【ハンドボール】東俊介 SHUNSUKE AZUMA Vol.1「脱・マイナースポーツ」


ハンドボールで日本一に9度輝き、日本代表ではキャプテンを務めた東俊介氏。引退後は複数のスポーツ関係企業で仕事をする“パラレルワーカー”として活動する。
野球やサッカーのような大きな市場にはなっていないマイナー競技の世界で戦ってきたからこそ見える、これからの日本のスポーツ界に必要なものとは。
「SmartSportsNews」の独占インタビューを3回に分けてお届けする。

スポーツは“ビジネス”にしなければいけない

——東さんは「当たるんですマーケティング」で取締役を務められている他、「アーシャルデザイン」でのチーフブランディングオフィサーや「琉球アスティーダ」の取締役など、多くの肩書きを持ったパラレルワーカーとして活躍されています。アスリートとして類を見ないキャリアデザインだと思いますが、現役の間からハンドボールやスポーツ界に対して問題意識を持って取り組まれてこられたと聞きます。まずはどんな問題意識を持たれていたのか聞かせてください。

きっかけは2000年ですね。私は大崎電気という企業チームに所属していましたが、社会人2年目のときに大崎電気の女子ハンドボールチームが廃部になったんです。それは大きなインパクトがありました。当時、女子チームは日本一を決めるプレーオフに出場するほど強くて、それに対して男子は下部リーグとの入れ替え戦を戦っていたんです。男子チームより女子チームのほうが強くて、社内でも愛されていました。

——自分たちよりも強くて愛されていたチームが廃部になって、自分たちが残るというのは確かに大きな出来事ですね。

もう一つが、僕がアテネオリンピックに向けた日本代表チームに入っていた頃ですね。当時、ホンダがかなり強化にお金を使っていて世界のMVP選手を獲得してきたんですよ。サッカーで言えばメッシやクリスティアーノ・ロナウドみたいな選手が日本でプレーしていて、もうすごく強かったんです。それがリーグ6連覇の祝勝会の席で活動を縮小することが発表されて、お世話になった先輩方が「俺たちは何をやってきたんだ。強くても、勝っても、頑張っても、何にも意味がないじゃないか」と。そう言っていたのがものすごく強烈に残っています。それが2003年でした。

——大崎電気だけではなく、ハンドボール界全体が苦しい状況だったわけですね。

ハンドボールというスポーツ自体に人気がないのはわかっていました。やはり野球やサッカーのようなメジャースポーツとは違うわけですよね。2004年に大阪近鉄バッファローズの球界再編の動きがあった時に、やはりスポーツはビジネスにしなければ立ち行かないと思わされましたね。僕たちはずっと「オリンピックに出ればハンドボールはメジャーになれる」と言い聞かされてきて、僕も「そうなんだろうな」と思っていました。でもよくよく考えればそんなことはない。女子のソフトボールやレスリング、なでしこジャパンはみんなオリンピックやワールドカップで優勝しているのにメジャースポーツの仲間入りはできていませんよね。

——世界一になっても難しいというのが現状ですね。

そうした例を見てきて、やはりスポーツはビジネスにしなければいけないと思うようになりました。それから大崎電気もチームとして変わるきっかけがありました。

宮﨑大輔が日本のハンドボールを変えた

——そのきっかけとは?

2001年に三陽商会という企業チームが廃部となって岩本真典さん、中川善雄さん、永島英明くんという日本のトップクラスの3人が大崎電気に移籍してきたことで、チームのレベルは格段に上がりました。なかでも中川さんと行動を共にするようになって、中川さんが立ち上げられたNPOや選手会などの活動に僕も参加させていただいたことで、選手としての意識がどんどん変わっていきましたね。チームとしてもリーグで毎年ベスト4には入れるほどの力がついてきて、2003年に宮﨑大輔くんが加入してからは更にレベルが上がり一気に優勝出来るようになりました。

——宮﨑大輔さんの存在はハンドボール界全体においてもとても大きかったわけですよね。

彼がハンドボール界を変えてくれました。TBSの「スポーツマンNo.1決定戦」というアスリートが運動能力を競い合う番組で宮﨑くんが優勝したことで、新しいお客さんが一気に増えました。中川さんや岩本さん、永島くんが加入したことでも以前よりお客さんが入るようにはなりましたけど、宮﨑くんの存在で今までハンドボールの世界にはいなかったような若い女性がたくさん増えて、会場に黄色い声援が飛ぶようになりました。アウェーへの遠征時には追っかけまで来るようになって信じられない光景でしたね。

——象徴となるスター選手が現れて、そこからハンドボール界も変わっていったのですか?

変わりましたし、もっと変わるだろうと思っていたんですよね。一番盛り上がったのは北京オリンピックの再予選の日本対韓国。予選のやり直しという前代未聞の出来事の原因となった“中東の笛”というのが世間でも大きな話題となりました。その頃、僕はもう代表選手ではありませんでしたが、現役選手ながら応援団として代表チームを後押ししようと動いていました。会場となった代々木第一体育館には1万人を超える観客が入って、ここで勝って、オリンピックに出場すれば日本でハンドボールがメジャースポーツになれるかも知れないと思いましたよね。

——結果的にはあと一歩及びませんでした。

千載一遇の機会を逃してしまったわけですが、それでもやっぱりハンドボールをなんとかしたいという想いはありました。当時、日本ハンドボールリーグがファンサービスとして試合後のサイン会を義務付けていたのですが、僕らのところにはそれほど並ばないんですけど、宮﨑くんのところには100人とか200人とか並んでいるんですね。彼はどれだけ並んでいようとずっと書き続けているわけです。しかも彼のサインはサッと書けるようなものではなくて、筆記体で、なんか書くのが面倒そうなやつなんです。一人ひとり時間をかけながらずっと笑顔で対応していて「後輩がこんなに頑張っているのに、俺ら先輩が頑張らないでどうするんだよ」と思わされましたね。彼は後輩ではありますけれど、本当に尊敬していて、息子の名前も彼からもらって「大輔」と名付けました。

——宮﨑さんとの最初の出会いは?

東 彼が大学2年の頃にアテネオリンピックの予選があって、そのときに日本代表で一緒にプレーしたのが初めてで、その後大崎電気でもコンビを組むようになりました。僕がディフェンスの中に入るポストプレイヤーで、彼は司令塔のセンターでした。シュートやフェイントのバリエーションは多いし、身体能力はずば抜けているし、全然レベルが違うと感じました。ルックスも良くて、たくさんのお客さんを会場に連れてきて、嫌な顔一つせず、今で言う“神対応”でファンサービスするわけです。写真をお願いされても絶対に断らなかったし、時間がなくてマネージャーに止められてしまったときは「すみません」と頭を下げて謝るんですよ。こんな選手は見たことがないと思いましたね。

——あれだけ突出したスター選手だと、先輩としては嫉妬を覚えることはありませんでしたか?

僕は全然スターではなかったので(笑)。でも悩みもあっと思います。プロ選手の中で一人だけ突出していましたし、それこそ周りからの嫉妬はあったでしょうね。僕としては彼に引き上げてもらったところもあるんです。練習中に、「あそこが空いていたのになんで動かなかったんですか?」と言われたことがあって、「いや、お前見てなかったでしょ」と僕は言い返したことがあったのですが、「いや、わかっているので余計なこと考えないで動いてください。空いているところに動いてもらえば必ず出すので」と言うわけです。そこまで言うならやってみようと、試しに動いてみたら全部パスが入ってくるわけですよ。驚きましたよね。そこから僕のレベルも上がって代表に定着するようになって、キャプテンまで務めさせていただけましたから。

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