
輝きを放つアスリートたちは、どのようにして頂点を極め、そのときに何を感じ、そして何を手にしたのか—— 。
自身もプロゴルファーとして活躍している深堀圭一郎が、スポーツ界の元トップ選手や現役のトップ選手たちをゲストに招いて、アスリートたちの深層に迫る、BS無料放送『クロスオーバー』連動企画のテキスト版。
そこから垣間見えてくる、ゴルフにも通じるスポーツの神髄とは? 第2回目のゲストは小椋久美子さん。
※敬称略
心のバランスを崩した高校時代……ダブルスでの出会いが転機に!
深堀:「オグシオブーム」から10年以上がたちました。あれからバドミントンが多くの人に応援してもらえるスポーツになったと思うのですが、小椋さんはいつバドミントンを始められたのでしょうか?
小椋:小学2年生(8歳)です。私は人口が少ない町で生まれて、女の子ができる競技がミニバスケットとバドミントンしかなかったので、自然に始めていた感じです。それから、いつもバドミントンで強くなりたいと思っていました。しかも相当な負けず嫌いでした。負けそうになると泣きながら試合して、お母さんに怒られてましたね(笑)。
深堀:バドミントンで「日本一や世界一になりたい」と考えるようになったのはいつごろですか?
小椋:大阪の四天王寺高校という強豪校に入学したときです。そこからバドミントンへの向き合い方や練習法、モチベーションなどが大きく変わりましたね。例えば、中学生のころは「全国大会で優勝しよう」とは思いませんでしたから。理由は、自分よりも明らかに強い選手が二人いたからです。一人は後にペアを組む玲ちゃん(潮田玲子選手)で、もう一人すごい選手がいたため、自分を勝手に3番目の選手と決めつけていました。実は周囲は同レベルに見てくれていたのですが、当時の私はそうは思えませんでしたね。自分が優勝している姿を想像できないというか……。ところが、高校に入ると「全国大会は優勝しか意味がない」という雰囲気だったんです。
深堀:環境が一変したんですね。
小椋:そうですね、監督や先輩たちの意識はものすごく高いところにありました。結果が出ないときには怒られ、仮に優勝しても課題があれば褒められません。すごく厳しい世界で、常に劣等感を抱いていましたね。しかし、実際は私に対する周囲の評価はそれなりに高くて、心のバランスが取れない状態が続いたんです。高校生のときは、自分の心だけがポカンと置いていかれているようで本当につらかったですね。それでも3年間耐えて、頑張れた部分もありましたし「変わらなければ」という意識も芽生えました。
深堀:小椋さんは、シングルスで頂点を極めるために努力をされていたと思います。それがなぜダブルスへの移行を決断されたのですか?
小椋:最初に衝撃を受けたのは、高校1年生のときでした。シングルスの選手として、私も玲ちゃんも代表合宿に呼ばれたのですが、練習の一環でダブルスがあったんです。このときに、玲ちゃんとペアを組んで試合をしたらものすごく感触がよかったんですね。「こんなにもプレーが合って、うまくいくのか」と正直驚きました。
深堀:お互いが感じたのでしょうか。
小椋:そうですね。もともとシングルスプレーヤーなので、ダブルスの戦術なども一切分かっていない状況でパッと組んで試合をして「そういう感触」を持つのは異例だと思います。言葉を交わさなくても動きだけでパートナーの考えていることが分かるんですから……。高校1年のときには「二人でダブルスを組みたい」と思っていましたね。しかし、玲ちゃんとは学校が違うので、高校3年間はダブルスでインターハイなどには出られませんでした。ジュニアの国際大会には出場させてもらっていましたが、きちんと組んだのは社会人で同じチームになってからですね。
深堀:どのような経緯で同じチームに入ることになったのでしょうか?
小椋:もともと仲はよかったのですが、合宿や遠征で一緒になったときに「組みたいね」と話していました。そして、私が先に三洋電機のチームを選び、進路で悩んでいた玲ちゃんを「ダブルスでペアを組みたいから来てほしい」と誘ったんです。
深堀:そうなんですね。注目度が高くなると周囲の見方も変わってくると思いますが「オグシオブーム」のときの心境はどうでしたか?
小椋:正直、複雑でした。人気が本質ではないかも、と感じる部分があったんです。自分でいうのも何ですが、当時は「美女アスリートブーム」みたいなのがありましたから。本当に競技者として応援してもらえているのか疑問でした。しかし、それを悔しいと感じていたので「結果を残さなければ」というモチベーションにもなりました。そして、練習に没頭し、夜10時には寝て朝5時半ぐらいに起きる生活を送っていました。私は常にバドミントンのことが頭から離れないタイプで、誰かと食事に行っても次の日の練習が気になって仕方なかったんです。早く帰りたい……なんて思いながら、ご飯食べてました(笑)。
深堀:アスリートには、ストイックに突き詰めていく時期も必要ですよね。例えば、コンディションを保つために「何時に寝ないといけない」みたいなことを常に考えながら競技人生を送る……。小椋さんも、ストイックだから周りに左右されないのだと思います。
守りのプレーから積極的に仕掛けて攻撃するスタイルに進化!
深堀:小椋さんが潮田さんと本格的にペアを組むまでについて、いろいろお伺いしました。その中でストイックにバドミントンに取り組まれていたお話もありましたが、高みを目指して鍛錬を重ねていく過程ではアクシデントに見舞われることも多いと思います。例えばケガなどもそうですが、小椋さんはどのように克服されたのでしょうか?
小椋:現役時代、私はケガが多い選手でした。ぎっくり腰になったり、ヘルニアの持病もあって腰に大きな爆弾を抱えていたんです。そのため、練習メニューはハードに行う部分と抜く部分をつくり、メリハリをつけていました。「自分が想像している以上に無理したり頑張れる」気質であることを自覚してからは、少し練習量も「落とす」ようにしたんです。さらに、ケガの予防のため酸素カプセルに入ったり、ストレッチなども二人で念入りに行いました。動かせない部分をしっかり伸ばしてもらい、練習後には冷やすなど、日ごろから体のケアを心がけましたね。
深堀:実際のトレーニング方法や練習量を抑えたメニューなどは、ご自身で考えられたのですか、それともチームからの提案なのでしょうか?
小椋:メニュー自体は、チーム側が考えてくれました。それをベースに、自分の疲労度などを考慮しながら調整していた感じです。例えばケガの後で、復帰を目指してリハビリしているときなどは全力で取り組める状態ではありませんから、与えられたメニューに対して引き算をしていましたね。これ以上のトレーニングは、次の日に疲労がたまりすぎて腰の痛みに変わるかも……、といったことを考えながら練習していました。とにかく、大ケガにだけはつながらないように気をつけましたね。私は筋肉が硬くなりやすく、疲労がたまる傾向が強かったんです。しかも、自分の体が悲鳴を上げていることに気づきにくいのも厄介でした。ですから「これ以上はダメ」と、ある意味で抑える部分を持つようにしました。
深堀:小椋さんは今の現役選手の練習方法などを見て、自分たちとの違いを感じますか?
小椋:若い選手たちは、トレーニングや練習方法が計画的でメリハリがあると思います。そして、楽しみながらウォーミングアップやトレーニングする環境も整っていますね。例えば、練習前に映像を見ながらダンスみたいな感じで動いたり。このような取り組みは、私たちの現役時代にはありませんでした。そういう意味では、ユニークなトレーニング方法や体の動かし方を実践していると思います。選手も同じことばかり続けていると飽きてしまい、それが集中力の欠如となりケガにつながりやすいため、ユニークな方法を取り入れるのはいいと思いますね。代表選手の合宿を見たときに、楽しそうに練習しているのがすごく印象的でした。今の代表選手は一年間がハードなんです。試合数も多いですし、合宿や遠征などを合わせると、去年(2018年)などは、250日間も一緒に過ごします。その間、ハードな練習をしながら大会にも出場するため、どこかで抜かないとケガのリスクが高くなるんです。それを選手たちも分かっているので、少しでも痛みがあるときは必ず伝えるようになっています。この点は昔と大きく変わりましたね。
深堀:代表選手の活動が、さまざまな面でプラスに働いているんですね。これはゴルフ界も同じですが、他競技からの提案や今まで多くの方が実践してきた歴史などを顧みながら「ここを変えたら伸びるのでは」と、試行錯誤しながら進んでいるように感じます。現在の楽しさと自己主張ができる環境は、その賜物ではないでしょうか。
小椋:本当にそうですね。今は朴柱奉(パク・ジュボン)さんがバドミントン日本代表のヘッドコーチ(監督)をされていますが、私たちの世代が指導を受けた1期生なんです。当時はトレーニングが厳しかったのですが、朴さんは選手のモチベーションも上げてくれました。例えば、朴さんは現役時代の功績も偉大なのですが、そんな人から「あなたたちも世界で勝てる」といわれれば「そうなの!」と思いましたし、試合中も「いろいろなことに挑戦しなさい」と、いってくれました。当時の日本の戦術は、どちらかといえばパワーやスピードでは勝負しない傾向で「守りのプレー」が中心だったんです。つまり、積極的に仕掛けて攻撃するスタイルではなかったわけです。しかし、朴さんには強豪相手でも「仕掛けて挑戦しなさい」と、よくいわれました。その結果プレースタイルが大きく変わり、幅も広がったんです。
深堀:そうなんですね。朴さんの指導力も素晴らしいですし、小椋さん世代が日本の女子バドミントン界の新世代をつくり上げたといっても過言ではないと思います。
万全の状態では臨めなかったオリンピック……しかし二人で頑張ってきた4年間に感謝!
深堀:ケガの克服法や世界を目指す取り組みなどについてお伺いしました。実際にダブルスで2008年の北京オリンピックにも出場されていますが、当時は潮田さんが「カミソリ」、小椋さんは「ナタ」という言葉でプレースタイルを評されていたと思います。なぜそのような印象になったと思いますか?
小椋:ダブルスには役割があり、それをメディアの方々が見て「カミソリ」と「ナタ」とたとえてくれたのだと思います。私のほうが身長が高くパワーがあったので、後衛が多かったことも「ナタ」のイメージにつながっているかもしれません。後衛はカバーする役割があって、後ろからダイナミックなスマッシュを打ったりするのでゲームをつくっているように見えます。しかし、実際は後ろからのスマッシュは滅多に決まりません。後衛は前衛がスマッシュを決められるように、いいコースに打つことを心がけるんです。つまり、「縁の下の力持ち」ですね。一方、前衛はネットに近い距離で相手の配球に対し次を読む能力が必要になります。スピードへの対応やラケットワークなど、センスがないと務まりません。玲ちゃん(潮田選手)は、ゲームメイクはもちろん、切り込んだり相手の意表を突くのがうまかったので「カミソリ」と表現していただいたのだと思います。
深堀:バドミントンでは、何ショット先まで読んでプレーしますか?
小椋:大抵、自分が打つときには3手先ぐらいまで考えていますね。そして「最初にこのショットを見せて相手に意識させれば逆をつけるかも」みたいに、一試合の中でもイメージを持ちながらゲームに臨みます。ここにも駆け引きがありますね。
深堀:ダブルスでは、そこを共有する必要があると思いますが、言葉にしなくても理解できるあ・う・ん・の呼吸が存在するのですか?
小椋:ありますね。ダブルスにはそのペアならではの動き方やプレーが存在します。私の場合は、玲ちゃんの得意なエースショットを理解しているので「何がしたいか」が分かるんです。まさにあうんの呼吸ですね。
深堀:初めてオリンピックの出場が決まったときの現場の雰囲気や、当時の気持ちなどはどうでしたか?
小椋:バドミントン競技は、オリンピック出場が決まるのが開催年の5月なんです。そこで正式に出場を知るわけですが、残り時間が3カ月しかないんですね。最初は出場できた安堵感が大きかったのですが、すぐに自分は今世界レベルで「どの位置にいるのか」について考えるようになりました。そして「3カ月間ではメダルは取れない」と思ったんです。どう考えても、残された時間で技術面やパワーなどを大幅にレベルアップすることはできません。そこで「自信を持ってコートに立ちたい」と考えるようになり、練習で異常なほど追い込みました。自分はメダルが取れる位置にいないから「これだけやったから大丈夫」と思えるぐらい練習しなければ、という心理状態です。正直、焦りなのか自信がなかったのか分かりません。その結果、体が悲鳴を上げていたのに追い込みすぎて3カ月間にギックリ腰を3回も患いました。ですから、コンディションのいい状態ではオリンピックに出場できなかったんです。大会が終わってから、いろいろな人に「あのときは声を掛けられなかった」といわれましたから、それぐらい入り込みすぎていたのだと思います。
深堀:やはりオリンピックは特別な競技ですね。4年に一度で、選手としてのピークを必ずそのタイミングでつくれるとは限りませんから。
小椋:そうですね。ケガも含めて「開催時に自分を一番いい状態」に仕上げることが難しいと思います。私も残りの3カ月間で、万全な準備ができたとはいえませんでした。4年間を「背負いすぎた」というのが実感です。オリンピックという舞台では、いい結果を残せず悔しい思いも正直あります。しかし、努力した4年間は全部を否定するものではないと考えています。「いい試合ができなくてゴメン」とパートナーに思う気持ちもありましたが、それ以上に「二人で歩んできてよかった」と感じたんです。仮に一人だったら挫折していたかもしれません。同じ目標に向かって頑張ってくれる人が隣にいてくれたのは大きかった。私は4年間二人で頑張ってきたことが「感謝」として残っています。
深堀:ゴルフも含めていろいろなスポーツで、今も多くの子供たちが上を目指して努力しています。そして、残念ながらいい成績が出ないと怒られることがあるのも事実でしょう。しかし、小椋さんや潮田さんのように「一生懸命ベストを尽くしてやり切る」ことの大切さを常に子供たちが感じられる世界になってほしいと思います。
50歳になっても選手や子供たちとシャトルを打ち合い、自分の経験を伝えていく!
深堀:現役時代のオリンピックのお話などを伺いましたが、小椋さんは今後ジュニアの指導などにも一層力を入れていかれると思います。選手の育成については、どのように考えていらっしゃいますか。
小椋:今は自分の経験を伝えることが一番だと思っています。やはり他の人の意見を言葉にしても、相手の心に響かないと思うんです。自分がバドミントン人生を過ごしてきた中で、よかったことや反省すべきことを話したいですね。「自分が今も現役選手だったらコレをしておきたかった」と思う部分がありますので。それから、子供のころに地元でバドミントンをしていて、すごく楽しかったこと。強いチームではありませんでしたが、小さいながらも目標を持たせてもらえたり、本当にバドミントンが大好きになれる環境でした。社会人チームで壁にぶつかったときに支えてもらったのも、子供のときの「楽しかったバドミントンの思い出」でしたから。やはり、子供たちには最初に楽しいと思える環境を提供してあげたい。それから、強化練習会などに行かせてもらったときには、きちんと説明するようにしています。例えば、高圧的に大きい声を出しても一瞬場を引き締める効果はありますが、選手たちはいわれたことを理解しないと思うんです。そのため「どうしてよくないのか」を説明しています。
深堀:確かに理解してもらうために、説明することは大切ですね。それから、小椋さんは必ず子供たちと「一回打ち合う」と聞いたことがあります。実は、僕にも若いころに1ホールだけ「すごい先輩とラウンドできた」という感動の記憶があるんです。そのときにアドバイスされた「ひと言」が本当に心に響きました。やはり触れ合うことで、その競技を好きになるし「すごい人にいわれたこと」は宝物。小椋さんがこれを実践している点に共感しますし、僕もそういう機会を大切にしなければ、とあらためて思いました。
小椋:私も中学生のときに、陣内貴美子さんが三重県に来てくださって、バドミントンのシャトルを一緒に打ったのを鮮明に覚えているんです。それをいまだに自慢したりして(笑)。私自身が、一番記憶に残ることを体験として持っています。ですから、参加者の方は多いときは120人ぐらいになりますが、必ず全員とシャトルを打ち合うんです。それで「いい一日が過ごせた」と感じていただければうれしいですね。
深堀:バドミントンも含めて、スポーツで夢を見ている子供たちに小椋さんから伝えたいことはありますか。
小椋:繰り返しになりますが、まずは好きなものを見つけること、そして楽しいと思う環境も大切にしてほしいですね。私は「目標や夢を持つ」というのは、好きなことの延長線上にあると思うんです。だからこそ、うまくいかないときにも向き合って解決法を見つけられるのだと思います。「好きだからやりたい」ではなく「やらなければ」という気持ちでスポーツをすると苦しいことから逃げ出しがちで、目標も持てない。自分がやりたいことをどれだけ頑張れるか、その積み重ねが最終的に目標達成になるはずです。先を見すぎないようにして一歩ずつ階段を上り、その過程で起きる多くの困難を乗り越えた選手が最終的につかむ場所が「頂点」。「継続は力なり」といいますが、一歩ずつ階段をしっかり上っていくような姿勢でスポーツに取り組んでほしいですね。
深堀:そのとおりですね。結果は積み重ねの先にしかありません。子供たちには目先だけで簡単に諦めるのではなく、できることからトライしてほしい。成功している人の背景には、必ず日々の積み重ねがあることを忘れてはいけないと思います。最後に、小椋さんの今後の夢についても教えていただけますか。
小椋:2020年に東京オリンピック・パラリンピックが開催されますが、私にとっても大切な大会だと考えています。この舞台で、メディアを通じて伝える仕事ができればと思います。その先は、例えば50歳になってもバドミントンのコートに立ち、選手や子供たちと一緒にシャトルを打ち合いたい。これは、かなり先の夢というか目標です。
深堀:その気持ちがあるから、いろいろなことが見えてくるんですね。競技は違いますが、僕もスポーツのよさを多くの人に伝えていきたいと思います。今回はありがとうございました。
▼小椋久美子/おぐら・くみこ
1983年7月5日生まれ、三重県出身。元バドミントン選手。潮田玲子との女子ダブルスペア「オグシオ」として全日本大会5連覇。北京オリンピックにも出場(5位)。
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