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かつてジョーダンと覇を争った男が語る1985年のスラムダンク・コンテスト秘話「NBAはとっさにあの判断をした」<DUNKSHOOT>

ジョーダンと同期で、3度のダンクコンテストに出場したスタンズベリーが当時の秘話を語った。(C)Getty Images
今年もNBAオールスターウィークエンドの季節が到来した。

当日の日曜日に行なわれる本戦だけでなく、ライジングスターズ・チャレンジ、スラムダンク・コンテスト、3ポイント・コンテスト、スキルズチャレンジなど、楽しいイベントが盛りだくさんの祭典だ。

そのなかのひとつであるスラムダンク・コンテストといえば、マイケル・ジョーダンのフリースローラインからのダンクをはじめ数々の伝説が生まれたメインイベントだが、近年はスター選手の登場は減っており、若手のショーケースと化している。

今回はそのジョーダンと同期で、かつてコンテストでしのぎを削ったテレンス・スタンズベリーという選手の話を紹介しよう。

彼はアキーム・オラジュワン(1位)、マイケル・ジョーダン(3位)、チャールズ・バークレー(5位)、ジョン・ストックトン(16位)ら、錚々たるメンバーを輩出した1984年のドラフトで、ストックトンより1つ上の15位でダラス・マーベリックスから指名を受け、開幕前のトレードで移籍したインディアナ・ペイサーズでNBAデビューを飾った。
しかしスターターに定着することはなく、3シーズンで出場192試合、平均6.3点、1.4リバウンド、2.0アシストという成績を残してリーグを去ることに。3年目の途中で欧州に渡った。

その後はオランダやベルギー、フランス、ギリシャなど各国でプレーを続け、2003年に現役を引退したあとは指導者に転身。その彼が、フランスの『レキップ』紙に、ジョーダンと戦ったダンクコンテストの裏話を明かしている。

196cmという身長ながら空中戦を得意としていたスタンズベリーは、NBAに所属していた3年間すべてのオールスターでダンクコンテストに出場。3回とも3位という成績を収めている。

彼がジョーダンと熾烈な争いを繰り広げたのは、インディアナポリスで開催された1985年のコンテストだ。その年の出場者は、元祖名ダンカーとも言うべきジュリアス・アービング(フィラデルフィア・76ers)に、前年覇者のラリー・ナンス(フェニックス・サンズ)、クライド・ドレクスラー(ポートランド・トレイルブレイザーズ)、オーランド・ウーリッジ(シカゴ・ブルズ)、ドミニク・ウィルキンス(アトランタ・ホークス)、ダレル・グリフィス(ユタ・ジャズ)、そしてジョーダンとスタンズベリーの8人。
前年のファイナリストであるアービングとナンスはシード権を得て準決勝進出が決まっていたため、1回戦を通過できるのは残りの6人のうち2人だけ。

各選手3回の試技を行ない、まずはウィルキンスが50点満点中47、49、49というほぼ満点に近い145点をマークして首位で勝ち抜け。残る1席をめぐる2番手には、ジョーダンとスタンズベリーが130点で並んだ。

ちなみにスタンズベリーは、「16歳の時、リバースダンクを練習していたら、うっかり回りすぎて360度回ったけれど決められた」ことで習得したという360°ダンクで、1回戦でただ1人、満点の50点を叩き出している。

準決勝進出者を決めるため、ジョーダンとスタンズベリーは2人で一発勝負をすることになった。

まずは先攻のジョーダンがワンハンドダンクで40点をマーク。後攻のスタンズベリーは、地元インディアナのファンが大声援を飛ばすなか、両手でリバースダンクを決めると、46点でジョーダンを上回った。負けを認めて、スタンズベリーに健闘の握手を求めるジョーダン。
しかしここで会場にアナウンスが響き渡る。急遽ルールが変更され、2人ともが準決勝に勝ち進むことが発表されたのだ。ルーキーにしてすでに爆発的な人気を集めていたジョーダンを見たいというファンの期待に応えた、リーグの判断だった。

そんな特別ルールが採用されていたとは驚きだが、この決定について不満はなかったかと聞かれたスタンズベリーは、「まったくそんな感情はなかった」と感慨深げに当時を振り返る。

「そもそも彼(ジョーダン)が決めたわけでもないしね。それに私自身、ジョーダンの大ファンだった。ドラフト同期でデビューも同じ年だったし、パンアメリカンゲームやオリンピックの合宿では一緒にプレーしていたから彼のことはよく知っていて、とても尊敬していた。あの頃から彼はすでに際立っていたし、素晴らしいダンカーだった。NBAは、ファンがきっとジョーダンをもっと見たいだろうと思って、とっさにあの判断をしたのだと思う。私はショックもがっかりもしなかった。私でも同じことをしたと思うよ」
5人が進出した準決勝では、2投目まではスタンズベリーが自分でトスしたボールを空中で受けてダブルクラッチという難技により49点、48点と高得点を連発したが、3投目で新技を投入して失敗。合計136点でジョーダン(142点)、ウィルキンス(140点)に及ばず、3位で惜しくも脱落した。

そして決勝は、3年目のウィルキンス対ルーキーのジョーダンの対決。リムが折れそうなほどパワフルなダンクを連発したウィルキンスが、3投のうち2投で満点を出して147点で優勝した(ジョーダンは136点)。

「当時のダンクコンテストは、ここぞとばかりに自分の技を披露する場だった」とスタンズベリーは述懐する。

昨今、スーパースター級が積極的に出場しなくなった理由を問われると、「スターたちは、結果によって自分のイメージが影響されることを望まないのではないだろうか」と私見を語った。
「当時の私たちは、常にお互いの技を見せ合って競いたいと思っていた。そして、スーパースターたちこそが、誰よりもそうした競争を望んでいた。彼らは新人がどんな技を隠し持っているかを知りたがり、ロッカールームでは先輩プレーヤーが若手に『どんな技を仕込んでいるんだ?お前が持っているものを見せてみろよ』と挑発する会話が飛び交っていたものさ」

その言葉通り、ジョーダンは計3回コンテストに出場し、87年に初優勝。翌88年は再びウィルキンスと決勝で対決し、この時はジョーダンが制して連覇を達成した。かの有名なフリースローラインからのダンクが生まれたのはこの時である。

それにしても、凝った演出なども含めてショー的な要素がより強くなっている近年のダンクコンテストも面白いが、スキルと身体能力のみで勝負していた“オールドスクール版”は、いま見返しても見応え十分だ。

文●小川由紀子

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