【第1回】球速153kmだった会社員

男は自分からはそれを言わない。
もう、野球選手ではなく、会社員だからだ。

先輩社員の「彼、153km投げるんですよ」という紹介に取引先が驚きの表情を見せると、少し照れてみせながら「はい、独立リーグ時代に」と、短く答える。

 

「地元から甲子園に出たい」

愛媛県出身の25歳。
兄の影響で3歳から野球を始めた男は、多くのプロ志望の野球少年と同じく、野球という競技に早くから適性を見いだし、中学時代の自分たちの代で作ったボーイズチームで全国ベスト4に入る。

県外の強豪高校からもいくつも勧誘されたが、断った。

「地元の高校から甲子園に出たかったんです。県外の高校生が中心のチームが、県内からあまり応援されてないと感じていたので」

もちろんそれは、愛媛の高校野球のレベルが高いからでもある。地元の少年が地元で夢を見られる指導環境があった。

 

強豪校キャプテンの“意識改革”

ただ、当時、強豪校の高校野球部にも、伝統という名の非合理の名残りもあった。

例えば一つのポジションには3人が配置されたが、グラウンド整備は二番手、三番手の役割。その間、レギュラークラスは自分の用具の手入れを行っていたが“それは家でやってくればいい作業だ”と男は思っていた。

「僕らの学年はそれまでの代と比べて強くなかったので、チーム全体がレベルアップするしか、甲子園に行く方法はありませんでした」

男は自らキャプテンに就任すると同時に、レギュラー陣がグラウンド整備を行うことにした。すると、控え選手は自身で別の仕事を探し、ボール片付けなどを行う。全員が動くと、そのぶんだけチームの練習時間に回せる。

練習効率はもちろん、部員たちの目つきが変わっていった。

「身体や技術は積み重ねなので1日2日で変えられないですが、意識は変えられるはず。きれいごとではなく、その人間的な成長がない限り野球が伸びるわけないと思っています」

男が4番・キャプテンとしてチームを牽引した高校3年の夏、下馬評の低かったチームは、甲子園ベスト4に入った。

 

高校3年の冬も続けた投げ込み

現実的に「NPBのプロ野球選手」が、男の視界に入ってきた。

駒澤大学野球部を選んだのは、“人気の六大学、実力の東都”とも言われる大学野球において、東都で駒澤大学が“全員野球”を掲げるチームだったからだ。

高校3年のとき、愛媛県の松山市にある「坊っちゃんスタジアム」で行われる駒澤大学のキャンプに参加した。

「ボールの質、身体の強さ、どれをとってもレベルが一段階上だなと思いました。同じ球速にしても回転数が違う。ただ、今のままでは厳しいけれど、1、2年懸命にやれば、追いつけるとも思いました」

その感覚を信じて、高校3年の秋以降羽を伸ばす野球部の同級生たちを横目に高校のグラウンドに通い続け、さらなるトレーニング、投げ込みを自らに課した。

だって、自分はプロ野球選手を目指すのだから。

男には、合理的思考と、それを遂行しつづける実行力が共存していた。

 

狂った歯車

その甲斐あってか、駒澤大学入学後すぐに一年生でAチームに入った。4軍まである名門野球部の中で、一年生のAチーム入りはこの先を認められた証だった。春リーグへのメンバー入りのため、充実した練習環境で、さらに練習に身が入った。

確実に、プロ野球選手への階段を登っている実感があった。

その歯車が狂ったのは、春リーグ直前の練習中のキャッチボールのときだった。

「あれ、右肘の感覚がおかしい」

 

進んでいた骨曲

まずは隠そうと思った。リーグ戦のメンバーに入ることが、プロへの最短距離だったから。

“肘は治りにくいから無理するのも良くない、でも一年生の今が一番大事”、葛藤しながら練習を続けたが「どうした、いつもの球が来てないぞ」高いレベルの周囲には、男の腕が振れていないことはすぐにわかった。

検査に行った結果、関節の酷使による骨曲(こつきょく)の発症だった。

「野球選手はほぼ全員なってしまうんですが、僕は結構症状が進んでしまっていて」怪我が先にプロ野球選手に追いついたのは、皮肉なものだった。

手術か自然治癒かを迫られた男は、手術が癖になることを嫌い、自然治癒、つまり数カ月から長ければ数年投げない道を選ぶ。

「プロに行くためには、一年間で春、秋リーグが4年間あります。大学4年秋は進路が決まっているので、勝負は全部で7回。まだ大丈夫と言い聞かせて、ウェイトトレーニングや走り込みを続けました」

 

回復、そして再発

そして、大学2年の秋、やっと肘の痛みが無くなった。再スタートはBチームからだったので、早く結果を出して上に上がらなければスカウトの目に留まらない。

男は約2年のブランクを取り戻すように投げ込み、そしてAチームに上がった途端、また痛みが再発した。これで3年生の一年間も棒に振ることになる。

通常の感覚なら、ここでプロ野球選手の夢は諦めるはずだ。2年生の秋ならば、ちょうど就職活動も間に合う。実際、レギュラーを取れなかった多くの大学野球部員は、3年生から就職活動を始めるのだ。社会人野球という道もある。ここまで野球に打ち込んできた実績と姿勢は、一般の会社からも評価は高いだろう。

しかし、男はそうは思わなかった。

「24歳まではプロ野球選手を目指せる。卒業後は独立リーグに進み、二年間でプロになれるか勝負する」

もう無理に投げ込むことはやめ、その先の勝負のために食事の見直し、ウェイトトレーニング、復帰したときに球速が上がるような可動域のストレッチ、そして再び走り込みに時間を費やした。

男の大学野球の季節は、ポールとポールの間を走り込むことで過ぎていった。

 

 

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