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【テキスト版】CROSSOVER「スポーツコンピテンシー」深堀圭一郎×田中理恵

リハビリ中に頭で体操することを学ぶ。目標を明確にし選手として躍進!

深堀:田中さんに高校までの選手生活について伺いました。卒業後は日本体育大学へ進学されましたが、当時はケガの影響が残っていたそうですね。

田中:大学1年の秋ごろに足首の手術をし、その後、半年間のリハビリを経て復帰しました。痛みは完全に消えて、いい病院を紹介していただいた監督に本当に感謝しました。

深堀:日本体育大学は、体操界のトップ選手が集まる学校ですから、ケガに対するノウハウも充実していたのでしょうね。

田中:学校内にテレビで見たことがある選手が普通にいるので、「すごい世界に足を踏み入れてしまったな」という思いはありました(笑)。

深堀:大学は寮生活だったと聞きましたが、環境の変化や指導につらさを感じたことは?

田中:寮生活では朝と夜に部屋の掃除時間があり、洗濯なども今までやっていなかったので、そういう部分では苦労しましたね。入学したてのころは、さまざま面で厳しさを感じ「やめたい」と思ったこともありました。しかし「力を合わせて頑張ろう」と誓ったチームのような同期に救われたんです。そして、次第に先輩や監督が本気で怒ってくれるのは「私のため」という点に気づき「自分が変わらなければ」と考えるようになりました。

深堀:実際に、体操選手として競技結果が出始めたのは大学の後半からでしたよね。

田中:手術後は、足首にギプスをしていたので練習が全然できなかったんです。初めて「みんなに置いていかれる焦り」を感じ、リハビリ中に「もっと体操をやりたい」と思いました。そんなときマネージャーさんに「レベルの高い選手が数多くいるから焦ると思うけど、体操は本を読んだり映像を見て頭でイメージトレーニングすることも大切だよ」といわれたんです。練習中の他の選手を見て「いいところを探してマネるなど、吸収することが数多くあるから無駄ではない」と。このときに初めて「頭で体操すること」を学びました。

深掘:初めて見た演技を頭の中でイメージして、すぐに実現できるものなのでしょうか。田中頭で考え「映像をイメージ化すること」で、実際に演技ができるケースはありますね。もちろん、すぐに成功しないときもありますが、筋トレなどで体力的な部分を鍛えるなど、身体的なトレーニングも欠かせません。

深堀:リハビリ中は、どんなトレーニングをされていたのでしょう。

田中:足が使えないので段違い平行棒を練習したり、できる範囲で基本のトレーニングを繰り返しました。さらに、足以外の他の部分は筋トレなどで相当鍛えました。そして、足首の状態がよくなるのに合わせて、練習する演技の幅を増やしました。その結果、大学3年のときに初めて『NHK杯』などのレベルの高い試合に出場できるようになって。さらに北京五輪の国内予選会でも、個人総合で9位に。当時はオリンピック代表として5人が選ばれていたので「あと4人追い越せばオリンピックに出場できる」と。そこから練習に対する姿勢が一層変わりました。目標も、大学4年生で日本代表として『ユニバーシアード』、さらに『世界選手権』にも参戦してオリンピック団体の権利を得て、2012年のロンドン五輪代表になる、と明確にしたんです。頭の中で「そうなりたい」ではなく「なった! 決定した! 絶対にこのとおりにいく」と決めてからは、日常生活も大きく変わりました。夜更かしなどを避け、規則正しい毎日を送りましたね。

深堀:脚光を浴びたのは大学4年生のとき、09年の『全日本選手権』でしたよね。当時、4連覇中の鶴見虹子さんに次いで2位に入賞。何が躍進につながったと思いますか。

田中:正直「どんな結果が出るか」は、試合が終わるまで分かりませんでした。しかし、担当コーチから「田中理恵の体操をすればいい、伸び伸びとした自分らしいダイナミックな演技で勝負しよう」と声を掛けてもらったんです。このときに「今まで練習してきたことを全部出し切ろう」と思いました。2位と聞いたときは「鶴見さんの次!」という感じで、信じられませんでした(笑)。

深堀:相手のことや結果よりも「自分がどんな体操をしているか」を重視されているんですね。人のプレーを気にせず「自分のことに集中できる力」は大切だと思います。

東日本大震災で学んだ感謝の気持ち。応援をパワーに変え五輪の切符をつかむ!

深堀:田中さんは、2009年に開催された「ユニバーシアード」で日本代表に選出され、初めて世界の舞台を経験されたと伺いました。このときはどうでしたか。

田中:「ユニバーシアード」では、最高の演技ができました。次の世界大会につながる、いい大会だったと思います。新しく出てきた田中理恵を多くの方に見せられたというか。

深堀:当時は大学4年生で「この年を最後に引退する」という話も出たそうですね。

田中:引退は「私以外の人たち」が考えていたことなんです。自分の中では「絶対オリンピックに出場する」と決めていましたが、周囲の人は大学を卒業したら地元の和歌山に帰ってきて「高校の教師になってほしい」という思いが強かったみたいです。父も最初は同じ考えでしたが、最終的には私の決意を認めてくれました。

深堀:大学院に残って現役を続けられ、10年には「世界選手権」の団体戦の5位入賞に貢献、個人総合でも決勝進出を果たして17位。そして、美しい演技で最も観客を魅了した選手に贈られる「ロンジン・エレガンス賞」を受賞する快挙も成し遂げられましたね。

田中:実は「ロンジン・エレガンス賞」は世界選手権出場まで知りませんでした(笑)。この賞の初受賞者で、ずっと憧れていたロシアのスベトラーナ・ホルキナ選手が2回獲得していることが後で分かってびっくり。自分が目指してきた「美しく奇麗な体操」が認められ、ホルキナ選手と同じ賞をいただけたのは本当にうれしかったですね。

深堀:「ロンジン・エレガンス賞」受賞の瞬間はどうでした?

田中:実は試合後、関係者の方に呼ばれて。そういうときは抜き打ちのドーピング検査の場合が多いので、最初は「今回は私かな」と思いました。当時は英語も分からなくて。ところがすぐに日本のコーチから説明があり、そこで受賞を知ったんです。でも「ロンジン・エレガンス賞」を理解していなかったので「何それ?」みたいな(笑)。最初はそんな感じでしたけど、日本に戻ってからの反響はすごかったですね。

深堀:世界の舞台で戦うことは、強い選手の空気感を肌で感じるチャンスでもあると思います。そんな経験が飛躍につながっていくんでしょうね。実際に、田中さんも同年の「アジア大会」では団体で銀、個人総合で銅、跳馬で銀という、素晴らしい活躍でした。そして、11年にはきょうだい3人で世界選手権に出場。この大会の予選会の2カ月前に、東日本大震災が発生して大変だったと思うのですが。

田中:震災の翌日から日本体育大学では練習ができなくなり、寮生活の学生は全員、地元に帰ることになったんです。私も和歌山に戻り、練習施設を借りてトレーニングしていました。とはいえ、補助者がいないと危ない部分もあるため、納得のいく練習はできませんでしたね。気持ち的にも、世の中が大変なのに「体操をしていいの?」という罪悪感があって。しかし、いろいろな方から「演技から勇気をもらいました」というお手紙をいただいて、私が今できるのは「体操を頑張ることだ」と考えるようになりましたね。当時、予選会は開催されるのか、という状況でしたから、試合が行われ多くの方々が会場に足を運んでくださったときは、以前にも増して感謝の気持ちが強くなりました。多くの人の応援がパワーになり、秋に東京で行われた世界選手権へ出場できたのだと思います。

深堀:ロンドン五輪開催の12年は、田中さんが全日本選手権で当時6連覇中だった鶴見虹子さんを破り初優勝。24歳で日本の頂点に立つと、続くNHK杯も個人総合で初優勝し、きょうだい3人そろってオリンピック出場を決めましたね。

田中:私の場合、12年はゾーンに入っていたかもしれませんね。「絶対に負けない」と思いながら、試合に臨んでいましたから。国内にライバルもいなくて「一番でオリンピックの切符を手に入れること」を目標にしていたんです。ただし、きょうだいの間で「一緒にロンドン五輪に行こう」みたいな雰囲気はありませんでしたね(笑)。オリンピックの話も全然しなくて、とにかく「目の前の試合に集中する」だけでした。

深堀:集中力も含め、まさに「ゾーンに入っている状態」だったんでしょうね。

きょうだいそろって出場したオリンピックでエレガンスを追求。東京五輪の招致にも尽力!

深堀:田中さんは2012年に開催された「ロンドン五輪」で、憧れだったオリンピックの舞台に立たれました。このときは兄の田中和仁選手、弟の田中佑典選手ときょうだい3人そろっての出場になりましたが、夢の舞台はどうでしたか。

田中:きょうだい3人での出場が決まったとき「これほど幸せなことはない」と思いました。そして、この舞台でいい演技ができるように、「さらに練習に力を入れなければ」という気持ちでしたね。実際にロンドン五輪の会場に足を踏み入れたときは、すべてがキラキラして見えました。そして、自分が「本当にオリンピック選手になれたんだ」と実感したんです。ただし、団体戦は今まで経験したことがないぐらいの緊張。曲がよく聞こえないほどの状態で、正直そこは悔まれます。キャプテンとしてチームメイトをまとめたり、仲間のモチベーションを上げることに一生懸命になりすぎたのも反省点です。やり直せるなら、団体戦の床の演技だけは、もう一度チャレンジしたいですね(笑)。

深堀:最終的にロンドン五輪は団体で8位入賞、個人総合は16位という結果でした。メダルには届きませんでしたが、田中さんが目指してきた「美しく奇麗な体操」の集大成となる大会でした。個人戦の床では、『007』の曲で演技して会場も沸かせましたよね。

田中:あの曲は私のお気に入りでした。オリンピックの出場経験がある方が振り付けを考えてくれて。個人戦は楽しく演技できましたし、成績は別にして自分が追求してきた「エレガンス」という面では納得できる部分もありました。

深堀:ロンドン五輪終了後は、自分の中で「やり切った感」はあったのでしょうか?

田中:まさに、燃え尽き症候群でした(笑)。本当に真っ白でしたね。練習をする中で、初めて「恐怖心」を感じるようになったんです。こんなに「気持ちが入っていない状態で練習していいのかな」と。すごく不思議な感覚でした。そして、自分の中で「どこで引退しようか」という思いも芽生えました。後輩の演技を見て「指導してあげたい」みたいな感情が湧いてきたのも、引退のきっかけになりましたね。

深堀:田中さんは、13年に現役選手で「東京五輪」招致団のメンバーになっています。その経緯について教えていただきたいのですが。

田中:ロンドン五輪の後、12月までは試合があったので「年内は頑張ろう」と思っていたんです。しかし、13年に入ってから完全に燃え尽き症候群でした。そんな状態で悩んでいた4~5月ごろに東京五輪の招致団の話をいただいて。ところが、1カ月後にスイスで「英語のスピーチをする」という内容で、3回断りました。しかし、どうやら大人の事情で、私が招致団のメンバーに入ってスピーチすることは決まっていたようなんです(笑)。私自身も「これから何をするか」と迷っていた時期でしたから、腹をくくって引き受けました。英語が話せなかったので、そこからは必死でしたね(笑)。スピーチの内容を教えていただいて「自分が伝えたいこと」を英語に直してもらい追加したり。毎日練習するうちに、気づいたら壁に向かって喋っていました(笑)。

深堀:自分の気持ちをスピーチで表現されて、その結果としてIOCのジャック・ロゲ会長が「TOKYO2020」の開催を発表した瞬間はどうでしたか?

田中:あの瞬間は忘れられません。「TOKYO」という文字が見えたとき、メンバーはみんな泣いていました。私はオリンピックで金メダルを取ったことはありませんが、それと同じぐらいの喜び。誰とハグしたか覚えていないぐらいうれしかったです(笑)。

深堀:田中さんは東京五輪の開催が正式決定した後に、現役引退を表明されました。その後は大学で職員として若手を指導しながら、「東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会」の理事も務められています。大会の開催は新型コロナウイルスの影響により21年に延期されましたが、今どんなメッセージを届けたいですか?

田中:コロナ禍において「自分たちに何ができるか」考えることが大切だと思います。私もあらためて「命の大切さ」を実感しました。選手は今は悔しい気持ちが強いと思いますが「これまでの努力」は絶対に無駄ではありません。ですから、この先の目標に向けて頑張ってほしい。そして、私自身も東京五輪をもう一度盛り上げたいと考えています。

深堀:今のコロナ禍を乗り越えたら、本当の意味で強い社会や人々が誕生すると思います。今回はお忙しい中、ありがとうございました。

▼田中理恵/たなか・りえ

1987年生まれ、和歌山県出身。2010年の世界選手権で日本女子初のロンジン・エレガンス賞を受賞。12年のロンドン五輪では、団体の2大会連続の決勝進出に貢献

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