• HOME
  • 記事
  • Jリーグ
  • 帰国後に手にした通訳の仕事。千田善の記憶に刻まれた30年前のオシムのサッカー

帰国後に手にした通訳の仕事。千田善の記憶に刻まれた30年前のオシムのサッカー

Embed from Getty Images「”語学”に触れることがスポーツへの関わり方や楽しみ方、知られる知識の幅が広がる」

“スポーツ×語学”をテーマに、その2つの関連性や、語学を学んだことでスポーツ人生においてどういったプラス面が得られたか、などを様々な方に語って頂くこの企画。第3回目は元サッカー日本代表の監督であるイビチャ・オシム氏の通訳を務めた千田善氏。国際ジャーナリストでもある彼が考える語学の重要性とは?

基盤を作った“ラジオ英語会話”

中学に入ったころ、僕は語学があまりできなかったんです。できなくてどうしたらいいだろうと思っていたのですが、叔父が中学の英語の教師で、相談したら『ラジオを聞け』と言われた。※吉田戦車くんのお父さんです。NHKのラジオ講座当時は3つしかなかった。基礎英語、続基礎英語、ラジオ英語会話。最初の2つは文法中心だったので、それは嫌いだから英語会話を聞いたんです。その時の講師は早稲田大学の東後勝明先生。中2から高3まで、5年間聴き続けました。今は放送が週3回くらいですけど、当時は月から土曜まで週6回でした。

※岩手県出身の漫画家。千田さんの従兄弟にあたる。

“きちんと声を出すこと”がおじさんから受けたアドバイスでした。“リピート・アフター・ミー”できちんと声を出す。それを続けました。自分で話せる単語はヒアリングもできるようになる。リズムの強弱とかを何度もやりました。ラジオのスピーカー越しに東後さんに叩き込まれましたよ。

高校は県立の水沢高校普通科です。特別な勉強はやっていません。岩手の田舎は塾もなかったので。学校の授業とラジオだけですね、語学に関しては。

岩手の進学校から現役で東大へ高3の時、大学で法律をやるか東洋史をやるか迷って、1年浪人して決めようと考えました。そこで、「落ちるならどうせ難しいところを受けよう」ということで東大を受けたらまぐれで受かったんです。

文科1類という法学部進学コースだったのですが、法律の授業を受けてすぐ「俺はこれ、ダメだ」って思ったんですよ。絶対向いてないな、と。今思うともう少し頑張れば良かったと思うんですけど、法律は面白くないと思ってしまった。いまにして思えば、法学部の政治学科に行けばよかったのに、法学部をキャンセルして教育学部に行ったんです。ただ、そこもしっくりこなくて、次は国際政治に興味が出てきた。普通の就職もしたくなかったので、学部卒業後に留学をしようと思ったんです。

その時に募集をしていた留学先が、国際政治ではベオグラードとベルリンだったんです。どちらへ行こうか考えようと思っていたのですが、2、3日して行ったらもうベルリンは締め切られてしまった。そういう偶然でベオグラードに行くことになったんですよ。もしベルリンに行っていたら、いまごろはドイツ語を話し、ドイツ人みたいに時間の守れる人間になっていたと思います(笑)。

ベオグラードでは、語学学校に1年行ってから大学院へ行くという形だったのですが、土日はサッカーを観に行っていました。

僕がサッカーを始めたのは中学生のときです。野球部に入ると坊主にしないといけないから(笑)。当時、岩手のサッカーは遠野と盛岡商業の二強でしたね。遠野高校に行こうかと考えたこともありました。

僕の世代からはだいぶ後ですが、小笠原満男(鹿島アントラーズ)は大船渡高校出身ですよね。盛岡商業は県立高校で、サッカー部顧問の斎藤重信先生が何十年も同じ学校にいるわけにいかないから一度転勤をした。その赴任先が大船渡高校。その話を満男が聞きつけて、盛岡出身なんだけど斎藤先生のところで下宿しながら、大船渡でサッカーをしたんです。

ユーゴで初めて見たオシムサッカー

話を戻すと…当時のユーゴスラビアには四強(ビッグ4)があった。ハイドゥック・スプリット、ディナモ・ザグレブ、そしてベオグラードのレッドスターとパルチザン。僕が留学していたベオグラードは2つのビッグクラブが交互にホームで試合がをする。だから毎週どちらかが見られたんですよ。物価が安かったので、チケットも200円くらいでした。

Embed from Getty Imagesその当時、オシムさんはサラエボのジェリェズニチャル(鉄道員という意味)というチームの監督でした。ダイレクトパスがポンポンとつながっていて、すごく面白かった。プラティニがいた頃のフランス代表みたいな感じですね。プラティニ、ティガナ、ジレスの3本柱。非常にエレガントで運動量が多くてボールがよく走る。そういうサッカーでしたね。当時から一貫していました。

オシムさんの現役時代のプレーは見ていません。僕がベオグラードに行った時は指導者に転身して4,5年たったときくらいですね。それからしばらくしてユーゴスラビア代表監督になった。だから当時から彼のことは、いちファンとして知っていましたよ。ビッグ4以外からのユーゴスラビア代表監督就任は初めてだったと思います。

当時のビッグ4は金で田舎のチームから選手を引き抜いていた。とくにレッドスターはそんなことばかりしていたんです。実は、ピクシー(ドラガン・ストイコビッチ元名古屋監督)もニシュから引っぱってこられたんですよ。その後、徴兵に出して戻ってきたタイミングで、クラブとして彼にお見合いをさせてベオグラードの女の子と結婚させた。サッカーに集中できるようにしたんです。向こうでは、選手を落ち着かそうとして、そういうようなことを、クラブの人事政策としてやるんですよ。とくに中心選手には家も買ってやったり。

10年間のユーゴスラビア生活ユーゴスラビアの言葉は「セルビア・クロアチア語」といいましたが、出発する前に紀伊国屋書店で入門書を買って2ヶ月ぐらいで文法とか覚えて準備をしたつもりでした。しかし、いざ行ってみたら全然だめでした。当時は音響教材みたいなものがなかった。だから“書いてある通りに文字を読みましょう”ということになっているけれど、耳で実際に聞いたことがないからわからない。

最初の1年弱通った語学学校は、セルビア語しか使わない方式でした。セルビア語は当時、セルビア・クロアチア語と呼ばれていて、ベオグラードではラテン文字とキリル文字の両方を勉強しました。ラジオ英語会話のテキストに似ていたように思います。会話文があってそれを繰り返すことが基礎になる。文法事項をちょっとずつ教えてもらい8ヶ月通い、そこで合格すれば大学入学資格が取れるんです。

印象的だったのは、日本語独特の音があるということ。例えば“ザジズゼゾ”の“ザ”。日本語のザは“Z”じゃなくて“DZ”なんですよ。と言ってもわからないと思いますが、この違いが聞き分けられるようになるんです。“ハヒフヘホ”もそう。日本語のハ行よりも、むこうの「Ha」は強い。英語だと“KH”で表記します。

そういった中で耳が慣れましたけど、LとRは今でも話す時に混ざります。この歳になっても、と言うよりは、ちっちゃい子供の時に耳が慣れないとわかんないのだろうな、と思います。

ユーゴスラビアには6年余りいて、1回日本に戻って来ました。その後、スロベニアが独立するという話を聞いて、取材に行ったら戦争になって、現地に住み込んで…と、合計9年半くらいですかね。1983年に向こうに行って、1993年に帰国をしたので、ほぼ10年住んでいたことになります。1991年から戦争になって、長期化した。取材もしたかったけれど、お金もなくなってきたので帰ってきた。

修士か博士か学位を取って戻ってこられたら、日本でちゃんと就職できたかもと思うのですが、結局、ベオグラード大の大学院は中退です。修士論文を書いていないんです。その代わりというわけじゃないですけど、日本語で書いたのが『ユーゴ戦争はなぜ長期化したのか』という本。それをセルビア語に訳してベオグラードに送れば、30年遅れで修士号が取れるかもしれないですね(笑)

日本に戻ってきた後は、外務省と一橋大学で働きはじめました。一橋では非常勤講師です。外務省では研修所でセルビア語の担当をしていました。研修所は外交官試験に受かった人が担当地域に赴任する前の事前研修をおこないます。その当時は紛争の最中でしたから専門職外交官の需要があって、毎年2、3人採っていました。ユーゴスラビアという国が分かれ、独立したクロアチアにもスロベニアにも大使館を置いて、後にはボスニアにも大使館を置いて…という事情で、語学のできるスタッフの定員が増えたんです。

<後編へ続く>

関連記事