【長崎ヴェルカのフロント・渡辺怜に聞く<中編>】なぜ、27歳でプロチーム“アシスタントGM”になれたのか

2026-27シーズンからのBリーグ新体制“B.革新”に変わる変革期の中で、B3に新規参入すると史上初のストレートB1昇格を果たして注目を集める長崎ヴェルカ。

そこで働く27歳の“アシスタントGM”、渡辺怜氏の若き挑戦に迫る。

今回の中編では、渡辺怜氏の源流を探る。高校卒業後、単身アメリカへ渡りショアラインコミュニティカレッジで選手を経験。「スポーツマネジメント」への学びを求めて編入したウェストバージニア大学では、NCAAディビジョン1のチームマネージャーとして“死ぬほど働いた”経験が、その後のキャリアを切り拓く。

なぜ、27歳という若さでB1・長崎ヴェルカのアシスタントGMという稀有なポジションを得られたのか。その経緯と、行動力を支える「動いた人に動いた分だけ」の考え方を聞いた。

▶「長崎ヴェルカのフロント・渡辺怜に聞く<前編>】アシスタントGMってどんな仕事?

ダメ元のDM連絡から

── 渡辺さんが、27歳という若さで、“アシスタントGM(ゼネラルマネージャー)”の仕事に就いた経緯を教えてください。

渡辺:長崎ヴェルカ社長兼GMの伊藤拓摩から“社長業とGM業の両方で手が回らなくなってきたので、GMのアシスタントのようなポジションで、事務と事業面を手伝ってもらえないか」と声をかけてもらったことがきっかけです。当時私は、同じくB1西地区に所属する大阪エヴェッサで、マネージャーとして2年働いていました。

── 伊藤拓摩さんとはお知り合いだったんですか。

渡辺:はい。コロナ渦になる直前の2019年12月頃、私がアメリカのウェストバージニア大学4年のときに、アメリカのテキサスで初めて伊藤に会いました。

私は、伊藤がアルバルク東京でアシスタントコーチの頃からその存在は知っていて、伊藤がヘッドコーチをしていたBリーグ開幕戦も観に行きました。

2019年12月、当時大学4年伊藤がGリーグのテキサス・レジェンズにコーチ留学していたことを知り「アメリカにいるうちに連絡すれば会ってくれるかも」と思い、ダメ元でTwitter(現X)で「テキサスまで旅行も兼ねて行くので、お時間いただけませんか」と連絡をしてみました。

今ならダメだと思いますが、当時は“若さで多少の失礼も許されるはず”という思いもありました(笑)。幸運なことに返信をいただき、結局テキサスでの伊藤宅に1週間泊まらせてもらって(笑)、いろんな会話をさせてもらったことが自分にとっては大きな契機です。

中学校入学前に本場で触れた“バスケット文化”

── 行動力がありますね(笑)。そもそも、渡辺さんが日本の高校を卒業後、アメリカの大学に進学していたのはなぜなんですか。

渡辺:私のバスケット歴を簡単に遡っていいですか(笑)。

兄の影響で小学一年の頃からバスケットにのめり込んでいって、小学校は週8くらいでバスケしていました(笑)。その頃、BSで放送していたNBAの試合を母親が録画してくれて、“ちょっと自分が知ってるバスケと違うな”と思いつつ、毎朝観ていました。

小学校卒業してから中学校に入るまでの春休みに、シアトルで日本人向けのバスケのキャンプがあるという情報を父親が見つけてきて。5泊くらいのスケジュールで、シアトルの近くのポートランド・トレイルブレイザーズとオクラホマシティ・サンダーの試合も観られる。

憧れのNBAを生で観られる貴重なチャンスに興奮して「行きたい」と親にお願いしました。

写真:アメリカでのバスケットボールキャンプに参加した渡辺怜氏(後列左から3番目)/提供:本人

── その時点で、もうアメリカのバスケット文化に触れたんですね。

渡辺:やったことのないトレーニングなどもいろいろ経験したんですが、一番印象に残ったのが「満員のアリーナ」でした。NBAとNCAA(カレッジバスケットボール)の試合を見たんですけど、アリーナが応援するチームのユニフォームで埋まっていました。

当時東京に住んでいて、日本のバスケもプロや大学の試合を毎週末のように観戦していましたが、代々木体育館も正直ガラガラでした。

子どもながらに、アメリカのバスケットとエンタテインメントに興味を持ちましたね。

── でも、大学は選手としてバスケットボール留学するんですよね。

渡辺: バスケットは大好きだったので、中学校でも高校でもずっと続けていて、いつかアメリカに行ってバスケットしたいな、という思いを持ち続けていました。

本場のスポーツビジネスを勉強したかったのと、バスケットボール選手としてどれぐらい通用するのかを試してみたくて、國學院大學久我山高等学校を卒業後、まずはシアトルの短期大学に入って、選手として2年間プレーしました。

1年目、入って半年でアキレス腱を切るアクシデントもありましたが、楽しい経験でした。チームメイトにはNCAAディビジョン1でプレーする選手もいて、レベルは高かったですね。

写真:ショアラインコミュニティカレッジでプレーする渡辺怜氏/提供:本人

── 当時、大変だったことは?

渡辺: 自分が何も知らなかったので、情報を集めることですね。トライアウト一つ受けるにも、知り合いを辿り自分の拙い英語でコンタクトして話を聞かないと始まらない。自分の夢のためだったので苦ではなかったですが、今になってみると大変だったなとは思います。

ただ、その頃から、プレーヤーじゃなくてもいいかなという思いも出てきていました。

── アメリカ留学までするほどの情熱なのに?

渡辺: そもそも、スポーツマネジメント分野を勉強したいという思いも強かったので。

4年生大学への編入を考え、その分野を学べるベストな環境に行こうと思って探し始めました。

身をもって体験できるのはチームに入り込むことだと思い、強い男子チームがあり、大学に専門的なスポーツマネジメント分野があって、現実的にチームに入り込めそうだったのが、ウェストバージニア大学でした。

── そこで、チームのマネージャーになるんですよね。大学バスケチームの活動ってどんな感じなんですか。

渡辺: 活動の規模感で言えば、アメリカを除く他のどんなプロチームより贅沢な環境でした。

当時、我々がいたカンファレンスは各チームが離れていたので、試合前日にチャーター機で移動してましたから。

── すごいですね(笑)。

渡辺: 選手には給料が発生しないので、放映権や寄付を中心に集まった資金を、コーチや各チーム施設の設備投資に回せたことが、その背景にあるんだと思います。

── マネージャーの仕事は、どんな仕事でしたか。

渡辺: 驚いたのが、選手13、4人に対して、マネージャーも13人にいたんです。そのうち、遠征に連れて行ってもらえるのは4人くらい。

── そんなに仕事があるんですか?

渡辺: コーチやストレングスコーチから、雑務の依頼が色々とあるんですよね。

立派な施設で至るところに冷蔵庫があって、全部に水を補給したりとか。明日のトレーニングメニューのための準備を前日に言われたり、練習でも、ウェアラブル端末で取得したデータの整理を手伝ったり。

中には怠惰な人もいるので、皆が同じ仕事量だったわけではないですが、僕は「言われたことは何でもやります」という姿勢で死ぬほど働きました(笑)。

朝8時過ぎにオフィスに行き、授業の課題は全部そこでやりました。選手が空き時間にちょっとシュート打ったりするときも、授業がないなら誰よりも先にリバウンドしに行きました。

夜もオフィスで課題をやり、選手が来たら仕事できるようにしていました。家に帰った後、夜11時くらいに選手が「シュート打ちたい」とか言うこともあるんですけど、一番最初に返事して行く、みたいな生活でしたね。

── 行動力ですねぇ。

渡辺:おかげで大学側からも評価してもらい、遠征にも連れて行ってもらえるようになりました。

アウェイでは、大学によってアリーナの形状やファンの気質に違いがあったり、大学間のライバル関係なども体感できたので、頑張って働いて良かったなと思っています。

写真:ウェストバージニア大学でマネージャーを務める渡辺怜氏/提供:本人

── そして、いよいよ卒業してアメリカのスポーツビジネスの仕事をという2020年は、コロナ禍のタイミングですね。不安はなかったですか。

渡辺: ありましたね。3年時の3月にマーチマッドネス(March Madness)という、アメリカスポーツの中でもトップクラスの経済規模を誇るイベントが中止になったときは、頭が真っ白になりました。

アメリカで働きたいと思っていましたが、コロナ禍も思ったより長引き、大学でフルタイムで働いていた人たちさえ解雇されていた時期なので、外国人である僕を雇うところは全く無くて。

その時期に大阪エヴェッサのGMの方から「マネージャーのポジションでどうか」とご連絡をいただきました。事業側に入っていきたいという希望があったものの、現場がどんな風に回り、マネジメントされているのかをまず知りたいと思って、大阪に行くことにしました。

── しかし、渡辺さんの進路は直接スカウトが多いですね。

渡辺: そうなんです。本当にありがたいこ゚縁を色々いただいて、そのおかげで始まっている部分が大きいですね。

── 渡辺さん以外もそうなんでしょうか。

渡辺: 経営者では多いと思いますが、事業側ではそこまで多くない気がするので、ありがたいです。

「動いた人に動いた分だけ」

── そうした縁に恵まれる渡辺さんが、普段から意識している姿勢や習慣って何かあるんでしょうか。

渡辺: なんとなく大事にしているのは「動いた人に、動いた分だけ」という言葉です。

── 行動力のある渡辺さんならではの言葉ですね。27歳という若さで“アシスタントGM”を務めることのプレッシャーはありますか。

渡辺: それなりにちゃんとしたポジションとして見られる役職なので名前負けしないようにしないと、と最初に来た頃は思っていましたが、選手や若いスタッフも多いので、現場の本音を引き出せるようにというのは、逆にこの年齢の良さかなと思います。

──確かに。関わる人も多いでしょうからね。

渡辺: そうですね、本来、GMのアシスタント業務は、事業側にあまり関わらないと思うんです。どの選手を連れてきたら強くなるのかという編成面の視点から選手をリクルートする側面が大きいので。

ただ、私の場合は事業側のMTGにも出させていただいて具体的な数字も教えてもらいながら全体を把握することを、この年齢でさせてもらえるのは非常にありがたいと感じています。

「ただ自分が好きなことを」

“いま思えば大変だったと思いますが、当時はただ自分が好きなことをやっていただけなので”、渡辺さんから何度か聞いたフレーズだ。

特別な誰かが選ばれるのではなく、“好き”の衝動に従って、行動し続ける人間が後から特別に見えるだけなのかもしれない。

次回後編では、長崎ヴェルカのチームとしての特徴とその哲学に迫る。