フロンターレの元プロモ部・高尾真人がカナダで第二の人生を歩む理由
「インターンの時、実家の船橋から通っていたんですよ。毎日終電ギリギリです。でも、そこで熱意を見せられた。認めてもらえたのかな、とも思っています。それに、“ここで拾われなかったらもう後はないな”と覚悟を決めてやっていましたから。」
(株式会社A to 代表取締役 高尾真人)
2017年シーズンのJリーグで悲願の初優勝を達成した川崎フロンターレ。このクラブの目玉は、何と言っても、試合日に行われる様々な企業や団体などと組んで行われる奇抜なイベントです。そのイベントの企画や運営を行うのが集客プロモーション部という部署。サポーターを楽しませるために工夫を凝らし、サッカーの試合“以外”の部分でホームゲームを盛り上げます。
そんな通称“プロモ部”に在籍してクラブ、そしてホームタウンである川崎市に活気を与える活動に従事してきた高尾真人さんは7年間のクラブ職員生活を経て、カナダへのスポーツ語学留学をサポートする株式会社A toを立ち上げました。
充実感も感じたクラブでの生活に終止符を打ち、カナダという異国の地へ飛び込んだ理由と、高尾さんが考える“スポーツ界で求められる人材”とは?
カナダで感じた人間的成長
僕は千葉県出身で、船橋FCというクラブチームに所属してサッカーをしていました。その後、僕は専修大学に進んで4年間、体育会サッカー部に所属をしていたのですが、大学の繋がりで川崎フロンターレの育成普及グループでコーチをする機会がありました。フロンターレとの接点はそこからがスタートです。
小学生のスクールでコーチをしていました。4年間働かせてもらったこともあり、卒業のタイミングでスクールのコーチとして誘いを受けました。ただ、指導者として今後の人生を歩むイメージが描けず、このまま就職をしても自分は何もできないと思っていたので、他の道を探しました。そこで留学という選択肢が出てきました。父が英語教師であり、かつ周りに留学をする友達が多かったので、英語には昔から興味があったんです。幸いにも、親がお金を貸してくれると言ってくれたので、留学を決心することができました。
留学先はカナダで、現地の学校に通ってMBAを取得したのですが、それまでサッカーしかやってこなかった自分にとってはものすごく良い経験になりました。ただ、現地でサッカーとかかわらなかったというとそうではなく、留学2年目に地域のチームに誘われて、社会人リーグでプレーするようになりました。
サッカーを始めるまでの留学生活では満足に英語も喋れないので、喋れない人同士で固まりがちでした。ただ、サッカーをすることによって周りが全員ネイティブになるし、そこでコミュニケーションをとらなければいけない。そこで自分の英語を話す力や聞く力というのもすごく伸びたな、という実感がありました。人間的な成長をスポーツを通じて感じ取ったことで、スポーツの世界で働きたいなと強く思いました。
ただ、それだけではなくもう一つあります。カナダは芝生のグラウンドがたくさんあり、意外にサッカーの競技人口が結構多かったんです。カナダで盛んな冬のスポーツなどと比べて、道具にお金がかからないスポーツなので子供たちが体を動かすためにサッカーをやっている。女子も男子も、です。ただ、中学、高校と進むうちに運動神経が良い子はアイスホッケーやバスケというその先で“稼げる”スポーツへ転向していってしまいます。その背景として、サッカーを教える人たちがプロフェッショナルではないということもありました。だから、サッカーの面白さというのをわからないまま他の競技に移ってしまう。その現状を見て、日本のサッカー界の力からカナダのサッカー界に出来ることがあるのでは?と考えるようになったんです。
いわゆるスポーツ留学に特化したエージェントをやりたいなと思ったのですが、ただ、日本での就業経験が無かったのに加えて、自分自身がJクラブの下部組織にいたとはいえ、日本のクラブの仕組を全然わかっていなかった。まずは日本のJリーグのことを知ると同時に何か貢献したいなと思ったんです。
加えて、MBAを取る過程の中でインターンに参加することが義務づけられていて、その対象は世界中の企業で良いということもありました。そこでたまたま、(※)天野さんが僕を拾ってくれました。
※天野春果氏のこと。元川崎フロンターレプロモーション部部長で、現在は東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会 イノベーション 推進室エンゲージメント企画部長を務める。
“名物部長”との出会い大学時代のコーチがフロンターレとつながりがあったので、僕からフロンターレでインターンが出来ないかと頼んでみたんです。そのコーチが「とりあえず聞いてみるよ」と言ってくれて、その窓口が天野さんでした。普段だったらインターンは採用していないのですが、僕が元々スクールコーチであったこと、また、たまたまそのときが忙しい時期、2009年の (※)SEPTEMBER SHOUT SEVENあたりでした。それもあっていろいろな縁のおかげで迎え入れてもらえたという感じです。 ※2009年シーズンで優勝争いをしていた川崎フロンターレが9月2日のナビスコ杯準決勝第1戦から始まる公式戦7連戦をこう名付けた。
結果としてそのインターン経験を元に留学先の大学院へ論文を提出し、卒業することができました。その後、たまたまフロンターレとしてもクラブの競技・運営をつかさどる運営グループの増員を計画していたタイミングとも重なり、そのポジションで働かせてもらったんです。3ヶ月アルバイトをして、その後正社員という形で正式に川崎フロンターレに入社しました。
運営担当の4年間は必死でした。と言いますか、知らないことばかりでしたし、インターンでお世話になっている時から感じていましたが周りが仕事に対する姿勢がとても厳しい人たちばかりでしたから。クラブを良くしていくために妥協をしない。僕もそこにいかについていくかというのが非常に課題でしたね。4年間の運営担当での生活からプロモ部に異動したのですが、プロモ部は“どう盛り上げていくか”というプラスの部分を話す部署である一方、運営はマイナスのことを話していかなければいけません。
「試合がすべてタイムスケジュール通りに進行するのが当たり前であり、もしここでイレギュラーなことが起こったらどうしよう」という視点で物事を見ていました。「ここが選手にとって、観客の皆さんにとってダメだから、すぐにこう変えなければいけない」というように。社内での調整だけではなく、対戦相手のクラブ、そして両クラブのサポーター。あらゆる方向を見ていました。その中でもサポーターとの人間関係というか、コミュニケーションを取っていくことが必要だと感じましたし、この経験は大きかったと思います。普通の会社ではまず味わえないですから。いわゆる顧客なのですけど、共に歩んで行くという、また少し違う付き合い方ですから。
川崎を離れようと決めた理由
フロンターレで働いた7年間では一切、カナダのことは考えていませんでした。ただ、結婚して子どもができたときにふと自分のこれからの人生を考えたときに、心の中に自然と仕舞い込んでいた思いがよみがえってきたのです。
フロンターレは良い会社で、しっかりと残業代が出ていました。逆にいうと、それは時間を売って時間でお金を稼ぐという考えでもあります。(※)島田さんの言ってることの真逆になっているんですよね。
※B1リーグ所属・千葉ジェッツふなばしの島田慎二社長のこと。
参考記事:スポーツ界を稼げる産業に!千葉ジェッツを躍進させた“働き方改革”
給与形態は、日本の多くの会社がそうであるようにフロンターレも年功序列です。そうすると、僕は天野さんの下でやっていましたけど、その間に先輩が二人いるので、役職につかないと給与もなかなか上がらない。そのためには何年くらいかかるのかな?と考えてしまいました。
子どもができても給与の上がり幅もそのままだし、一方で稼ごうと思うと残業をしなければいけない。ただ、そうすると家族といる時間も少なくなる。そういう状況で悩んだ中、限られた時間の中で、僕はカナダ時代にはまだ漠然とした夢であった想いに対して、少なからず経験をつんだ今なら具現化できるのではないか、挑戦するタイミングは今しかないのかな?、と。妻とはもともといつかカナダでという夢も日頃から話をしていたので、すぐに意向を受け入れてもらうことができました。
辞めることは早めに天野さんに相談したのですが、話してびっくりしたのですが天野さんも同じタイミングでやめるということで話が進んでいて。2人して想定外のことが起きたという感じですね(笑)。そこからは1年かけて、天野さんと体制を整えました。
その組織で7年間やってきて33歳という働き盛りの人間が辞めるというのは、会社としては痛手だと思います。今でも迷惑をかけたと思っていますが、でも、会社の皆さんが挑戦を後押しするように、好意的に送り出してくれたことが本当に嬉しかったですし、今でも感謝しています。
プロモーション部は天野さんが強烈な個性で引っ張ってきた部署でもあるので、それだけではない、変えなければいけないタイミングでもあったと思います。天野さんも僕も…特に天野さんがいつまでもいるわけではないですし、少なくとも東京五輪までの2年半で彼は帰ってきません。その中でも今まで以上に新しくこと、面白いことが生み出せるようになれば、もう“勝ち”だと思います。
プロモ部の仕事と課題点プロモ部は各イベントがそれぞれ一人に任せられる形なのですが、年間スケジュールを立てて、1人4〜5個を担当イベントとして持つんです。その中で企画を実現するためにサッカーやスポーツと全く関係ない人たちとも話し合って良いもの作っていかなければいけないので、すごく勉強になりました。
僕がメインで関わったのが(※)伊藤宏樹さんとのイベントで、それが印象に残っています。一緒に色々な企画を一から立ち上げられたので、本当に彼には感謝しかないです。
※元川崎フロンターレの選手。引退後にクラブスタッフとなり、プロモーション部の一員として活動した。現在は強化部に所属する。
フロンターレは奇抜なプロモーションでチームが活性化しているのは間違いありませんが、一方でプロモ部の取り組みによってどれだけ新規のファンが増えたのか、というような点が数字として見えづらいので、そこは悩ましく難しいところです。すごく難しい。後援会の会員が増えたりチケットの売り上げが伸びたり、平均入場者数が増えている現状がある一方、こういう取り組みをしたからこれだけ人数や会員が増えました、とは表しづらいんです。これはフロンターレだけでなく、Jリーグ全部の課題かなとは思います。
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