岩田朋之 TOMOYUKI IWATA Vol.1「ロービジョンフットサルとの出会い」


26歳で突然、目が見えづらくなった。夢に向かって走り出した矢先に、真っ暗な闇へ突き落とされた。だが、希望の光となったのはスポーツだった。
ロービジョンフットサル選手として活躍してきた岩田朋之は、視覚障がい者になっても自分の可能性を信じ、前へ進み続けている。
「SmartSportsNews」の独占インタビューを3回に分けてお届けする。

はじめて見つけたソムリエという夢

——視覚障がい者になる前の岩田さんについて教えてください。

小学生から大学までスポーツが好きで、小学生の頃はサッカー、中学校の頃は野球をやっていました。高校時代は部活に入ったりというのはなく、友達と遊んでいるごく普通の高校生でした。ただ、小さい頃に習い事でやっていた水泳を高校から再開しましたね。あとは地元の人たちが集まるようなフットサルが隔週であったので、そこに参加するくらいでした。大学に入ってからは水泳を活かせるようにとライフセービングクラブに入って数年やったんですけど、体とメンタルに不調をきたすようになって留年を繰り返すような状態になっていました。

——アスリートを目指していた学生というよりは、一般的な学生だったわけですね。

プロアスリートを目指すという学生ではなかったですね。昔から祭りごとが好きなタイプで、仲間とか周りの人を巻き込んでなにかをするというのが好きでした。高校2年のスポーツ大会ではクラスが盛り上がって僕がバレーボールに出ているわけでもないのに優勝してなぜか僕が胴上げされたんですよ。そのときに高く上げすぎて首から落ちてしまって、首の靭帯を痛めて入院したんですよね。それで2002年の日韓W杯を病院のベッドの上で見ることになりました。お祭り男としては本当に辛くて、あれのせいでサッカーへの執着心が生まれましたね。渋谷のスクランブル交差点でみんなが楽しそうにしている映像を見てて羨ましかったですよ。いろんな外国人と交流したり、そこで友達ができたらいいなとか思っていたので、それが叶わなかったのがすごく心残りでしたね。母親にわがままを言っていろんな国のユニフォームを買ってきてもらったりしていました(笑)。

——サッカーはプレーするだけではなく、見るのも好きでした?

昔から好きでしたね。子供の頃がちょうどJリーグが開幕してブームの世代で、鹿島アントラーズが好きでした。たまたま友達と行ったのが鹿島と清水エスパルスの国立競技場での試合で、それですごく感動してそこからずっと鹿島が好きになりましたね。ジーコさんの引退試合は両親に無理を行ってカシマスタジアムまで観に行きました。

——大学から卒業するあたり、将来のことを考えたときになにをしようと思っていたんですか?

大学は結局卒業をしていなくて中退したんですけね。だからどうしたいかというより、なんとかしなきゃというのはずっと思っていました。それと「こんなはずじゃなかったのに」というという思いもありました。だから公務員試験を2年連続受けたんですね。落ちましたけど(笑)。それでもズレた人生の針をなんとか真ん中に戻したい、軌道修正したいという思いが強かったですね。周りのみんなは就職して、結婚もしたり、子供も生まれたり、車買ったり、人生のステージがかわっていくところでしたね。だからスポーツでどうするというのはまったくないんですよね。そんなことよりどうやって生きていこうか、自己肯定感を探している感じでした。そうしたときにこのままじゃダメだと、一念発起して飲食の道に進んでソムリエになろうと思ったんですよね。

——なぜソムリエだったんですか?

簡単に言えば縁があったからですね。赤坂のメゾン・ド・ユーロンというミシュランの星を取るくらいの店でアルバイトができる機会をもらったので、そこでしっかりと自分を叩き直してもう一度出直したいという思いがありました。それから最初に働いた店の同世代のシェフがいて、その人と将来一緒に店を作ろうという夢ができたんですよね。そのためにサービスマンとして一人前にならないと、その人に申し訳ない、恥ずかしいという思いがあったのでここでしっかりとやり直そうと思ったのがきっかけですね。

「レーベル症」の発症

——病状が発覚したのは、いつだったんでしょうか。

2012年の4月に働き始めて、自覚症状が出てきたのが7月末でした。約4カ月くらいですね。レーベル症と診断されました。急激に視力が低下して、視覚障がいとなる難病です。

——ソムリエというのは岩田さんにとってようやく見つけたやりたいことだったわけですよね?

そうですね。キッチンの人たちが作る料理を自分がサーブして、料理の魅力をお客さんに説明したりとか、そういうコミュニケーションが好きでした。怒られることも多くて、毎日しんどかったですけど、絶対にここで歯を食いしばって働き続ければしっかり道が見えると思っていました。店のオーナーもサービスマンとして一人前になったら経営のこともしっかりと教えてあげるからと言ってくれていました。そういうのがあってしんどくても毎日朝から晩まで一生懸命働いていましたね。

——それだけの思いがあって病気が発覚したときのショックは想像に余りありますが、そこからどうやって立ち直っていったんですか?

きっかけはそのときどきのいろんなステージでありました。最初のきっかけはこれ以上家族に迷惑をかけられないというのが一つ。大学で散々留年を繰り返した挙句に中退して、そこからようやくやりたいことを見つけてこれから人生上がっていこうと思ったところでさらに人生どん底に落ちましたから。こんなことあるのかと。しかも難病で治らないと言われたときは、自分のことじゃないみたいで受け入れられなくてもう笑っちゃう感じでした。

——家族はどんな様子でした?

そんな自分に家族もかける言葉がないという感じでしたね。家族の顔が日に日にぼやけていくんですよ。検査入院をしていて、毎日見舞いに来てくれる母親の顔が福笑いのパーツがなくなっていくように消えていきました。せっかく見つけた夢も諦めなくてはいけなくて、僕は確かに留年もして家族には散々迷惑をかけてきたんですけど、ここまで悪いことしたかなって。神様がいるんだったらなんとかしてくれと夜な夜な考えることもありましたね。

——それからどうされたんですか?

レーベル症はミトコンドリアの異常に関する病気で、母親から遺伝するものだと。それで弟も発症する可能性があるということで、検査のために紹介された病院をいくつか回ったんですね。それでそのときに病院の先生に言われたのが「君自身が輝くことがなによりも大切なんだよ」と、それはなぜかというと「君自身は事故にあったようなもので、弟はどうだろう。お化け屋敷にいるようなもので、いつ出てくるかわからい病気を恐れながら生きていく中でなにを目印に生きていけばいいと思う?」と、それで「それは両親ではなく、お兄ちゃんだろう」と言われたんですね。弟は7つ離れているので半分自分の子供のような感覚もあったので、それを聞いて診察室で嗚咽するように泣きました。それが一番のきっかけですね。自分がなんとかするしかないと。

——病気になって初めて芽生えた感情や気づいたことという感じですか?

そうですね。母親はやっぱり自分のことをすごく責めていたし、父親は多くを語らなくて。弟は二十歳になったばかりだったので、二人で飲みに行ってお前もなるかもしれないから検査したほうがいいと。お前ももしなったら兄弟だなって二人で冗談言いながら笑っていたのを覚えていますね。そういう中で考え方というのがそれまでとガラッと変わっていきましたね。本当に大切なものは目に見えないんだと。家族やパートナー、自分自身。手に届く範囲の人を大切にしなきゃいけないんだということですね。見えないから何かを信じるしかない。信じることが希望なんだとわかりました。

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