
輝きを放つアスリートたちは、どのようにして頂点を極め、そのときに何を感じ、そして何を手にしたのか—— 。
自身もプロゴルファーとして活躍している深堀圭一郎が、スポーツ界の元トップ選手や現役のトップ選手たちをゲストに招いて、アスリートたちの深層に迫る、BS無料放送『クロスオーバー』連動企画のテキスト版。
そこから垣間見えてくる、ゴルフにも通じるスポーツの神髄とは? 第1回目のゲストは元プロ野球選手の桑田真澄さん。
※敬称略
理不尽な指導に疑問を感じた少年時代……学んだのは検証の重要性
深堀:最初のゲストは元プロ野球選手で、読売巨人軍のエースとしてご活躍された桑田真澄さんです。桑田さんは、何歳から野球を始められたのでしょうか?
桑田:2歳のときです。僕が生まれたときに、父が枕元にグローブとボールを置いていたらしいです。僕をプロ野球選手にしたかったんだと思います。
深堀:お父さまは、キャッチボールでは「構えたところにボールがこなければ取らない」という逸話を聞いたことがあります。
桑田:小学校の低学年のころからそうでしたね。構えたグローブの範囲内に投げないと、球を取ってもらえませんでした。ですから速さよりも、狙ったところに投げなければ……という意識が強かったです。
深堀:ゴルフも同じですが、一つのルールを理解して練習することは、とても大切だと思います。
桑田:実は引退してから、大学院で学んだことがあります。小・中学生のころは神経系が発達するため「速いボールを投げたり、遠くへ飛ばす」よりも「狙ったところへ投げて、芯でとらえる」ことを意識して練習したほうが将来的によいということです。この時期に、神経系を刺激して練習すれば、高校生や大学生になって筋力がついたときに、パワーと技術の両方を兼ね備えた選手になれると思います。
深堀:中学生では準硬式野球をやられて、高校時代は野球の名門だったPL学園に進学されました。練習法などは、世代で変化していったのでしょうか?
桑田:僕は運がよくて、中学時代の野球チームには専門のコーチがいなかったんです。ですから「自分の好きなようにしなさい」という指導法だったので、自由に投げて打っていました。その結果、劇的に成長したんです。いいピッチングで抑えて、バッティングでは打つという好循環が生まれ、さらに何もいわれなくなりました。これでエースになったんです。そして、高校に自信満々で入学するのですが、強豪校なので専属コーチがいるんですね。すぐに呼び出されて「今の投球フォームでは通用しないから直しなさい。基本を教えるから」といわれたんです。内容は小学校時代に指導されたものと同じでした。おそらく野球の理論で、基本となるものは小学生からプロまで同じなんだと思います。中学生のころは自由に投げて劇的に成長しましたが、このときばかりはコーチのいっていることが「基本かもしれない」と思いました。なにせ野球の強豪校の指導者の話でしたから……。それで投球フォームを直し始めると、途端にダメになったんですね。結果的に、高校へ入学した年の6月に投手をクビになり外野に転向させられました。ところが、外野では自分の好きなように投げられたので、すごい球がホームベースに届くようになったんです。これを見ていた、当時の臨時コーチが、僕に「そのフォームでマウンドから投げてみなさい」と、声を掛けてきたんです。
深堀:桑田さんの恩師でもある清水一夫コーチですか?
桑田:そうです。PL学園の臨時コーチだった清水さんに背中を押してもらい、中学時代のフォームで投げたらすごい球がビュンビュンいき始めました。それで「試合で投げてみなさい」といわれて投手に戻り、気づいたら甲子園のマウンドに立っていた感じです。
深堀:「自分のよさを見いだしてくれる指導者に出会う」ことも必要ですね。僕は高校生まで、自分のスタイルでゴルフをしてきたのですが、ある時期にいろいろな人にスイングをいじられダメになったことがありました。指導された内容が、自分のリズムに合っていなかったんですね。このときに、諸先輩のいうことが「すべて通用するとは限らない」と感じました。
桑田:基本や常識も大切ですが、一番重要なことは「その内容が自分に合うか検証していくこと」だと思います。検証して合うものだけ実践すればよいのです。これに気づいてからは、練習法も考えるようになりました。自分には「短時間で集中して練習するのが合う」と感じていたからです。練習しすぎると、翌日疲れて集中力が欠けてしまうんです。高校1年生のときに甲子園で全国制覇して、高校ナンバー1投手になったわけですが「次も勝ちたい」と思ったときに、僕の中で猛練習が必要とは思わなかったんです。
深堀:普通は、さらに練習しなくては……と考える場合が多いと思うのですが?
桑田:僕は猛練習よりも、コンディションを整えることが重要だと感じていました。当時は、3連投や4連投が当たり前で、ひどいときには5連投もある時代でしたから「いつか壊れる」という危機感があったんです。そこで、練習も試合も万全のコンディションで臨むことを一番に考えました。
深堀:すごいですね。高校生で、コンディションづくりを考えて練習できる「完成された選手」は、そうはいないと思います。
プロを見据え課題を設定!カーブ以外の変化球を封印
深堀 学生時代の野球への取り組みについてお伺いしましたが、中でも自分のスタンスを確立されている点が素晴らしいと思いました。実は甲子園で活躍されていた当時は、球種も2種類に限定していたそうですが、何か理由はあったのでしょうか?
桑田 本当はいろいろな変化球を投げたくてしょうがなかったんです。実際に練習では、スライダーやフォークを投げていましたから。試しに紅白戦で使うと、面白いように空振りが取れましたね。でも、高校3年間の公式戦では「ストレートとカーブしか投げない」と決めていました。理由は高校時代に、これで抑えられないピッチャーは「プロではエースになれない」と考えていたからです。要するに、二つの球種で抑えるという課題を自分でつくったわけです。甲子園でピンチになり、チームメイトがマウンドへ来たときは「スライダーを使いなよ」と何度もいわれました。それでも、絶対にストレートとカーブしか投げませんでした。自分をすごく追い込んでいたと思いますが、結果的に投球で見えてくる世界が大きく変わりました。例えば、ストレートの調子が悪い日があったとします。そのときに「このバッターのスイングならインサイドが打てないのでは……もしくはカーブが弱いかも」と相手を緻密に観察するようになりました。さらに「球場の風向きが変わった」などの状況を踏まえた洞察力も身についたんです。
深堀 ゴルフでいえば、コースマネジメントのような感じですね。18ホールを考えながらプレーするというか……。桑田さんは、高校時代に活躍してから巨人に入団されたわけですが、そのときはどうでしたか?
桑田 僕はステージが一段上がるたびに、挫折を経験しているんです。プロに入団したときも、すぐに自信がなくなりました。最大の理由は体格の違いです。1年目は2軍スタートで、結果が出たときに1軍へ上がったんですが、そこでレベルの高さを目の当たりにして「自分はプロの世界では無理だ」と思いましたね。
深堀 僕もプロになったときに「球の質が違う」など、ギャップを感じたのですが、似たような感覚ですか?
桑田 そうですね。プロはバッターの打球の質が強烈です。速さだけでなく「伸び」がすごい。高校時代なら外野フライのような当たりでも、ボールが落ち際で伸びてホームランになります。これを実感して「2~3年で戦力外になる」と思いました。そして、シーズンが終わると当時の王貞治監督から「アリゾナの教育リーグに参加しなさい」といわれて、若手と一緒に米国へ行きました。ただし、現地に向かう飛行機では「アリゾナで投げても突然うまくなるわけないしダメだ。この後どんな職業に就こうか」と考えていたぐらいです。
深堀 野球を辞めようと思うほどの心理状態だったんですね。
桑田 そうです。アリゾナでは、それなりの成績も残したんですが「所詮マイナーリーグの選手を抑えたところで1軍では通用しない」と、完全にマイナス思考でしたね。
深堀 桑田さんは、完璧主義者だと思いますが、当時は自分の志が高いために心がアンバランスな状態だったのでしょうか?
桑田 僕は、基本的に超マイナス思考だったんですね。これを変えてくれたのが、アリゾナの教育リーグでした。といっても試合中の話ではなく休日の出来事なのですが……。実は選手全員でグランドキャニオンへ観光に行ったんですね。そのときに、記念撮影をした後、何げなく振り返ってグランドキャニオンを目にした瞬間「何だこれは!」と、感動の嵐に襲われたんです。大自然の雄大さに圧倒されて「自分は何て小さな存在なんだろう」と思いました。
深堀 僕もゴルフに迷いが出たときに、単身で米国へ渡ったことがあるんですが、広大な大地を見て桑田さんと同じ思いを抱いた経験があります。その後は球が曲がることを恐れなくなりました。「大きな問題じゃない」と思えるようになったんです。やはり、一歩外へ踏み出して違う世界を見ることも必要ですね。
桑田 深堀さんも、同じような経験をされていたんですね。僕は「何て小さなことで落ち込んでいたのだろう。2~3年後に戦力外になってもいいじゃないか……。今やれることを実践しよう」と思うようになったんですね。そして、帰りの飛行機には、別人の桑田真澄がいたわけです(笑)。機内では「栄養学やトレーニングの本を読んで体を鍛えよう」と、次のアクションも想定していました。帰国後は、すぐに本を購入して「掲載されていた内容をグラウンドで実践する」ことを繰り返したんです。
深堀 そんな努力が2年目の好成績につながったんですね。
世界に誇れる日本の美点は、礼節や道具を大切にする心
深堀 プロ2年目は15勝を挙げるなど飛躍の年になったと思うのですが、シーズン前に目標などは掲げていたのでしょうか?
桑田 1年目に2勝できたので、2年目は8勝を目標にしていました。理由は、プロの世界で2桁勝利を達成するのを、一つの通過点と考えていたから。そして「何が必要か」考えてウェートトレーニングを始めたんです。当時は「ピッチャーは基本的にボールより重いものを持ってはいけない」という時代でしたから、思い切った行動だったと思います。さらに、肩を冷やすためよくないといわれていた、水泳トレーニングやアイシングなども取り入れました。基本的に、練習は毎日ピッチングでしたが「今日は投げるのは休みます。その代わり別の練習をします」と説明して、自分で考えたトレーニングを実践していましたね。
深堀 そんな練習が桑田さんを巨人のエースへと成長させたんですね。
桑田 これ以降、野球界でもウェートトレーニングや水泳トレーニング、サプリメントの活用などが取り入れられるようになったんです。ピッチング練習も、現在はコーチなどから投手に「今日投げない人」と聞いてくれるようになっています。むしろ、3~4日続けて投げていると「休みなさい」といわれる時代です。
深堀 近代的な練習方法の基礎を桑田さんたちが築き上げられたんですね。桑田さんは、プロ入り2年目は「自分の感覚にマッチした」そうですが、どんな感じだったのでしょうか?
桑田 ひと言でいえば「動きと感覚が一致している状態」ですね。実は、プロ入り1年目にも「ピッチングの基本を教える」といわれて、小学校や高校時代と同じ指導を受けたんです。ところが、やはりよい成績は残せなかった。それで、アリゾナの教育リーグから帰国してもオフを返上し、東京で居残り練習をしていたんですね。このときに元プロ野球選手のある方が来てくれて「自分の好きなフォームで投げてみなさい」と、背中を押してくれました。2年目によい成績が残せたのは、トレーニングの成果もあると思いますが、最初から「好きなフォームで投げた」ことも大きかったと思います。ところが3年目はさらに上のレベルを目指したいと思うようになり、「それなら基本が重要」と再びいわれて、迷いが出たんですね。それでも、僕は指導者の方々を恨んだことはありません。理由は教えていただいた指導が、当時「正しい」とされていたからです。しかし、時代とともに状況は大きく変化し、道具や戦術も変わっていきます。それなのに指導法だけは進化を止めている。ですから、時代に合う指導法を常に見いだし、選手を育てることが必要だと思います。
深堀 確かにそうですね。ゴルフ界も、時代に合わせて指導法を進化させていくことが必要だと思います。桑田さんは、野球人としてのキャリアを米国で終えられていますが、いつからメジャーリーグへの挑戦を考えるようになったのでしょう?
桑田 プロ野球選手になるまでは、メジャーリーグは頭にありませんでしたね。しかし、巨人に入団しメジャーリーグで活躍した選手と一緒にプレーしていたときに、彼らから「挑戦してみては」といわれたんです。それでメジャーリーグについて調べ始めて、20歳ぐらいのころに「いつかプレーしたい」と思うようになり準備を始めました。例えば、言葉がしゃべれなければ……と考えて、毎日一つずつ英語も覚えていきましたね。僕は準備が非常に大切だと思うんです。これはピッチングも同じで、準備して投げて、出た結果に対しキャッチャーからボールが返送されてくる間に反省をしていました。例えば「ストレートがシュート回転した……同じボールを投げると打たれるから、どこに気をつければいいか」という感じで準備するわけです。このように現役時代は「準備→実行→反省」を一球ずつ繰り返していました。
深堀 メジャーリーグでは、桑田さんの野球に対する姿勢などをマネされた選手も多いと思うのですが?
桑田 そうですね。パイレーツは若い選手が多いチームでしたから。僕がキャッチャーの構えたところに、正確なボールを簡単に投げると驚かれました。それで、僕をリスペクトしてくれる選手たちが徐々に増えていきましたね。
深堀 メジャーリーグと日本の野球の違いは、どう思われますか?
桑田 米国の野球はひと言でいえば「パワーとスピード」。一方、日本のよさは「堅実なプレーや道具を大切にする心」などですね。グラウンドに入るとき「ありがとうございます」と挨拶したり、礼節を重んじるのも日本野球の魅力だと思います。これらは世界に誇れる美点です。
深堀 確かに礼節を大切にする心は、今後も若い選手に受け継がれていってほしいですね。
スポーツ界の問題解決には相手へのリスペクトが必要
深堀 桑田さんには現役時代についていろいろお話をしていただきました。引退してからの活動についてお伺いしたいのですが、桑田さんは引退後に早稲田大学の大学院に進まれましたが、いつごろから進学を考えられたんですか?
桑田 引退時期が近づいたときに「現役を退いてから何をしたいのか」考えていたんです。そして、子供のころに目標にしていた早稲田に挑戦しようと思い、調べてみると早稲田の大学院には社会人コースもあることが分かりました。しかも、高校を卒業していれば受験できたんですね。このときに大学で一般的な勉強をするより、大学院でスポーツビジネスを学んだほうがベストと判断したわけです。修士論文では野球の歴史をひもとき「野球道とは何か」について考察しました。日本の野球界の指導や理念についての研究です。
深堀 桑田さんは子供たちなどにも野球を教えられていますが、今後はどのように指導したり、理念を伝えるのが望ましいと思いますか?
桑田 「野球道」の中心には、武士道精神があるのですが、これは次の3つの理念で構成されているんです。①練習量の重視(長時間練習しなければうまくならない)、②精神の鍛錬(苦しいことに耐えてこそ強くなり勝てる)、③絶対服従(目上の人には絶対に従う)。おそらく野球界だけでなく、日本のスポーツ界全体が同じような感じではないでしょうか。僕は、これを今の時代に合わせて武士道精神を取り除き、スポーツマンシップを入れるべきだと考えています。練習は量ではなくバランス、精神の鍛錬も「調和」という言葉に置き換え、絶対服従は「リスペクト(尊重)」という考え方にするのがいいと思うんです。仲間だけでなく、審判や相手チームに対してもリスペクトする気持ちを大切にすれば、今スポーツ界で起きているさまざまな問題も解決するのではないでしょうか。
深堀 確かにそうですね。桑田さんは子供たちが使う道具については、どんな点が大切だと思いますか?
桑田 子供の道具を選ぶときに「成長するから大きめを購入する」という方もいますが、よくないと思います。やはり、道具はサイズが合うものを選び、大事に使うのが一番です。深堀 ゴルフ業界にも、数多くのジュニアがいるのですが、クラブが長すぎたり短すぎたり、合っていないケースがよく見られるんです。これではスイングに変なくせがつきやすいので、自分にピッタリな道具を使うことが大切です。小さいときはフルセットではなく数本でもいいので、長さなどが合うもので練習するべきです。そして、好きなゴルフに一生懸命に取り組んで、夢を叶かなえてほしいと思います。
桑田 そうですね。今は「夢が何もない」という若い人が増えていると聞きます。しかし、人は500年も生きられません……わずか100年弱の人生です。ですから、若い人たちや子供たちには「自分がやりたいこと」を見つけて挑戦してほしい。失敗して笑われても、恥をかいてもいい。その経験が必ず3年後、5年後、10年後に人生のプラスになりますから。僕も体格面などいろいろなコンプレックスを持ちながら今まで頑張ってきました。「自分には無理だ」ではなく「僕だからこそ挑戦するんだ」という気持ちで臨んでもらいたいと思います。
深堀 最後に、桑田さんの今後の夢や目標をお伺いできればと思います。
桑田 プロ野球の指導者になることも一つの目標ですね。ただし、これにはタイミングと縁が必要になりますが、僕自身は「いつでもいける準備」はできています。そして、最終的な目標は、日本の野球界やスポーツ界を発展させていくことです。具体的には、スポーツビジネスを進化させたいですね。例えば、プロ野球の収益性を向上させ、増えたぶんを学生野球などアマチュアの環境をよくすることに投下する。やはり、ジュニア世代の環境をよくすることが業界の発展には欠かせませんから。そのためにも、さまざまな野球界の連盟(硬式、準硬式、軟式、ソフトボールなど)が、一つにまとまっていくのがよいと思っています。理由は、現状の体制では「誰かが反対する」と全体で何も決まらないからです。例えば、甲子園大会なども僕は8月の1カ月間で開催したほうがいいと思っています。そうすれば、連戦しなくて済むからです。休息日として空いた日程には、軟式野球や女子野球の全国大会などを入れればいいと思うんです。しかし、このような提案をしても、いくつかの連盟から反対が出れば何も変わらない状況が続きます。ですから、日本の野球界を発展させるためにも、さまざまなことに取り組みたいですね。
深堀 今後も発信力のある桑田さんには先陣を切って、いろいろな活動をしていただければと思います。僕も自分のできる場所で、スポーツ界のために頑張っていきます。今回は本当にありがとうございました。
▼桑田真澄/くわた・ますみ
1968年4月1日兵庫県生まれ、大阪府出身。PL学園高校で甲子園に5季連続出場(優勝2回、準優勝2回)して、通算20勝を記録。85年にドラフト1位で読売巨人軍に入団すると、2年目の87年に沢村賞を獲得。94年には最多奪三振王となり、シーズンMVPにも輝いた。その直後の95年に右ヒジ靭帯断裂の重傷を負うが見事復活。2006年にはメジャーリーグ挑戦のため巨人軍を退団し、07年にメジャー初登板も果たした。08年に現役を引退。通算173勝。
取材/写真・山代厚男
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