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中川聴乃が、バスケと歩んだ半生。「生まれたときは仮死状態でした」

NPO法人スポーツ業界おしごとラボ(通称・すごラボ)の理事長・小村大樹氏をホスト役として行われている「対談すごトーク」。今回はバスケットボールの名門・桜花学園からシャンソン化粧品に進み、日本代表にも選ばれた経験を持つ中川聴乃さんのお話を伺いました。バスケのために越境進学をし、実業団に入った後も度重なる怪我に苦しめられた中川さんの半生と、引退した後もスポーツ業界に関わることになった経緯についてお話して頂きました。

出生時に言われたのは「99%助からない」

医者からも99%助からないと言われた仮死状態で私は生まれました。助かっても身体に支障が残ると言われており、そこから小学校までは定期的に病院に行って検査していました。

生まれて1ヶ月くらいは母と会えず、髪も生えてこなくて、未だに生えていない部分もあります。もっと言うと、生まれる前に母も私も危ないと医者から聞かされていて、『どちらを助けるか決めてください』と言われていたらしいんです。

そういうこともあり小さい頃は入院する期間が多かったんです。運動は好きだったのですが、運動会に出られなかったことはありましたね。

とはいえ周りとも普通に遊んでいて、運動を制限されていたという記憶はないです。バスケと出会ったのは小学4年の時。当時の担任がミニバスの顧問で、身長も大きかったし運動神経も良かったこともあって、誘われました。

とにかく負けず嫌いだったし、運動会でも一番にならないと気が済まない性格だったので、一番になりたいから一生懸命やっていました。そして、小学校を卒業後は長崎の私立中学に進学しました。中学に入ってからも身長は高かったんですけど、上手くはありませんでした。ちなみに小学校卒業で168cm、中学で178cmありました。

1年目に全国大会も経験して、2年の時には全国3位までいきました。私は身長が高かったので連れて行ってもらえましたが、周りの人たちからしたら『あの子下手なのになんで出ているんだろう』と思われていたと感じています。上手じゃないとは自覚していたので、私でいいの?という感覚もありました。

だけど、とにかく本当に素直だったので言われたことを一生懸命、とにかくやって、自分に取り入れました。その結果、成長していくのは早かったんです。中2の時にはスタートから出て、全国大会でも主力で活躍できました。長崎選抜も選ばれていました。一貫校だったこともあって上の高校にそのまま進み、U-18代表にも選出され、その合宿でも即レギュラーで使われたりもしました。そして、インターハイや国体を通じて、日本一になりたいという想いが強くなりました。

想いが強くなるにつれて今いる学校では物足りなくなり、そんな中で転校先を探し、最初に強豪である桜花学園を見に行きました。ピンときましたね。「ここだ!」と。それが1年生の冬です。

名門で感じた環境の違い

桜花に行って思ったのが、プライドが高い人たちがたくさんいるということ。先輩や先生は手厚く歓迎してくれたんですけど、行った時に「よくきたね、がんばろう」というのはあまりなくて。

寮生活の当番とかの段取りも何も同級生は教えてくれないんですよ。自分で見ながらやる、みたいな。最初は凄く心細かったけど、友達を作りにきてるんじゃないと言い聞かせながらとにかく自分で見て寮生活の役割などを学びました。部員は1学年8人までで、全寮制です。一般受験の人は余程の実績や力がない限り部に入れないし、トライアウトという形で全国から桜花に入りたい人達がくるのですが、その中でも桜花に入学できるのはまれです。

友達らしい友達はできませんでした。後輩で慕ってくれたり、先輩で可愛がってくれたりする人はいたんですけど、同級生で仲良くずっと一緒にいたという人はいなかったですね。ずっと1人です。今では仲良くしていますけど(笑)。高校の時はとにかく練習も超一流で、実業団以上でしたね。スポンサーも夏はアシックスで冬はナイキで、ウェアが毎年全部支給されるんです。女子の実業団でそんなことはまずないです。

ボールも夏冬で変わります。体育館は冷暖房、トレーニング室も治療室もあってトレーナーも付いている。すごく恵まれた環境で、一流の世界を見て自分の中での固定観念をなくすことができました。

その中でも井上監督には凄くお世話になりました。今も勝ち続けている桜花学園は、自慢の母校です。

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