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“ビッグボス”新庄剛志も続く?プロ野球界を席巻した3人の「風雲児監督」<SLUGGER>

風雲児監督の元祖・金やん。数々のパフォーマンスで選手よりも目立っていた。写真:産経新聞社
 日本ハムの新監督に就任した新庄剛志の一挙手一投足が大きな話題を集めている。これまでの球界の常識を覆す数々の言動や行動は、まるで新時代の到来を告げる“風雲児”のようだ。だが、こうした破天荒な監督は、実は新庄が初めてではない。強烈なインパクトを残した“風雲児監督”たちを紹介しよう。

▼金田正一(ロッテ/1973~78年)
 史上最多の通算400勝を挙げた大投手である金田が、ロッテの監督に就任したのは1973年のこと。4年前に現役を引退してからはコーチの経験もなく、「タレント監督」と揶揄する声もあった。
  実際、パフォーマンはかなり派手だった。試合中は常に三塁コーチャーズボックスに立ち、試合が動くたびにオーバーなアクションで動きまくった。腕や足を高く上げる代名詞の「金やんダンス」も人気を博し、「試合よりも金田のパフォーマンスの方が面白い」という声すら出た。だが、金田は自分が目立つことだけを考えていたわけではない。徹底的な走り込みで投手陣を鍛え上げ、就任2年目の74年には見事チームを日本一に導いた。

 だが、騒動にも事欠かなかった。不人気球団だったロッテの観客動員アップを狙い、太平洋クラブ(現西武)ライオンズの稲尾和久監督と結託してライバル関係を煽る“遺恨試合”を演出。だが、そのためにプロレスじみた挑発を繰り返した結果、太平洋ファンが激怒。試合後に暴動が起こって機動隊が出動するなど、もはや金田本人にもコントロール不能となってしまった。金田があまり「名将」と呼ばれないのは、このような面が災いしているのだろう。
 ▼ジョー・ルーツ(広島/1975年)
 球団創設から25年間で一度も優勝したことがなかった広島が、起死回生を期して監督に据えたのが、史上初の外国人監督(日系人を除く)のルーツだった。ルーツが就任してまず行ったのは、紺色だったヘルメットや帽子の色を赤に変えることだった。「赤は戦う色だ。これで優勝するんだ」と断固たる決意を語った指揮官は、今に至るまで連綿と続く“赤ヘル軍団”の生みの親となった。他にも、当時日本ではまだ一般的ではなかった先発ローテーション制を導入するなど、牧歌的な市民球団だった広島をアメリカ仕込みの近代的なチームへと変えていった。

 だが、ルーツは開幕から1か月も経たないうちにチームを去ってしまう。4月27日の対阪神ダブルヘッダー 第1試合で、ストライク/ボールの判定を巡って審判に猛抗議。退場を宣告されても従おうとせず、放棄試合寸前となるまで抗議を継続した。審判団から要請を受けた広島の重松良典球団代表の説得を受けてようやく引き下がったのだが、2試合目の指揮は拒否。それどころか、球団代表の行動を「監督の権限侵害」と主張して、そのまま辞任してしまった。わずか15試合での退任は現在も史上最短記録だ。

 だが、ルーツの改革は広島の体質を劇的に変え、指揮を引き継いだ古葉竹識監督の下で、この年リーグ優勝を果たす。その後5年間で3度のリーグ制覇、2度の日本一を果たすチームの礎を作ったのは、間違いなくルーツだった。
 
▼ボビー・バレンタイン(ロッテ/1995年)
 前年まで9年連続Bクラスに終わっていたロッテは、日本球界初のゼネラルマネジャーとして、監督として3度の日本一に輝いた広岡達朗を招聘。チームの再建を託された広岡が招聘したのが、MLBレンジャーズで指揮を執った経験のある大物バレンタインだった。

 バレンタインの指導はまさに“メジャー流”だった。代名詞の「猫の目打線」は、データに基づいた起用だけでなく、一定の間隔で選手を休養させる意味合いもあった。猛練習が主流だった時代にあって、全体練習の量を劇的に減らしたのも、年間を通じたコンディション維持が目的だった。シーズン最初の2か月こそ苦戦したロッテだが、指揮官が「6月からは上昇する」と予言した通り、他球団の選手のパフォーマンスが落ちる夏場に力を発揮して快進撃。10年ぶりの2位という大躍進を遂げた。

“ボビー”の愛称でファンからも親しまれたバレンタインだが、“管理野球”で知られた広岡にとって、彼の手法は選手に楽をさせているように映った。広岡の現場介入が次第にエスカレートし、2人の関係は悪化。バレンタインは結局1年限りで解雇されてしまった。

 だが、他の監督ではチームを上昇させることはかなわず、バレンタインは2004年に監督に復帰。すでに広岡もチームにいない中で存分に采配を振るったバレンタインは、05年に球団31年ぶりの日本一を成し遂げた。

 この時もバレンタインは、95年と同じように毎日のようにメンバーを入れ替えながら戦った。当時主力選手の一人だった里崎智也は「休みながら戦うというのは新鮮だった」と語っている。猫の目打線はチームの層を厚くすることにもつながった。10年前の日本球界では受け入れられなかった指導法を正しさを、バレンタインは見事に証明してみせたのだ。

構成●SLUGGER編集部
 

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