【ハンドボール】東俊介 SHUNSUKE AZUMA Vol.2「夢は、ハンドボールをメジャーにすること」


ハンドボールで日本一に9度輝き、日本代表ではキャプテンを務めた東俊介氏。引退後は複数のスポーツ関係企業で仕事をする“パラレルワーカー”として活動する。
野球やサッカーのような大きな市場にはなっていないマイナー競技の世界で戦ってきたからこそ見える、これからの日本のスポーツ界に必要なものとは。
「SmartSportsNews」の独占インタビューを3回に分けてお届けする。

平田ゼミでの濃厚すぎる1年

——東さんは現役引退後に早稲田大学大学院で学んでいますが、これはどんなきっかけがあって入られたんですか?

まだ現役の頃にお世話になっていたノンフィクションライターの田崎健太さんに「トップスポーツビジネスの最前線」という本を勧められて読んでいました。それが後に恩師となる平田竹男先生の著書なのですが、読んでいて「トリプルミッション」という概念を初めて知りました。スポーツをビジネスにしていく上で、“勝利・普及・市場“の3つを好循環させていくことが大事なんだと。市場のところは今では”資金“と表現されていますけれど、その本を読んでトリプルミッションを意識するようになりました。

——平田先生の本を読まれて、実際に門下生となられたきっかけは?

田崎さんが早稲田でスポーツジャーナリズム論という講義を持たれていて、その講義内で行う模擬インタビューのインタビュイーとして、同じ大崎電気に所属していた早稲田出身の猪妻正活くんと呼ばれたんですね。そのときに「ハンドボールをメジャースポーツにしたい」と話していたら質問者に「日本の中でメジャースポーツといったらバレーボールやバスケというイメージがありますけど」と言われて、「いや、僕はバレーボールもバスケもメジャースポーツではないと思っています」という話をしたんです。僕の中でメジャースポーツという切り口は、その世界で食べられるかどうか。それは選手としてだけでなく、メディアがあったり、解説の仕事があったり、引退後にその知名度を生かしてタレント活動ができたり。つまり競技に関わる経済圏が築けているかどうかなんです。

——その意味ではやはり野球やサッカーになりますよね。

だから「日本でメジャースポーツと言ったら野球やサッカー、相撲とかではないですかね」という話をしていたらそれを平田先生が聞いていらしたんです。その講義が終わった後に食事しましょうということになりました。そこで平田先生に「ハンドボールは何が問題なんですか?」と聞かれたときに、僕はトリプルミッションの話をしたんです。

——平田先生に、ですか?

そうなんですよ(笑)。本の内容は覚えていても先生の顔は覚えていなかったので、目の前にいる方が著者とはわかっていなかったんです。僕は平田先生の著書に書いてあるままのことを平田先生ご本人に熱弁していて、もう「釈迦に説法」どころの話じゃなかったです(笑)。

——それで気に入られたわけですか?

今考えると本当に恥ずかしいというか、とんでもないことをしたなと思うんですけど、平田先生は「うん、うん」と聞いてくださいました。その後、田崎さんを通じて「あいつ面白いじゃないか。大学院に来たらどうだ?」ということを言われて、「ぜひ受けたいです」と。それで人生が変わりましたね。

——実際にはどうやって入られたんですか?

試験前に研究計画書というものを提出する必要があって、主にメールでのやり取りですけど面接を10回ほどやります。今思うと入学前に卒業できる論文が書けるというか、ほとんど完成していないと入れてもらえないわけです。1年間なので相当厳しくて、最初はまったくついていけなかったです。生まれて初めて寝ないで勉強しました。

——やはり入る時点でかなりハードルが高いわけですね。ゼミではどんなことを学ばれたんですか?

スポーツをビジネスとする上で必要な知識をつけるため、統計学やマーケティング、MBAなどについて基礎から学びましたが、机上ではなく、各界の最前線で活躍されているような方々から表では言えないような生々しい事例を題材に互いが先生となって教え合うようなスタイルでした。僕は元プロ野球選手の桑田真澄さんと同期だったのですが、プロ野球球団で勤務なさっている方やプロスポーツリーグのマネジメントを担っていた方、世界的なスポーツメーカーや飲料メーカーでマーケティングの責任者を務めている方やなど、錚々たるメンバーの中で必死に学ばせていただいた、本当に濃厚な1年でしたね。

人生を変えたJFAの“夢先生”

——平田ゼミで学んだことを卒業後はどうハンドボールに活かしていかれたんですか?

僕は現役の頃から引退後はコーチになるように要請を受けていて、引退後のレールは敷かれている状態でした。ただ、僕自身はコーチではなく、チームマネージメントのほうに進みたいと思っていたんです。ゼミでの日々を経て、よりその思いは強くなりました。ゼミでの論文テーマは「大崎電気のトリプルミッション好循環のための施策」というものでしたが、現状の問題点を明らかにしたことに対してよく思わない人もいました。結局、チームから追われてしまい2年間は一般従業員として働いていました。

——2年間ということはハンドボールに復帰できたわけですね。

きっかけはJFAの“夢先生”という活動です。2011年の東日本大震災のときに、JFAと日本スポーツ協会が組んで、被災地で“スポーツこころのプロジェクト”という支援活動を始めました。そのときに当時の日本体育協会の会長で、トヨタ自動車の社長も務められた張富士夫さんが1年に1回の視察にいらっしゃることになって。そこで僕が夢先生に選ばれたわけです。

——まるで御前試合ですね。

おっしゃる通りです。当日は日本サッカー協会の小倉純二会長もいらしてました。僕は大崎電気の仕事として、改善活動で知られるトヨタ生産方式を推進する事務局を担当していたのですが、僕の夢先生の授業は「なぜ?」を繰り返して真の原因を突き詰めていくトヨタ生産方式のスタイルなんです。子どもたちに「なぜ? どうしたらいいと思う?」と問いかけていくように授業を進めていたら張さんが「すごくよかった」と褒めてくださったんです。

——夢先生をきっかけに気に入られたわけですね。

僕はお礼の手紙と日本酒がお好きだと言うことだったので、地元石川県の天狗舞という日本酒を送らせていただいたんです。すると後日、「一度トヨタに遊びに来なさい」と。社交辞令かと思っていたら秘書の方から「いつ来られますか?」と本当に連絡が来まして、そうなるともう大崎電気の社長マターなわけです。トヨタの会長に呼ばれて、トヨタに見学にいくわけなので。

——かなりの大ごとになったわけですね。

工場長や製造部長など選抜メンバー10人くらいでトヨタの元町工場に行くことになりました。トヨタのメイン工場である元町工場は通常は世界中から見学の人が訪れるので、工場案内だけでも女性の従業員が8人くらいいるんですが、忘れもしない2013年2月11日の祝日、その日に工場を見学したのは世界中で僕らだけでした。そこに張さんもいらして、もう超VIP待遇を受けたわけです。トヨタの工場には名だたる経営者の方々のサインが書いてあるんですけど、そこに工場長もサインさせてもらったり、美味しいお弁当をご馳走になったり。そこで張さんが「東くんの夢はハンドボールをメジャーにすることだからこの若者の夢を応援してあげてほしい」と工場長に伝えてくれたんです。その一言で僕はハンドボールに戻れたのだと思っています。

「あと20年我慢すれば」と言われて

——復帰されてからはどんな活動をされたんですか?

大崎電気で働きながら日本ハンドボールリーグ機構の運営委員の仕事をするようになりました。会議で日本リーグ機構の多田博会長にマーケティングの重要性を訴えかけてマーケティング部設立を実現し、部長を任されることになりました。4年間のマーケティング活動の中ではJリーグ立ち上げに尽力された木之本興三さんにもご協力をいただきました。始めに千葉のご自宅兼事務所までご挨拶に行ったときに「今のハンドボールはJリーグが日本サッカーリーグ(以下JSL)だった頃と似ている。もう20年前だな。死ぬ前にハンドボールをメジャーにするという東さんの夢を手伝うよ」と言ってくださったんです。それでリーグのマーケティングについてコンサルティングしていただきました。

——木之本さんに参画していただきながらどんな企画を進めていたんですか?

ハンドボールは企業チームとクラブチームが混在しているので、JSLがJリーグになるときのようにリーグでプロパティを一括管理できるようなシステムを作ろうとしていました。それから40周年記念プロジェクトを任されていて、色々な数字に基づいた企画案を提出したんです。しかし、最終的には40年はまだ時期尚早だから50周年に向けて頑張ろうと先延ばしになりました。それでこのままここで活動していてもハンドボールをメジャーにするという夢は叶えられないと悟りました。ただ、当時の僕は大崎電気という一部上場企業の副課長で、日本ハンドボールリーグ機構のマーケティング部長という肩書もあって、メジャーにするために一生懸命目標に向かっていますと言い訳することはできるんですよ。年齢は40歳、妻と娘と息子がいて、家もローンで買ったばかり。

——守るものがたくさんありますね。

でも辞めなきゃ夢が叶わないこともわかっているんです。木之本さんや張さん、他にもお世話になって応援してくれた人がたくさんいるんですよ。夢先生でたくさんの子どもたちに「ハンドボールをメジャーにします」と約束もしてきました。

——でも大崎電気にいれば定年まで勤められますよね。

会社からはすごく止められましたね。でも最後に言われたんです。「このままあと20年我慢すれば退職金も出るし、安定した人生が送れる」と。「この会社って我慢する場所なんだ」と、そのときに絶対に辞めようと思いました。

——先は何も決まっていない中で大きな決断でしたね。

夢は本気になればなるほど挫折も失敗もするし、辛いことやしんどいことがいっぱいありますよね。それで折れてしまった人たちが「どうせ夢は叶わない」と下の世代に伝えていく。僕もまだ夢を叶えることは出来ていない。これまでに出会ってきた子どもたちも、今後生きていく中で、あきらめてしまいそうなことをたくさん経験すると思うんですが、「そんな時には俺を検索してくれ」と伝えています。君たちもしんどいかも知れないけれど、俺もずっとあきらめずに、あれから変わらずに夢に向かって失敗を繰り返しながら頑張っているからしんどくなったら俺のことを見てくれと言うわけです。離れているけど、仲間だぞと。もうその約束に対して意地になってやっている感じです。これまでに出会ってきた人たちに恥ずかしくないように。

Vol.1「脱・マイナースポーツ」
(ハイパーリンクURL)
https://ssn.supersports.com/ja-jp/articles/5fae547833b843697d50d713

Vol.3「“パラレルワーカー”という生き方」
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■プロフィール

東俊介(あずま・しゅんすけ)

1975年9月16日生まれ、石川県金沢市出身。大崎電気にて実業団選手としてハンドボールを11年間プレー。大崎オーソルで9度の日本一に貢献し、日本代表として数々の国際大会に出場し、キャプテンも務める。2009年に現役選手を引退。現役引退後は早稲田大学大学院で平田竹男教授の下、スポーツマネジメントについて学び、日本ハンドボールリーグの初代マーケティング部長に就任。2016年3月末で大崎電気を退社し、株式会社サーキュレーションにて経営コンサルタントを務めた後、アスリートのキャリア支援を行う株式会社アーシャルデザインのChief Branding Officerなどを務める。

https://twitter.com/shunsukeazuma

■クレジット

取材・構成:Smart Sports News 編集部