富松恵美は、なぜプロレスから総合格闘技へ転向したのか?

今回は女性総合格闘家・富松恵美選手のインタビューです。熱狂的なファンから選手へと転身された経緯をユーモアを入れながらお話してくださいました。プロレス新人時代の苦労話にも注目です。

初めて修斗をテレビで観たときに、これだ!と思った

——本日はよろしくお願いします。まずは富松さんの経歴を教えてください。

よくありがちなんですけど、アニメ・スラムダンクを観て、小5の終わりからバスケットボールを始めました。その頃は背も大きかったので。今は小さいんですけどね。中学に入って続ける人もいましたが、私はソフトテニスを始めました。特に理由はないのですが、みんな中学で1から始める人がほとんどだったからですかね。すごくソフトテニスもマイナーですけど。ダブルスしか試合はないですし。そこでは副部長だったので、弱小校の中ではレギュラーでした。高校は市立船橋高校に進学しました。

——スポーツの名門校として有名ですよね!特にサッカーが強いイメージがあります。

だいたい学校名を出すと皆さんすごいよね、と言いますね。たしかにスポーツは強いです。ソフトテニス部からも勧誘がありましたが、アルバイトをしたかったので、断りました。ただ花道部の友達が文化祭の時に陶芸をやっているのを見て、やりたくなったので入ることにしました。高校生にしてろくろに憧れがあったんですね(笑)。

でも花道部員は3人しかいなくて、先生も強風の日は危険だからお休みしてしまうくらいの本当におばあちゃんでした。陶芸の先生はたまたまクラスの担任の先生でした。ろくろの上の土は柔らかいイメージがあると思うんですけど、初めは固いのであそこまでにするにはすごく力が必要なんですよ。だから先生はすごくいい前腕をしていましたね。その先生にお願いして、陶芸をする工房研究会というのも立ち上げたりしました。

——スポーツから完全に離れていたのですね。その後どのように格闘技に興味を持つようになったのでしょうか。

元々母が女子プロレスラーのブル中野が好きで、記憶はないですが小さい頃に全日本女子プロレスに連れて行った写真が残っていたりします。中学の時は新日本プロレスを観ていました。母が元々ヘヴィメタラーだったので、それを聴かされていました。その曲を蝶野(正洋)とか武藤(敬司)とかが入場曲として使っていたので、もうこれは応援するしかない、と。

——小さな頃からプロレス好きになるように擦り込まれていたわけですね(笑)

高校に入ったらたまたま同じクラスにプロレスが大好きな女の子がいました。お風呂で毒霧の練習をしているくらいの子です(笑)その子と意気投合してしまいました。いとこのおばさんが新日本プロレスのチケットを売っている人らしく、身内の結婚式に(アントニオ)猪木が来た写真を見せてくれたりしました。

それでその子と試合を東京ドームに観に行きました。最初はプロレスだったんですけど、そもそも総合格闘技を知らなかったんです。ただ初めて※修斗をテレビで観たときに、これだ!と思ったんです。

それで先ほどのプロレス好きの子に一緒に試合観戦に行こうと声をかけたのですが、プロレスしか信じないと言われてしまいました。でも本当にすごいから、チケット代出すから来るように誘いました。私も観に行くの初めてだったんですけどね(笑)。

テレビでも放送があったので、録画予約してから観に行ったのですが、帰ってきてそれを再生すると一緒に行った友達の子が選手を応援する声がすごい入っていました。もうすごいファンになってたんですね(笑)それから修斗の追っかけみたいなことをしてました。だいたいバイト代をそれにつぎ込む感じです。

※修斗……総合格闘技団体の名称。打撃と組み技の高いレベルでの融合を理想としている。

——当時から選手になりたいと考えていたのですか。

その時は特に考えていなかったですね。友達と休み時間にプロレス雑誌を見て盛り上がるぐらい好きではありましたけどね。そういった雑誌の編集者になりたいとは考えるようになってマスコミ科があるような大学を見たりもしましたが、金銭的な問題もあって難しかったですね。

富松恵美

——では、どのように格闘技の世界に入っていったのでしょうか。

高校生の時から格闘技専門チャンネルに自分で加入していたのですが、そこでジャガー横田さんがプロレスの大オーディションをやりますと言っていたので、それを就職にしようと考えました。でも当日行ってみると大オーディションのはずなのに2人しかいなかったんです(笑) まさかですね(笑)それは驚くと思います。

横浜に吉本工業が作ったプロレス団体「吉本女子プロレスjd’」があったんです。そこで試合が終わり、お客さんがいなくなった後入団テストをしました。ジャガー(横田)さんや選手や社長がずらっと並んでいる中、テストを受けました。たくさんいればいいんですけど、2人しかいないので、すごく集中して見られるんですよ(笑)しかも母にジャガーさんのサインを頼まれて、オーディションの後にもらいました。

——それはかなり勇気が必要ですね。

無事入団テストに2人とも合格したのですが、もう1人の子は短大生で大学を留年することになって入れないことにことになって、結局1人で入団することになりました。

——大オーディションとは具体的にはどのようなことをしたのでしょうか。

あまり記憶にないのですが、いわゆる基礎体力テストですね。腕立て伏せ、スクワット、縄跳びなどだったと思います。入団が決まると寮に入ってもらうから布団を持参するように指示され、家族と車で持っていったのですが、荷物を置く間もなく走りに行くから、と言われました。別れを惜しむ間もなかったのであの時は寂しかったと今だに親は思っているらしいです。

——いよいよ格闘技の世界に一歩足を踏み入れたわけですね。

そこからまずは大阪でのプロテストに向けた練習が始まりました。当然受け身はできないといけませんし、ロープワークやレスリングのスパーリングなどもやらないといけません。でも本番の1週間前までロープワークを教わっていなかったんです(笑)それまでは受け身と基礎体力を付けていました。

——自分から頼んで初めて教えてくれたということですか。

そうですね。もう本番が数日後に迫っているというところで教えてもらいました。皆さんロープは柔らかいイメージをお持ちだと思うのですが、慣れないと痛くて背中がコブみたいなものができます。中にワイヤーが入っていて、固いんですよ。

——外からは柔らかそうに見えます。

本番では同期の子とスパーリングをすることになったのですが、試合中になぜか耳から大流血してレフリーストップがかかってしまい、合格できませんでした。歯か何かが当たったのだと思います。2回目のテストで無事合格して、その年の夏に後楽園ホールでデビューしました。 入寮してハードトレーニングも多くなったと思います。

——体力面で付いて行くことは難しくはなかったですか。

とりあえずプロテインを飲んでいれば強くなると思い込んでいたので、トレーニングも大してせずに飲んでいました(笑)ただオーディションの次の日のバイトは筋肉痛でガチガチでしたね。バイト先の店長がプロレス好きだったので、よかったです。

——新人選手はやはり先輩方の雑用をすることも多かったのでしょうか。

とにかく先輩の世話をしてましたね。みんなはそれが嫌で布団だけ置いて逃げてしまう人もいました。逃げた後に布団だけ送って欲しいと連絡が来たり。知るかって話ですけど(笑)。

富松恵美

病気に苦しめられ、プロレス界から引退

——辛かった経験を教えてください。

吉本興業の団体なので、月1くらいで大阪のNGKホールで試合があるんです。お金がないのでバス移動なのですが、前の方の席に座って後ろで寝ている先輩の席で物音がする度に気を配らないといけないんですよ。なので全然仮眠できません。サービスエリアでは運転手と話をして、休憩時間の調整、案内をします。遠征先では近くにあるコインランドリーをリサーチして衣装を洗えるようにしたり、途中にみんなで入れる入浴施設を探したりします。

——そういったことまでするのですね。会社がやってくれたりはしないのですか。

自分達でリサーチしてまとめたものを会社に伝えるという形ですね。大阪行く時には寝た記憶はないですね。理不尽なこともたくさんありましたけど、先輩のせいにはできません。でも慣れてしまえば大抵のことは辛くないですね。あの時があるから今があるし、きついことがあっても乗り越えられるだろうという自信にはなっています。

——なかなか慣れるものではないですし、すごい精神力だと思います。**そのような苦労を経てプロレスデビューを果たすというわけですね。**

はい。ただデビューはしたのですが病気になってしまいました。2回離脱・手術、復帰したのですが、3回目再発した時の手術が大掛かりなものだったので、プロレスは引退することにしました。デビュー戦と同じ後楽園ホールで引退式を行いました。

富松恵美

——2回再発して、離脱されていますが心が折れてしまうことはなかったのでしょうか。

やはり自分の同期がどんどん活躍していくのを見て、刺激を受けていましたね。3回目に復活する時に全日本女子プロレスのジュニアトーナメントに出させてもらったのですが、プロレスでは結局そこでのリーグ戦での1勝くらいしかしていないです。

富松恵美

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