オシム、逝く。名将が描いた「日本らしいサッカー」とは

イビチャ・オシム,サッカー,監督 (Photo by J.LEAGUE/J.LEAGUE via Getty Images)

2022年5月1日、オーストリアのグラーツで、イビチャ・オシム氏が亡くなった。ボスニア・ヘルツェゴビナが生んだ名伯楽は、2003年からジェフユナイテッド市原の監督を務め、2006年からは日本代表監督の座に就いた。その年数以上に多大なるインパクトと影響を日本サッカー界に残し、オシム氏は80年の生涯にピリオドを打った。(文:井本佳孝)

ユーゴスラビアを率いてW杯ベスト8

1941年に生まれたオシム氏は現役時代FWとして活躍し、1964年に行われた東京オリンピックにユーゴスラビア代表の一員として来日した。クラブレベルでは母国であるボスニアのほか、オランダやフランスリーグでもプレーし、12 年間にわたる現役生活でイエローカードを1枚ももらわなかったという逸話を持つ紳士的な選手だった。

現役を退いた後1978年からはコーチ業に転身し指導者としてキャリアを積むと、アシスタントコーチを経て1986年にユーゴスラビアの監督に就任した。すると、1990年に行われたイタリアワールドカップ(W杯)ではドラガン・ストイコビッチ、デヤン・サビチェビッチといった名手を擁したチームを率いてベスト8に進出。名将として“イビチャ・オシム”の名を世界に知らしめることとなった。

“オシムチルドレン”を発掘しジェフを変貌

その後、ギリシャのパナシナイコスやオーストリアのシュトゥルム・グラーツなどで指揮を執ったオシム氏が来日を果たしたのが2003年のことだ。ジェフ市原の監督に指名されると勝負への執着心と、代名詞とも言える“考えて走るサッカー”を徹底して植え付けた。

チーム全体での運動量をベースとした戦いに加えて、阿部勇樹、巻誠一郎、羽生直剛といった“オシムチルドレン”と呼ばれた選手たちを見出し、自らの哲学をチームに注入。J1リーグではジェフを安定して上位に位置するチームに成長させただけでなく、2005年、2006年にはヤマザキナビスコカップ(現ルヴァンカップ)連覇を達成し、日本のサッカーファンにもその卓越した手腕が認識されることとなった。

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