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内戦による難民化、貧困から大学進学を諦めプロ入り…波乱に満ちたエマニュエル・ムディエイのキャリア<DUNKSHOOT>

2シーズンぶりにNBAに戻ったムディエイ。そのキャリアは波乱に満ちたものだった。(C)Getty Images
新型コロナウイルスへの感染が再び拡大している今、試合が延期になったり、選手が安全衛生プロトコル入りしてロースターに欠員が出るなど、イレギュラーな状況となっているNBA。しかしその一方で、デビュー機会やプレータイムの増加といったチャンスを得ている選手もいる。

先日、サクラメント・キングスと10日間契約を結んだポイントガードのエマニュエル・ムディエイもその1人。2015年のドラフトでデンバー・ナゲッツから1巡目7位という高順位で指名されたムディエイだが、フリーエージェントとなった2020年のオフに移籍先を見つけられず、今季はリトアニアのジャルギリスと契約したものの、11月2日に契約解除となっていた。

22日のロサンゼルス・クリッパーズ戦で、1年4か月ぶりにNBAのコートに立ったムディエイ。8分間の出場でノーゴール、2アシストという結果に終わったが、格別な思いを味わったことだろう。
彼の人生は、これまでも波乱万丈だった。

ムディエイは1996年、内戦のさなかにあったコンゴに生まれた。幼い頃に父親は他界し、子どもたちを抱えて困窮した母は、国外に避難することを決意する。

母は最初、カナダを目指すつもりだった。しかし、姉がアメリカのダラスにいたため、予定を変更してテキサスへと渡航。母が生活環境を整える間、幼いムディエイは兄とコンゴに残り、ようやくアメリカに合流できたのは、母が渡米して1年半後のことだった。

「もしあの時、母親がカナダに渡っていたら、僕の人生はまったく違うものになっていたと思う」

そう回想したムディエイ。カナダにはトロント・ラプターズがあり、バスケットボール人気も高いものの、カルチャーとして日常的にバスケットボールに触れる機会はアメリカの比ではない。

「たぶん自分は、バスケットボール選手にはなれていなかったと思う」

ムディエイはNBAアフリカとのインタビューで、そう振り返っている。

高校生の時点ですでに“期待の新星”として注目を集め、2015年のモックドラフトではトップ5入りの常連、1位指名に挙げたメディアもあった。進学先については、10ものカレッジから誘いがあったなかから“選択肢を絞る”という贅沢な状況に。そのなかのひとつが、2004年にデトロイト・ピストンズをNBAチャンピオンに導いたラリー・ブラウンがヘッドコーチを務めていたサザンメソジスト大(SMU)だった。
早くからムディエイをリクルート候補に決めていたというブラウン。そして各大学を訪問していたムディエイも、会うたびにバスケットボールのことではなく、人生や家族についての話をしてくれるブラウンの人間性に惹かれ、SMUに心が傾いていた。

しかし最終的に彼が選択したのは、大学進学ではなくプロ入りの道だった。『スポーツ・イラストレイテッド』誌に発表した声明文のなかで、ムディエイはその理由をこう明かしている。

「『SMUに進学して、ブラウンコーチと彼のスタッフの下でカレッジバスケットボールを体験し、NBA入りの準備をすることにワクワクしていた。けれど僕は、母親が苦労している姿を見るのがもう耐えられなかった。ブラウンコーチと家族と話し合い、自分にとって母を助けることができる最善の方法は、進学を諦めてプロ入りすることだという決断に至った」
ブラウンは「私自身は、彼の今後の人生やNBAでのキャリアにとっては、カレッジへの進学が最善だと信じている」と残念がったが、ムディエイが置かれている状況は特殊であり、「彼は家族の苦境をなんとか軽くしたい、という思いが強かった。彼を迎え入れることを楽しみにしていたが、彼の決断を尊重し、幸運を祈る」とエールを贈った。

そのムディエイにプロ入りの機会を提示したのは、中国の広東サザンタイガースだ。報じられた契約金額は、1年120万ドル。家族とともに中国に渡ってプロ生活を始め、シーズン途中にケガで長期離脱したため12試合の出場にとどまるも、プロバスケットボール選手としての初年度の成績は、平均18点、6.3リバウンド、5.9アシストというものだった。

そして1年後のNBAドラフトで、前述の通りナゲッツから7位指名を受けて、念願のNBA入りを果たす。

ルーキーイヤーは68試合中66試合に先発出場。平均30.4分とチームで3番目に長いプレータイムを獲得し、チームハイの平均5.5アシスト、そして同3位の12.8点と奮闘した。

しかし翌シーズンは出場時間がやや減少し、平均11点、3.9アシスト。さらに3年目はジャマール・マレーの台頭で出番を失い、2月にニューヨーク・ニックスへトレードされた。
新天地で迎えた翌2018−19シーズンは、ティム・ハーダウェイJr.がシーズン途中でダラス・マーベリックスに移籍した後の得点ラインを支え、平均14.8点をマーク。チームのトップスコアラーとなり、オフにユタ・ジャズに移籍した。

NBAキャリア5シーズンの成績は、300試合(うち165試合で先発)に出場し、平均23.9分のプレータイムで11.0点、2.9リバウンド、3.8アシスト。

そして今季、初めて参戦した欧州バスケでは、開幕戦からスターターとして出場。2節のズーキヤ戦ではフルタイムに近い40分間コートに立って32得点、6リバウンド、6アシストを記録するなど、国内リーグでの連戦連勝に貢献していた。

ジャルギリスには、ムディエイがルーキーイヤーにナゲッツで共闘したフランス人センターのジョフリー・ラバーンも在籍。 ビッグマンとのコンビネーションも悪くなかったが、ユーロリーグでは開幕9連敗と低迷したチームのテコ入れの意味もあり、袂を別つこととなった。

サクラメントとの10日間契約が終わったあとはまた無所属になる可能性もなくはないが、これまで自分の力で道を切り開いてきた彼なら、この先も活躍の場を見つけることだろう。
幼少時からアメリカで育ってはいるが、常に自分のルーツがアフリカにあることを忘れず、私服でも赤・黄・緑のアフリカンカラーを使ったようなアフリカンファッションを身につけているムディエイ。バスケットボール・ウィズアウトボーダーズ in アフリカや、同じコンゴ出身のディケンべ・ムトンボ(元アトランタ・ホークスほか)が開催するバスケットボールキャンプ、NBAアフリカゲームなどにも積極的に参加している。

「アフリカに戻るたびに“自分はここから来たんだ”と改めて自分の起源を見直すことができる。謙虚な気持ちになれるし、故郷が発展していく様子や、子どもたちがバスケットボールに取り組む姿を見るのは、自分にとってとても大切な瞬間なんだ」

難民として渡った先で、非常に狭き門であるNBAの選手になったムディエイの努力とガッツは、彼にバスケットボール選手としてのキャリアだけでなく、自分の人生の開拓者となれる強さを与えてくれた。

内戦時に生まれ、国外に避難し、その環境のなかで得意分野で才能を伸ばし、進学は断念したものの最終的にNBAという夢の場所に到達したムディエイ。伸び盛りの頃にカレッジバスケを経験していたら、スキルやゲームセンスはより磨かれていたのだろうか、という思いもよぎるが、彼自身、自分の選んだ道に悔いはないことだろう。

なんといっても、まだ25歳。まだまだこの先、大いに暴れてほしい。

文●小川由紀子

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