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ドラフトの挫折。燻る社会人野球生活を変えた元プロ捕手との出会い――。慶大助監督・竹内大助の知られざる野球人生【第3章】

慶応大で助監督を務めた竹内(左)。かつてプロを目指した彼はドラフト時に挫折をしていた。写真:滝川敏之
大学2年の春、いきなりノーヒットノーランを達成し脚光を浴びることになった竹内大助。慶大のエースとして、大学野球の名だたるスター選手たちと渡り合いながら、プロを目指し努力を続けてきた。

だが、失意のドラフト指名漏れ。そして、捲土重来を期して進んだ社会人野球での苦節。沈みかけた野球人生を蘇らせたのは、プロ野球から来た六大学の先輩選手との出会いだった。

第3話となる今回は、助監督就任に至る竹内の現役生活の後半生をクローズアップする。

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「どこの球団でも、何位でもいいからプロに行きたい」

2012年のドラフト当日、竹内は祈るような気持ちで指名を待っていた。しかし、同僚の福谷浩司が中日から1位指名を受けるのを横目に、無念の指名漏れに終わる。

慶大の江藤省三監督も、竹内は自身が見いだした愛弟子だけに、なんとか希望を叶えさせてあげたい気持ちはあった。とはいえ、指名があるか微妙な位置にいることもわかっていたため、「せっかく社会人の誘いもあるのだし、育成の指名ならやめたほうがいいぞ」とアドバイスをしていた。かつてプロ野球で球団編成の職に就いていたこともあり、内部事情はよく知っている。

「左腕は貴重だし、どこの球団も調査はしていたみたいだけどね。スカウトというのは、4年生の春の活躍を重視するんだよ。竹内はそこで状態が今ひとつだったから、『もう頭打ちだな』という感じで評価を落とした球団もあったらしい。

でも、それも一概には言い切れないんだ。だって、福谷も4年の春は内転筋の怪我でほとんど投げられなかったんだからさ。まあ、福谷は大学JAPANでの実績もあったから、治ったら上積みがあると思われたんだろうね」

プロを目指す竹内にとって、いささか不運な流れがあった。彼が台頭してきた当時は六大学全体に力のある左投手が少なく、希少価値という見方をされていた。しかし、下の学年から法大の石田健大(現DeNA)や明大の山崎福也(現オリックス)といったイキの良い左投手が活躍し始めたために評価のハードルが上がってしまった。
実際に指名漏れの後、江藤に「どこも獲らないのなら、ほしかったなぁ」と言ってきたスカウトがいたという。よその球団が獲るという情報があり、上位指名でなければ獲れないと判断し、その球団は指名リストから外していたようだ。

悔しさを押し殺し、竹内はプロ待ちで採用内定の出ていたトヨタ自動車に入社する。愛知県半田市出身の竹内にとっては地元でもある。しかし、定住するつもりはなかった。実績を残して2年後にプロ入りするつもりだった。

1年、2年、3年……。何も出来ないまま、時間だけがあっという間に過ぎていった。

竹内はオープン戦などで与えられたチャンスになかなか結果を残すことが出来ず、選手層の厚いトヨタ自動車で次第に存在感を失っていく。次第に出番は減り、ベンチを外れて、ネット裏でスコア係を務めることもあった。

「焦りはすごくありました」と言う。頭の中には、プロ野球という夢が常に燻っていた。だから「何かきっかけを掴んだら勝てるようになる」と自分に言い聞かせる。じゃあ何を追い求めたらいいのか、それが漠然としていた。

まずはチーム内の競争に勝たなくてはならない。そこで負けている自分がいた。焦るあまり、目先の結果に走ってしまった時期だった。

「自分本位で野球をしていたんでしょうね。それが一つの原因だった気がします」

竹内はそう顧みる。とはいえ、それに気付いたのは入社から数年が過ぎてから。2~3年目あたりは、毎日ただ苦しいだけ。打たれれば、「自分に力がないから」と自己否定する思考回路しかなかった。年齢的にプロの可能性が消えた頃から、だんだん客観的に自分を見られるようになり、結果に対して、いろんな方向から原因を探すようになった。

「これは野球だけではないのかもしれませんが、意識の有り様として、“利己”と“利他”というものがあって、そのどちらなのかというのが変化とか成長のキーワードになっているように思います。チームで“自分”という存在がどうあるべきか。“チーム軸”みたいな考え方がよくやく出来るようになってきたんです」 大きな影響を受けた選手がいる。竹内にとって社会人4年目のシーズンとなった2016年に、横浜DeNAからアマチュアに復帰し、チームに加入した細山田武史だ。

「なかなか結果が出なくて苦しんでいた時期に、細山田さんと出会って、もう一度モチベーションを作り直せた」と竹内は感謝の思いを口にする。

早大時代、大学球界を代表する捕手として名を馳せた細山田。4歳違いの竹内とは大学はちょうど入れ替わりになる。面識はなかったが、共通の知人がいたことから、細山田が最初にトヨタの施設を訪れた時、真っ先に挨拶に行った。本格的にチームに合流すると、グラウンド内外で行動をともにすることが増えていった。

よく野球の話をした。いつもあれこれ質問し、それに細山田が自分の知識や経験を元に答えていく。竹内は言う。

「それまでは問題意識があっても、どうすればいいんだろう? と悶々としていたんです。それが、細山田さんの話を聞いたことで、ちょっと道が拓けたというか、成長出来るかもしれないという感覚になれた。自分のやっていくべき方向性はこれだなと気付けたんです」

細山田も、竹内から「自分を変えたい」という強い思いを感じ取っていた。自分自身もプロ野球でなかなか結果を残せない時期を過ごしてきて、共感するところがあった。

「このまま終わりたくなかったんでしょうね。そうやって思っていても、いざ行動に移せる人間はそんなにいない。それをやろうとしている姿に、後輩ながら尊敬する気持ちがありました」

そう当時を振り返る細山田。苦しくなると投球術でかわそうとしがちな竹内に、「左投手なんだから、左打者のアウトローに力のあるボールを投げ込まなきゃ勝てないぞ」と諫めるように言い続けた。当然、練習もそういう課題を持って取り組むようになる。

竹内は短いイニングのリリーフで実績を積み重ね、チームの戦力になっていく。
このときの経験は、自分を省みるのと同時に、助監督として学生に教える立場になった時に生かされている。

「大学時代、とくに上級生になってからの僕は、打者の裏をかくという投球術的なものに注力しすぎて、自分の能力を伸ばすことが疎かになっていたような気がします。ちょっと勿体ないことをしていたかな、と今になって思うことがあります。

今の学生たちを見ていると、投球術とかよりも、とにかく速い球を投げよう、強いボールを投げようという努力をしている子が多いんです。もうちょっと考えたらいいのにと思う反面、それも学生時代の4年間で自分の能力を最大限に引き出すという意味では間違っていないのかなと思えるので、否定はしないようにしていました」

細山田が加わった2016年シーズン、トヨタ自動車は1947年の創部以来、初の都市対抗優勝を果たす。源田壮亮(現・西武)、藤岡裕大(現ロッテ)ら各ポジションに好選手が揃い、投手陣はベテラン佐竹功年がフル回転。MVPの橋戸賞を獲得した。

竹内もこの大会、リリーフとして東京ドームのマウンドを踏んでいる。一見、点差が開いた楽な試合展開。しかし、そこで竹内たちリリーフ陣がしっかりと自分の仕事をすることで、エース佐竹の負担は軽減され、次の試合、また次の試合に繋がっていく。まさにチーム軸の仕事といえる。

それは、竹内の野球人生のターニングポイントとなった一年だった。これまで知らずにいた野球の“楽しさ”や“面白さ”を、なんとなくわかり始めたのが、このシーズンだった。

また、リリーフという自分の働き場所を掴み、「これからはそれをベースにして、その年その年のチーム事情にフィットさせていけばいい」と、先を見る余裕も生まれた。同時に、自分のスキルがまだ上がっているという手応えもあった。

「ボールの力も、打者を見る感覚も、トータルで良くなっていた気がします。それまで自分軸で利己的にやっていたのが、視野が広がって、自分を客観的に見られるようになった。すると、こんな部分が足りなかったとか、意外とこんな長所があったんだな、というようなことがわかるようになってきました。そしたら、自分がどういうピッチャーなのか、どんな人間なのかというのがわりと正確に把握出来るようになってきたんです」 そこから2シーズン、都合6年間現役生活を続け、2018年のオフにトヨタのユニホームを脱ぐ。28歳。現役を終えることに関しては、寂しさや悔しさよりも、「ここまでやった」という満足感のほうが大きかった。

「もちろん、100%満足というわけではなく、“まだやりたい”という感情は、プレーヤーである限り絶対にあるものです。ただ、“ここまでやれたんだから”という思いに加えて、自分のなかでプレーヤーとしての感情が変わってきたのかな、という実感がありました。だんだん後輩の活躍が嬉しくなってきたんです」

飛躍を遂げた4年目のシーズンに、高卒で入社してきた投手がいた。同じ左腕ということもあって、いろいろと世話を焼いた。3年間、一緒に練習して、一緒に悩み、考えて、彼が成長して試合で結果を出した時に、それを心から喜べる自分がいた。第一線で「俺が俺が」というところから、意識が変わってきていることに気付かされた。

その若手投手は秋のドラフトで指名を受けプロ入りを果たす。今、オリックスでリリーフとして活躍する富山凌雅だ。

同じタイミングで舞い込んだのが、母校慶大からの助監督のオファーだった。

じつは以前にも一度、話があった。都市対抗に優勝した2016年のことだ。しかし、ちょうど細山田との出会いもあり、野球が楽しくなっていた時期。「もう少し現役をやりたいので」と断っていた。
まさか二度目があるとは考えてもいなかった。ゆえに再オファーを受けた時には、一度目とは違った意味で驚いたという。

「3年目のシーズンが終わったあたりから、野球を追い求めていく自分と、切り替えて次のステップに進む自分というのを、秤に掛けて考えるようになっていたんです。だから、いつ(現役を)やめようか? この先の人生をどうしていこう? ということはずっと考えていました。そういうタイミングだったので、非常にリアルに感じた話でしたね」

選手として、まだ成長できるという手応えはあった。このまま現役を続けるか、助監督のオファーを受けるか、どちらも選択せずに野球から離れてトヨタの社員として働くか、という3つの選択肢。その3つを、どれも同じくらいの熱量で考えていた。

「そのなかでいちばん刺激が多そうな選択をしたい」と思った時に、先がイメージしやすい現役続行や会社員生活よりも、何があるのか皆目見当も付かない助監督が面白そうだと感じられた。信頼する細山田に意見を聞くと、「野球を学べる場所を与えてもらって、チャンスじゃないか」と背中を押してくれた。

こうして、2019年2月、竹内は慶大助監督に就任する。

——第4章へ続く——

取材・文●矢崎良一

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