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ジダンは名物オーナーの一言で、マラドーナは軍事政権の圧力で――。大物たちの「歴史を変えた移籍」が破談した理由

若かりしジダン(左)とマラドーナ(右)。このサッカー史で語り継がれるふたりは、過去にイングランド挑戦の可能性があった。(C)Getty Images
事実は小説より奇なり——。さまざまなドラマが巻き起こるサッカー界は、フィクションよりも不思議なエピソードが存在する。とりわけあらゆる人間の事情が絡む移籍には、周囲を仰天させる物語がある。

そんな数多のドラマを生み出してきたサッカー界の移籍に興味深く切り込んだのが、英スポーツ専門ラジオ局『talkSPORT』だ。イングランドを中心に、日夜あらゆるサッカー情報を発信し続けている同メディアは、現地時間12月9日に「狂っている? 大物たちの移籍が実現しなかった奇妙な理由」と銘打った特集記事を掲載。そのなかで、過去に成立寸前だったスター選手たちの移籍が破談した理由を紹介している。

「ブラックバーンは明るい未来をオーナーの独断によって放棄した」

まず、そう紹介されたのは、1995年にボルドーからジネディーヌ・ジダンの獲得を狙ったブラックバーンの動きだ。
当時、鉄鋼業で財を成した地元の名士ジャック・ウォーカー氏によって変貌を遂げていた“ローバーズ”は、アラン・シアラーとクリス・サットンの強力2トップを擁した94-95シーズンに、クラブ史上81年ぶりのトップリーグ制覇。文字通り勢いに乗っていた。

「あのマンチェスター・ユナイテッドを安っぽいチームに見せてやる」と啖呵を切ったウォーカー氏の下で、さらなる躍進を狙ったブラックバーンは、95年の夏にボルドーで才能の片鱗を見せつけていた23歳のジダンに目をつける。

しかし、周囲が獲得に太鼓判を押すなかで、サッカー史に残る偉才を受け入れなかったのは、他でもない“御大”のウォーカー氏だった。『talkSPORT』は、当時の舞台裏を次のようにまとめている。

「当時のブラックバーンには明るい未来があった。そしてクラブは、フランスで輝いていたジネディーヌ・ジダンとクリストフ・デュガリーの二枚抜きを狙ったが、何も知らないオーナーであるウォーカーは、『ティム・シャーウッドがいるのになぜジダンたちと契約する必要があるんだ』とふたりの契約に反対した。この決断は今になってみれば、間違いだったと言わざるを得ない」
クラブ上層部の判断によって破談したジダンの獲得。しかし、ブラックバーンには、天災によってやむを得ず契約に至れなかったケースも存在する。2010年の夏に行なわれたロベルト・レバンドフスキとの交渉だ。

いまやサッカー界屈指の点取り屋となったレバンドフスキ。だが、当時はポーランドの古豪レフ・ポズナンにいる無名の若手に過ぎなかった。そのなかでブラックバーンを率いていたサム・アラダイス監督が秀でた得点能力に目をつけ、約800万ユーロという破格の値段でのクラブ間合意に至っていた。

残すは、本人とのサインだけという状況までこぎつけていた。だが、ブラックバーンは、ここでまさかの事態に見舞われる。『talkSPORT』は、アラダイスのコメントを紹介している。
「私は、主任スカウトだったマーティン・グローバーとともにポーランドに飛び、ロベルトと契約をするだけだった。かなりの旅になるが、それでも彼には感銘を受けていたから契約をしたかったんだ。

でも、フライトの日になってアイスランドから来た火山灰の影響で、飛行機がすべてキャンセルになったんだよ。しばらくその影響が続いて、ポーランドに行けずにいたら、彼はドルトムントに移籍していていたんだ」

ドルトムントでユルゲン・クロップの薫陶を受け、ワールドクラスのタレントへと飛躍したレバンドフスキ。もしも、彼がブラックバーンに移籍していたらどんなキャリアを歩んでいたのか。興味深いエピソードである。
大物ストライカーという点では、あのディエゴ・マラドーナも欧州上陸を逃していた経験がある。それも政治的な圧力によって、だ。

「サッカー界の神」として多くのひとびとに愛された名手マラドーナ。この言わずと知れたクラックも、1978年にイングランドへの挑戦に迫っていた。同メディアによれば、シェフィールド・ユナイテッドが契約寸前にまで至っていたという。

当時のシェフィールド・Uは、新たな助っ人補強を画策。ハリー・ハスラム監督とスポーツディレクターを務めていたジョン・ハッセルが、ブエノスアイレスへスカウトに行った際に、アレハンドロ・サベージャとペドロ・ヴェルデ(ともにアルゼンチン代表)と契約を締結していた。その旅で「魅了された」というのが、アルヘンティノスで研鑽を積んでいたマラドーナだったのだ。

この時、アルヘンティスとわずか15万ポンドで合意に達したシェフィールド・U。だが、当時のアルゼンチンを支配していた軍事政権の介入によって交渉は決裂してまった。

ティーンエージャーを巡る交渉について、『talkSPORT』は、こう描写している。

「前政権を強行的なクーデターで押し倒したアルゼンチンの悪名高い憲兵隊によってホテルの部屋を囲まれたハスラムたちは、『マラドーナの移籍はアルヘンティスへの支払いとは別に、15万ポンドを払った場合に限る』と交渉を持ち掛けられたのだ。

軍事政権はマラドーナの国外移籍に前向きで、シェフィールド・ユナイテッド側も支払いに問題を示さなかった。しかし、後者は交渉に政治的な圧力がかかったことに不快感を示したため、獲得を見送った」

この時、マラドーナが“サッカーの母国”へ渡っていたら、歴史は大きく変わっていたかもしれない。それを考えても、やはり事実は小説より奇なりと言えるのかもしれない。

構成●THE DIGEST編集部

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