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レインビア&ロッドマン――芸術的なラフプレーで他球団から恐れられた“最凶コンビ”【NBAデュオ列伝|前編】<DUNKSHOOT>

レインビア(左)とロッドマン(右)はNBAが肉弾戦全盛の1980年代にフィジカルなプレーで一世を風靡した。(C)Getty Images
「今のNBAはソフトになった」

1980~90年代にプレーしていた選手は、ほぼ例外なくそのような感想を口にする。以前よりもハンドチェックを厳しく取り締まるようになり、ゲーム自体も大きく質が変わったが、2006−07シーズンからはテクニカルファウルも厳格化された。それまではレフェリーによほどしつこく抗議しないと笛は吹かれなかったが、現在では判定に少し不満の意を表しただけで即座にコールされる。

もし今の時代に、デニス・ロッドマンやビル・レインビアがプレーしていたら、一体どれだけのテクニカルファウルを取られていただろうか。彼らの代名詞だったフィジカルなディフェンスも過去のものと化してしまい、よりクリーンになった今のNBAでは彼らの居場所はないだろう。ロッドマンとレインビア——他球団の選手からは恐れられ、憎まれていた彼らが体現していたのは、良くも悪くもNBAがギラギラしていた時代でもあった。

■お坊ちゃま育ちから最凶極悪選手に変身したレインビア

もしもバスケットボールをプレーしていなかったら、ロッドマンとレインビアが知り合いになる機会は一生なかったはず。それほど二人の生い立ちは異なっていた。

「自分の父親より稼ぎの低い唯一のNBA選手」。かつてレインビアはそのように言われたことがあった。レインビアの年俸が安かったのではなく、彼の父親が世界有数のガラス耐熱メーカーの役員を務めるエリートビジネスマンだったからだ。何一つ不自由のない子供時代を送ったレインビアは、「初めてケンカをしたのはNBAに入ってから」というほどのお坊ちゃま育ちだった。
背の高さを見込まれてバスケットボールを始めたレインビアだが、学生時代はさほど注目される選手ではなかった。ノートルダム大での3年間の通算成績は平均7.4点、6.3リバウンドと平凡なもので、79年のドラフトではクリーブランド・キャバリアーズの指名を受けたとはいえ3巡目の下から2番目、全体では65位という低評価だった。キャブズがいかにレインビアを軽く考えていたかは、指名後2か月も入団交渉を始めなかったことでもわかる。

レインビアは1年間イタリアリーグのブレシアでプレーした後、キャブズに入団。才能が全面的に開花したのは、2年目の途中でデトロイト・ピストンズへトレードされてからだった。「フロアから5cmしか跳び上がれない」と言われるほど運動能力は乏しかったが、抜群の洞察力とポジショニングでそれを補った。82−83シーズンには平均12.1リバウンド(リーグ3位)、そして85−86シーズンには平均13.1本でリバウンド王のタイトルを獲得した。ヨーロッパで鍛えた正確なアウトサイドシュートも、重要な武器の一つとなった。

だがレインビアの最大の売り物は、″芸術的″とまで評されたラフプレーにあった。マイケル・ジョーダンの伝記を書いたデビッド・ハルバースタムの表現を借りると「相手に選手生命を終わらせるほどの怪我を負わせることも、自分の目的にかなえばあえてやってのけた」ので、怒った相手からパンチを浴びせられたことも一度や二度ではなかった。
それだけではなく、「コートの外では弱い者いじめをし、口だけでなく手も出した」「記者たちにはわざと横柄な態度を取った」「コーチやチームメイトにとっても扱いにくい人間で」「ロッカールームで横柄かつぶっきらぼうな態度をとることが多かった」とも書かれている。対戦相手に少しぶつかられただけでも大げさに倒れてみせたり、審判の判定にはことごとく顔を歪めて文句をつけ、ファンにサインを求められても一切応じないなど、行動のすべてが見苦しいものだった。NBAの選手たちを対象にしたアンケートで、4割以上が「最も嫌いな選手」としてレインビアの名を挙げていたのも納得だった。

それでも、どんな悪評が立ってもレインビアの態度は変わらなかった。それどころかますます激しいラフプレーを仕掛け、挑発的な言動を繰り返した。運動能力に恵まれない彼にとって悪役に徹することがアイデンティティであり、生き残っていくために必要な手段だったからだ。コートの内外での非道な振る舞いも、そうしたイメージを周囲に植え付けるために多少誇張していたフシもあった。

そうしたレインビアの意図を理解していたのが、ピストンズで最初にルームメイトになったアイザイア・トーマスだった。レインビアが移籍してきた時には、すでに押しも押されもせぬスター選手だったトーマスは、レインビアとはあらゆる意味で対照的な人物だった。だが、ともに非常に明晰な頭脳の持ち主であり、勝利に対する強い執着心を持つ点を共通していた。
もっとも、親友と言えるほどの関係でなかったのは、後年トーマスが口論の末にレインビアに殴りかかり、手を骨折する事件があったことでも明らかだが……。

もう一人、チャールズ・バークレーもレインビアを認めていた選手の一人。他の選手たちと同様、当初はバークレーもレインビアを心底嫌っており、89−90シーズンにはレインビアを殴って大乱闘に発展したこともあった。だがある映画で共演し、休憩時間中に話をするうちに「ビルは面白おかしく、しっかり地に足のついたやつだった」とその印象は変わった。彼の自伝では「どんな男を相手にしても絶対に引き下がらないし、勝つためにはどんなことでもする……NBAのプレーヤーというものは、そんな気概と能力を持っているべきだ」と称賛の言葉すら口にしている。
レインビアがその悪名を轟かせ始めた頃、ロッドマンはまだどこにでもいるような凡庸な少年にすぎなかった。父親は早くから家族を捨て、2人の妹はバスケットボールの奨学金をもらって大学に進んだが、身長の低かったロッドマンは高校のチームメンバーにすらなれず、最初に就いた職業は故郷ダラスの空港警備員だった。内気で人と打ち解けることもできず、運動神経だけはよかったが他にこれといった才能もなかった。

ところがある年、彼の運命が大きく変わる。身長がいきなり28cmも伸び、2mを超えたのだ。短大でバスケットボールのキャリアを再開すると、4年制大学からも注目されるようになり、サウスイースタン・オクラホマ州大に編入。無名校ながら素晴らしい成績を収めたことが評価され、86年のドラフト2巡目でピストンズに入団した。
ヘッドコーチのチャック・デイリーは、ロッドマンの素質、意欲、そして技術をすぐに見抜いた。特に感心したのは、オリンピック級の陸上選手に匹敵するほどの運動能力だった。

「ディフェンスとリバウンドを磨きなさい。誰もやりたがらないことを率先してやれば、いい暮らしができるようになる」。デイリーの助言に応え、ロッドマンは誰よりもよく練習し、めきめきと腕を上げていった。(後編へ続く)

文●出野哲也
※『ダンクシュート』2007年2月号原稿に加筆・修正

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