今一番やりがいのある仕事だと感じています。今年は、キッズクリニックなど会場を盛り上げるイベントも充実させて、多くのお客様に来て頂きたいですね。

深堀:杉山さんは、お母さんをコーチに迎えるなど、現役時代から深い親子関係のなかでプレーされていたと思います。しかし、現在は子供との関わりや距離感が難しいと感じている親御さんも多いのが実情です。杉山さんご自身が親になった今、どのように子供と関わったら喜んでもらえると思いますか?

杉山:子供のタイプによっても違うと思います。私の場合は、母が上手くハマったんです。べったりではなく客観視できる人だったので。人生の先輩というか「お母さん」だけに特化していないため、コーチができたのだと思います。もちろん、親子ですから愛情がアドバンテージにはなりますが、元々の相性もあると感じますね。例えば、10の親子がいたら、10通りの方法や関係性があるのではないでしょうか。私の場合は9年間一緒に戦った母との濃密な時間があったので、今は逆に一緒に仕事をすることはほとんどありません。もちろん、それぞれの活動を応援していますけど、お互いにやりたいことを実践していくと重なる部分があまりないんですね。

深堀:僕もいろいろな親子を見てきましたが、「誰にでも当てはまるベストな答え」は存在しないように感じます。むしろ「その人に合うスタイルをどのように作るか」という点がカギだと思います。例えば、僕の父の場合でしゃばり過ぎずに子供のことをしっかり見ていました。何が正しいかは分かりませんが、そんなスタンスも大切だと思います。

杉山:仮にコーチとして考えるなら「子供の持っている良さを引き出してあげる」ことも必要だと思いますね。親目線で見れば、押してダメなら引いてみたり。同じ言葉でも、親ではなく違う人の意見なら聞けたりすることもあるはずです。

深堀:親子関係はひと括りで語れるものではないようですね。今後、杉山さんの指導で世界に羽ばたく選手が出ることを期待しています。今回はありがとうございました。

▼杉山 愛/すぎやま・あい

1975年7月5日生まれ、神奈川県出身。4歳からテニスを始め、15歳で世界ジュニアランキング 1位となる。その後、「全米オープン女子ダブルス」で優勝するなど活躍。2009年の「東レ パン・パシフィック・テニス」出場を最後に現役を引退。

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