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元阪神マートンが語った日本球界への感謝と大記録樹立への想い「あそこで成功できなければ、私は終わっていた」<2021百選>

長距離打者の触れ込みで入団した当初は批判が絶えなかったマートン。当の本人は成功へのやる気にみなぎっていた。(C)Getty Images
2021年のスポーツ界における印象的なニュースを『THE DIGEST』のヒット記事で振り返る当企画。今回取り上げるのは、かつて阪神タイガースの助っ人として、虎党を熱狂させたマートンの言葉だ。当時の日本球界最多安打を塗り替えた男は、異国でのプレーに何を思っていたのか。

記事初掲載:2021年11月24日

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日本野球史の名を刻んだ助っ人打者だった。元阪神タイガースのマット・マートンである。

阪神、いや日本のプロ野球界でも指折りの巧打者としてマートンは名を馳せた。2010年に阪神に鳴り物入りで入団すると、阪神在籍6年間で通算1020安打をマーク。入団1年目には、1994年にイチロー氏がマークした210安打を塗り替える214安打を記録し、「史上最高の助っ人ヒットメーカー」と称えられた。なお、この記録は2015年に秋山翔吾(現シンシナティ・レッズ)が216安打を放つまでNPB年間最多であり、セ・リーグ、外国人、右打者としては今も最多の数字だ。

そんな球界きっての安打製造機だった男がMLBの公式サイトで日米の野球の違い、そして異国の地で馴染むための秘訣を語っている。

2005年から2009年までシカゴ・カブスなどでプレーし、MLB通算346試合、272安打の実績を残して日本に乗り込んだマートン。しかし、アメリカとは異なる配球の違いなどに馴染めずに、春季キャンプとオープン戦では鳴かず飛ばず。阪神の助っ人に厳しい一部のメディアからは「外れだ」「成功する姿を想像できない」などと揶揄された。
「スプリットやフォークの“奥行き”を理解すること、それを乗り越えることが私史上最大のチャレンジだったかもしれない。1年目のキャンプではそれができず、いいパフォーマンスができなかった。もちろん批判も受けたよ。でも、振り返ってみると、あそこで成功の糸口を見つけることができなかったら、私のキャリアは早々に終わっていたかもしれないね」

人気球団がゆえに猛烈な逆風にさらされた。そのなかでマートンの力になったのは、住居だけでなく、当時妊娠していた妻を手助けするための通訳を用意するなどした球団の手厚いサポートと、他でもないチームメイトである城島健司(現ソフトバンク球団会長付き特別アドバイザー)の支えだったという。

「とにかくチームのサポートはありがたかった。だからこそ傲慢な助っ人にはなりたくなかったんだ。あとジョウジマは日本人でありながら、メジャーリーグで過ごしていた経験から、私が何に悩んでいるかなどを理解してくれていた。それはとても大きなことだった。いつも『調子はどう?』『ゲンキデスカ?』って様子を確認してくれたんだ」 周囲の手助けと自身の順応性もあり、マートンはシーズンが開幕してからはよどみなく打ち続けた。そして10月5日のヤクルト・スワローズ戦で中澤雅人から痛烈なセンター前ヒットをマーク。これでイチローの大記録を抜いたのだ。

この時の想いについてマートンは、こう語っている。
「イチローがアメリカに来たときに、私がよく聞かされていたのが、彼がシーズン安打記録を破る『チャンス』を与えられた、ということだった。私たち(MLB球団)が記録を彼に取らせないようにと勝負を避けなかったという意味でね。それが日本の文化圏にいる多くの人たちの目を開いたんだ。MLBの投手たちが彼に記録を破るチャンスを与えたことが、日本の多くの人の物の見方や考え方を変えたんだと思う。

そしてあの瞬間だ。長い間、私は野球というものは、個人が何をしたかではなく、チームの勝敗にどれだけ貢献したかが大事だと思ってきた。でもあの時だけは、チームが勝つことよりもヒットを打つことのほうが重要だと感じた。頭の中では、『あれをして、これをして』というリストを作っていたけど、実際に達成してみるとそれはほとんど飛んでいたよ。『とにかく示すべきリスペクトを示すことができれば』って考えていたね」

2015年シーズンに惜しまれながら退団したマートンは、マイナーでのプレーを経て2018年1月に引退。その後はカブスのフロントオフィスでも勤務した。勤勉さでも知られた彼は、いまも日本語で自身のSNSを更新するなど、日本愛を感じさせる。それだけにいつの日は、日本球界のために何らかの形で貢献してもらいたいものだ。

構成●THE DIGEST編集部

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