【テキスト版】CROSSOVER「STANCE」深堀圭一郎×平野早矢香

高校で初めて日本一に!卒業後は世界の舞台を目標にミキハウスへ入社

深堀:中学生時代までの卓球人生について伺いしました。平野さんは、高校では中学で実現できなかった日本一を目指されたと聞いたのですが。

平野:はい、高校1年生のときに初めて個人戦で日本一になれました。高校2年生以下で競い合う『全日本選手権』ジュニアの部での優勝です。それから2年生のときに団体戦で優勝し、3年生のインターハイではダブルスで勝つこともできました。

深堀:アスリートは、メンタルの強い人が多いと思うんですが、平野さんも学生時代から「卓球の鬼」という感じだったのでしょうか。

平野:私はメンタルが強いと思ったことはありません。高校3年生のインターハイのときなども、塩釜神社へ優勝祈願に行ったらコーチに「神頼みなんて心が弱い」と怒られたことがあるんです。しかし、一度試合が始まると「集中する」というか、良くも悪くも「周りが見えなくなる」ことはありましたね。

深堀:ゴルフでも同じですが、「ゾーン」に入る感じでしょうか。

平野:そうですね。高校1年生で日本一になったときは「ゾーン」に入ったと思います。勝ち負けよりも「自分が今までやってきたことを出し切る」という点に集中できて、ボールがゆっくり見えましたから。今も「あそこにサーブを出して決まった」など、最後にポイントを取るまでの数球はハッキリ覚えています。

深堀:高校卒業後は、ミキハウスに就職されましたよね。ゴルフ界では、大学に進学するなど選択肢がありますが、卓球界では社会人に進むことが多いのでしょうか。

平野:大学に進む選手の方が割合としては多いです。当時の仙台育英の卓球部も進学がほとんど。もちろん、私も大学から声をかけていただきましたし、仙台育英に残って教員という形で籍を置きトップを目指す選択肢もありました。しかし、大岡監督やコーチと相談した結果「強くなるのは難しい」と判断し、出ていくことにしました。ミキハウスの卓球部は当時のライバルだった四天王寺高校のエリート選手が入社する企業で、世界の舞台が目標なら「ミキハウスがいい」と大岡監督に勧められたんです。最終的には、ミキハウスの社長さんや卓球部の監督さんに私たちからお願いする形で入社しました。

深堀:大岡監督は「どうすれば平野さんの想いを実現できるか」考えてくれたのですね。

平野:ええ、ライバル校だった四天王寺の監督さんが、ミキハウスの指導者も兼ねていましたから。ミキハウスで上手くいかなければ「仙台に戻ってくればいい」といって送り出してくれました。

深堀:高校時代と違う監督さんになり、練習方法などに変化はあったのでしょうか。

平野:ミキハウスに入社して驚いたのが「自分で決めなさい」といわれたことです。強いチームなので「練習プランなども考えてくれるはず」と思っていましたから。「自分の目標を目指す」感じで、練習内容もバラバラ。いきなりレシーブ練習する人もいれば、フットワークを行う選手もいる。実際に監督さんやコーチから練習内容の指示を受けたことは一切ありません。そのなかで、私は世界を目指すために「従来とは違うもの」を取り入れ、ラケットなどの道具やプレースタイルを大きく変えたんです。

深堀:それは結果にも現れましたか。

平野:入社1年目と2年目に『全日本選手権』で優勝して、連覇することができました。

深堀:技術的には、何が大きく変わった のでしょうか。

平野:新しいサーブを覚えたり、体の使い方なども変えて、プレースタイルの幅を広げていったんです。特に、新しいサーブは攻撃の軸として得点源になりましたね。

深堀:従来のベースにプラスαをして、対応力などを高めたのですね。世界を見据えた場合、常にレベルアップが必要だと感じます。ビッグタイトルの連覇で、周囲も実力を認めるでしょうし「今までの壁を越え自分が強くなる瞬間」が現れると思うのですが。

平野:おっしゃる通りです。2連覇達成のときには、多くの人に認めてもらいました。

深堀:世界という面ではオリンピックへの道が見えてきたのも、このころでしょうか。

平野:海外ツアーなどに参戦しつつ、現実的に世界も意識し始めていましたね。その最初の一歩が2008年の北京オリンピックへの挑戦です。

深堀:平野さんは、目標に向かって着実に歩まれてきた感じですね。

伝説の雀士から勝負の心構えを学ぶ…試合の流れに目を向け北京五輪に出場!

深堀:ミキハウス入社後に『全日本選手権』で2連覇したときのお話などを伺いましたが、このころから世界を見据えていたそうですね。

平野:『全日本選手権』の2連覇で「ようやく認めてもらえた」という気持ちはありました。しかし、私よりも海外の試合で実績のある選手もいたので「次は世界で成績を残さなければ」と強く感じていましたね。

深堀:世界への道程はどうでした。

平野:険しかったですね。いろいろなタイプの選手に対応するのが大変でした。体格的にも170cmを超える大柄な選手がいますから。パワー勝負は無理なので、技を磨く必要があったんです。そんな状況下で、2008年の北京五輪で代表権を獲得することを目標にプランを立てました。07年は、オリンピックレースの1年間になるため、まずは08年1月の世界ランキングで日本人選手で「上位2名に入る」ことがミッション。ですから、当時プロツアーと呼ばれていた試合(現在のワールドツアー)など、ポイントが絡む大会で成績を上げることが重要でした。

深堀:当時、平野さんはランキング的にはどの辺りだったのでしょうか。

平野:そのころは、おそらく30位前後だったと思います。オリンピックの代表権を獲るために必要な上位2名に入るには、20位ぐらいになる必要がありました。

深堀:ランキングを上げるための秘策はあったのでしょうか。

平野:まずは体の使い方を見直しました。合理的な力の出し方といいますか。そのために古武術の先生にアドバイスをもらったりして。また、メンタル的な部分では、麻雀界のレジェンドの桜井章一さんの本を読み、「勝負に対する心構え」に衝撃を受けました。そして、桜井さんが麻雀をしている雀荘を見つけて、手紙と電話で連絡。最初は電話でいろいろお話をしていただき、オリンピックの出場が決まったときには雀荘にも行きました。

深堀:麻雀をしたんですか(笑)

平野:いいえ、麻雀は一度もやったことがありません。勝負に対する「心構えを教えて欲しい」という気持ちだけで行きましたから。そのときに「素振りして」といわれて雀荘でやったんです(笑) すると桜井さんから「左手が上手く使えていない」と、いきなり指摘されて。そこからいろいろな面でアドバイスをいただくようになりましたね。

深堀:桜井さんの言葉で、一番印象に残っているのは何ですか。

平野:「早矢香ちゃんは試合のときにすごく考えてプレーしているけど、一番大切なのは考えることではなく流れを感じて掴むことなんだよ」という言葉。それで私は「流れに目を向ける」ことから始めました。もう一人の自分が客観的に「全体の流れを見る」といいますか。この言葉は今でも心に残っています。

深堀:勝負には必ず「流れ」がありますよね。僕も試合で「このパットは絶対に入れなければ」という場面が何度もありました。このような場面でプレッシャーに打ち勝つには、日頃から状況を想定した練習を繰り返す必要があると感じますね。

平野:練習で積み重ねてきた基本と臨機応変な対応力の両方が必要だと思います。

深堀:卓球は中国が強いですが、実際に北京五輪に出場されたときはどうでしたか。

平野:オリンピックに出ること自体が初ですし、中国は卓球が国技みたいな感じなので注目度が別格でした。試合が始まってからも、中国の選手達が普段とは別人のように緊張してプレーしている姿を見て、改めてすごさを実感しましたね。

深堀:自国開催のオリンピックですから、中国の選手にはプレッシャーが重くのしかかっていたんでしょうね。日本も結果的には、北京ではメダルに届かなかったんですよね。

平野:そうですね。女子の団体戦で、私は福原愛ちゃん、福岡春菜ちゃんと3人で出場。当時、私はシードランキングで5位だったので、個人戦はメダルを取るのが難しいと思っていましたが、団体戦は日本女子が力を発揮していたため、「メダルに届くかも」という期待はありました。実際にそれが出場選手全員の目標になっていましたから。何とか3位決定戦まで勝ち上がったのですが、韓国に3-0で負け、メダルには届きませんでした。このときに、オリンピックでメダルを取るには「いい部分も悪い部分も含めて、自分のすべてを出し切る必要がある」と感じましたね。

深堀:やはりオリンピックはすごい舞台ですね。

ライバルでありながら団体戦では仲間となり頂点を目指す…銀メダルを掴み取った3人の強い絆

深堀:北京五輪で惜しくもメダルに届かなかったというお話を伺いました。次はロンドン五輪を目指されましたが、すぐに気持ちを切り替えられましたか?

平野:半年ぐらいは自分の心と体が噛み合いませんでしたね。実際に成績も一度ガクンと落ちました。それでも「ロンドン五輪に向けて頑張ろう」と。当然ですが、それまで通りの戦い方では勝てませんから「自分の卓球スタイルをどうするか」についても悩み、結果的に大きく変える決断をしました。例えば、強くて速いボールを打つために用具を替えたり。ほかにも、日本代表チーム全体で、実力がずば抜けていた中国以外の国(韓国・シンガポール・香港)の3か国に勝たなければ「オリンピックのメダルはない」という話になったんです。そこで、ライバルをその3か国の選手に絞り「勝つための分析」も行いました。例えば、○○選手は「サーブが○○にくる確立が何%」「大事な場面では○○のコースに打つ」など。これらを踏まえ「どのような戦術と技術で対抗するか」について、私をはじめ一緒に戦った福原愛ちゃんや石川佳純ちゃんたちと考えました。

深堀:個人としては、どのようなトレーニングをされたのでしょうか。

平野:北京五輪からロンドン五輪までの間は、中国での合宿を増やしたり、中国のクラブチームの一員としてリーグ戦などにも出場しました。

深堀:ロンドン五輪前は、福原選手や石川選手との関係はどうだったのでしょうか。

平野:私のなかで2人は大スター。そして、代表の座を争う強力なライバルでもありました。とはいえ、団体戦では強い結束力で仲間として協力しながらメダルを目指す。ある意味で卓球は不思議なスポーツですよね。私も2007年に『オーストリアオープン』に出場したときは、愛ちゃんとダブルスを組んで勝った1時間後に、今度はシングルスで敵として愛ちゃんと戦ったこともあります。卓球選手はメンタル的に過酷だと思いますね。

深堀:3人は仲が良いけど年齢を越えたライバル関係で、しかも団体戦では仲間として頂点を目指す。そんな関係だったんですね。結果として、ロンドン五輪では銀メダルを獲得されたわけですが、どうでしたか。

平野:メダル獲得が決まったのが、準決勝のシンガポール戦でしたが、この試合前にちょっとした出来事があったんです。本番前日に監督からいわれた、ダブルスのオーダー変更です。当初は「愛ちゃんと佳純ちゃんのペア」で戦う予定でしたが、対戦相手との相性やシングルスの状況などを考えて急遽「私と佳純ちゃんのペア」に。正直、監督からいわれたときは自信がなかったのですが「可能な限り調整をして試合に臨みます」と答えました。

深堀:直前のオーダー変更には、対戦相手も驚いたでしょうね。

平野:そうですね。シンガポールの選手たちは当日、全員が驚いた表情で私たちを睨んでいましたから(笑)。結果的に、シングルスで愛ちゃんと佳純ちゃんが2連勝、ダブルスも勝って前回銀メダルだったシンガポールに「3-0」で勝利したんです。

深堀:監督さんの的確な状況判断が、功を奏したんですね。やはり、選手をしっかり見て「どうするのがベストか」常に考えていることが大切ですね。平野さんは、ロンドン五輪後、リオ五輪も目指しましたよね。しかし、結果的には出場は叶いませんでした。それが、引退の決断に繋がったのでしょうか?

平野:16年のリオ五輪に出場できないことが決まった瞬間に「今後どうしよう」と思ったんです。大きな目標がなくなり、練習してもしっくりこない。例えば、20年の「東京五輪を目指そう」と考えても、35歳で迎えるオリンピックですから難しい。そんな気持ちから引退を決意しました。

深堀:引退後も卓球に関わっていらっしゃるんですよね?

平野:はい、ミキハウスからコーチとして声をかけていただいて。私自身も「素晴らしい指導者の方」に恵まれたと思っていますし、教えてもらったことを「今度は伝えたい」と感じるようになったんです。しかし「本格的な指導者になる」という考えには至りませんでした。実際にミキハウスのコーチという立場も1年間だけで、今はスポーツクラブアドバイザーとして講演をしたり、たまに「助言などをさせていただく」感じで活動しています。最近は、百貨店さんとミキハウスのコラボ企画でトークショーをしたり、子供たちと卓球をすることもありますね。

深堀:現在もさまざまな活動をされている平野さんには、さらに卓球界の発展に尽力していただきたいと思います。今回はありがとうございました。

▼平野早矢香/ひらの・さやか

1985年3月24日、栃木県出身。ロンドン五輪では卓球の団体戦で銀メダルを獲得。16年に現役を引退し、現在はミキハウススポーツクラブアドバイザーほか、卓球の普及に尽力。

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