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画家・ながさわたかひろは、なぜヤクルトスワローズを描き続けるのか?

今回は画家のながさわたかひろさんにお話を伺いました。ながさわさんは岡本太郎現代芸術賞特別賞を受賞されるなど画家としてご活躍される中、現在はプロ野球・東京ヤクルトスワローズの全試合の模様を描き続けており、各方面のメディアにも取り上げられ、その絵は本としても出版もされています。

葛藤を感じながらも野球を描き続ける

——まずはながさわさんのご職業を教えてください。

絵描きですが、改めてというと難しいですね。あいまいですし、プー太郎とも言えてしまいますから(笑)

——どういった種類の絵を描かれているのでしょうか。

本来画家として収入を得ていたのは版画制作です。始めの3年は野球も版画で描いていましたが、野球を描くことがメインになってから版画の制作はしていません。版画は何枚か刷れるので、当初は描いたものを選手に渡していました。

——選手の方も喜ばれるのではないですか。

いや、特にはないです。それが意外とリアクションは薄いです。でも絵を送っているということでチームと繋がっているという意識は芽生えるようになりました。

版画だと出来上がるまでに当然時間がかかります。2009に始めて2年間は銅版画でしたが、絵を描くことに集中したいということで2011年はシルクスクリーンという手法を用い、2012年から今のスタイルにシフトしました。

——ながさわさんが絵を描くようになったきっかけを教えてください。

昔から運動ができるタイプではなかったですが、絵を描くのは好きで、それで美術大学を受験しました。実家は山形で漠然と東京に行きたいという思いもあったので、初めはその手段の一つに過ぎなかったんです。ただ結局大学卒業後もその延長で何となく絵を描き続けている曖昧な感じでした。当然それでは評価もされませんし、お金にもなりません。今も満足に生活するだけの収入は得られていませんが、そうした本当にどうすることもできない状況の時に野球に出会いました。

——今は野球をメインに描くことで注目を集めているわけですが、画家として葛藤はなかったのでしょうか。

ありましたよ。でも野球は毎日試合がありますし、片手間にできるものではないです。集中せざるを得ないわけですが、次に繋がる意味深いことだと考えてやっています。自分でも成長していると実感できていますし、それに対しての反応もあるので観てくれているお客さんと一緒にやってきたという感覚もあります。それはチームや選手と同じことだと思います。

——具体的にご自分でどういった部分が成長できていると感じていますか。

自分の作品を客観的に見て、反省点を次に活かせるようになってきたと思います。理想とするところに手が届き始めていると感じる瞬間もあるような気がしています。あとは毎年こうして活動していると観てくれている周囲の目もあるわけです。そうなると変な絵を描いたりはできません。もはや自分だけの問題ではなくなってきているので、手は抜けないです。自分が目指す理想とチームの成績がリンクしてきたらいいと思います。

——手を抜かずに描かれてきた結果が本になったりもしているわけですね。

本当にいいタイミングでした。今までも過去2年は自主出版という形で本にしてはいましたが、やはり書店に置かれるというのは嬉しいです。個展に来なければ観てもらえなかった人にも自分の作品を観て頂けるのは本当に大きかったです。

ながさわたかひろ

楽天からヤクルトへ対象を変更

——野球を観るようになったきっかけを教えてください。

元は母親がカープファンで小さい時から帽子を被せられてある意味英才教育を受けていました(笑)ただ※古葉監督が大洋に移った頃から少し興味が薄れていました。その後は90年代に野村克也監督がヤクルトを率いていた頃の野球が面白かったです。野村監督の戦い方や言葉を含めて好きでした。でもその後阪神に移ってしまい、しばらくは観てはいましたが結局成績不振で現場から離れることになって、そこからしばらく野球を観ていない時期があります。

しばらくして2005年に東北楽天ゴールデンイーグルスができました。僕は東北・山形出身なので、楽天球団創設をきっかけに再び野球を見始めるようになります。1年目の楽天は弱かったですが、野球は勝ち負けだけではないという見方をその時に教わったような気がします。勝たなくても一人ひとりの選手のプレーに喜べる瞬間がありました。

※古葉監督:広島東洋カープ古葉竹識元監督。1970〜80年代にかけて球団創設後初を含む4回のリーグ優勝、3度の日本一に導いた。その後横浜大洋ホエールズの監督も務めた。

——その後野村監督が就任しましたね。

そうです。一気に野球熱に火が付きました。就任会見の時に1年では結果が出ない、3年かけてチームを作ると話していたんです。そこで今までダラダラと続けてきた作品制作から脱却して、自分も3年かけて新しいことを始めようと思ったんです。就任会見の日の新聞は今でも大切に取ってあります。

——野村監督がきっかけをくれたわけですね。

寄せ集めのような創設1年目の楽天の選手達と野村監督がそう思わせてくれました。その後退任するわけですが、最後の試合で楽天と日本ハムの選手が一緒に野村監督を胴上げしてその瞬間を描いた時、僕も楽天での役目を終えたような気がしていました。試合後にそのシーズンに描いた記録を野村監督に直接お渡しした瞬間に本当にやりきった気持ちになれたんです。

ながさわたかひろ氏の作品

——現在は東京ヤクルトスワローズを中心に描かれていますが、楽天からヤクルトへ対象が変わった経緯を教えてください。

一つ心残りだったのはその記録の中に楽天創設時にドラフト希望枠で入団した※一場投手がいなかったことでした。ヤクルトにトレード移籍していたんです。その欠けたピースを追いたくて、自分もヤクルトに移籍しようと思いました(笑)。なのでヤクルトを描き始めたのは2010年からになります。

※一場投手:一場靖弘元投手。2004年に獲得を巡る球界裏金問題「一場事件」の渦中にいた人物。最終的に楽天に入団するも期待通りの成績を残せず、2009年にトレードでヤクルトへ移籍。2012年限りで引退した。

——2010年といえば途中で監督交代があったシーズンですね。

※ヤクルト開幕からの成績不振で交流戦途中に高田監督が辞任。就任した小川監督代行は19あった借金を完済、チームを立て直し、2011年から2014年シーズンまで監督として指揮を取った。

高田監督が辞める前、最後の試合が楽天戦でした。その時はまだ気持ちが楽天にあったような気がしますが、ライトスタンドでヤクルトの帽子を被って観戦するわけです。複雑な気持ちでした。でも楽天が勝利して、純粋に悔しいと思ったんです。その瞬間から正式にヤクルト側の人間になれたように思います。試合後に小川監督代行就任の知らせが届いたので、勝手な結びつけかもしれませんが、自分は小川監督とともにヤクルトの人間としてスタートした気がします。

——ここ2シーズンは成績不振で小川監督も昨シーズン限りで退任という形になりました。

原因は様々あると思いますが、僕は選手がいないなりにやりくりする野球は好きです。いろいろな選手にチャンスが回ってきます。でもそれをモノにできなかったからこの順位なのだと思っています。山田哲人のようにブレークする選手がどんどん出てくれば上にいく可能性はありますし、僕は決してこの2シーズン楽しくなかったわけではなくて、野球自体は観ていて面白かったです。だから余計に悔しいんです。今でももう1年、小川監督の元で描きたかったという気持ちはあります。

東京ヤクルトスワローズ

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