• HOME
  • 記事
  • Jリーグ
  • 「監督」ではなく「知識人」。スポーツ通訳とは一線を画する、オシムの通訳の難しさ

「監督」ではなく「知識人」。スポーツ通訳とは一線を画する、オシムの通訳の難しさ

かつて日本代表監督を率いたイビチャ・オシム氏の通訳を務めていた千田善氏が語るスポーツと語学の関連性。前編では岩手で生まれ育ち、東京大学を経てユーゴスラビアへと留学したまでの経緯を語って頂きました。後編である今回は、帰国後にどのようにしてオシム氏の通訳になったのかを語って頂きました。そして、彼が考えるスポーツ選手における語学の重要性とは。

日本でオシムと再会

オシムさんが日本に来たときは驚きました。ただ、最初はどれだけ日本で真剣に指導するつもりかわかりませんでした。Jリーグが始まったとき、引退間際の大物外国人選手がたくさん来日し、“象の墓場”と言われていました。オシムさんもキャリアの晩年で金稼ぎに来たのかとも思いました。今となっては本当にごめんなさいなんですけど。ジェフがいきなり優勝争いをしているのを見たら、これは本物だな、さすがオシムさんだな、と。

やっているサッカーの基本線は僕がユーゴスラビア時代に見たものと同じでした。ただ、もっとスピードアップしたかもしれない。サッカーはどんどんどんどんスピードが速くなっていますから。実際に70年のワールドカップのペレとか見てみると「こんなスローでやっていたの!?」という気も本当にします。

とくに速くなったのは80年代後半から90年にかけてかな。アリゴ・サッキがインテンシティの高い戦術を採用した。そうすると他のチームも対応しないと負けるから同じようになり…というサイクルはあったと思います。ここ25年か30年ですね。その後もサッカーがどんどんスピードアップしているのは間違いないと思います。

最近、オシムさんが現役の時の動画をYouTubeで見つけましたが、それものっそりしてますね(笑)。しかし、オシムさんがジェリェズニチャルを監督として率いていたときの映像はないんです。だから正確に比べられないのですが、当時のジェリェズニチャル・サラエボは本当に11人しかいないのか?と思うくらい、人が湧いて出てくるサッカーをしていました。ジェフ時代も基本的には、よく走る、「人が湧いて出てくる」スタイルでしたね。

そうやって、いちファンとして見ていると、2006年の6月に※“「オシムって言っちゃったね」事件“があり、オシムさんが日本代表監督に就任することが決まりました。ドイツW杯が終わった直後です。最終的にサインをしたのが7月21日。これが監督就任記者会見兼調印式でした。それを僕はテレビで見ていて「これで代表も面白くなるぞ!」と思っていたんです。大学の夏休み前くらいで、当時教えていた中央大学の学生のレポートの採点をしていました。

※川淵三郎元 日本サッカー協会キャプテンが2006年W杯の総括会見において次期監督として交渉中のオシム氏の名前を出してしまった事件。

Embed from Getty Images“傍観者”から一転して代表監督の通訳に記者会見を見て「よしよし」と思った2,3日後、オシムさん側と僕の共通の知り合いAさんから電話がかかってきました。「シュワーボ(オシムさんのニックネーム)が通訳を探しているけど、サッカー協会の面接を受ける気はある?」と。

もう二つ返事で、大学の仕事はあきらめる覚悟で、御茶ノ水の日本サッカー協会に行きました。ところが、面接ではなくていきなりミーティングで通訳をさせられました。8月初めにキリンチャレンジカップの代表メンバー発表をしなければいけない。もう1週間しかない。そういう状況でした。

連日何時間もミーティングをして、ひとまずメンバーを決めた。ところが、発表当日には13人しか名前を出さなかった。結果的には2日後ぐらいに追加発表したんですが、みなさんビックリしたと思いますよ。オシムさんは涼しい顔で「11人いればサッカーできる」みたいなことを言っていました。明確には言わなかったけれど、オシムさんとしてはタイトな日程に対する抗議だったんです。「最初からこう来るか、いやはや、予想以上になかなか面白い人だな」と思いました。そんなどたばたからスタートしたんです。

結局、サッカー協会の面接はありませんでした。共通の友人Aさんがオシムさんの奥さんに、僕がどういう人間でどのぐらい語学ができるかというような話を既にしてあったようでした。

実は、その時にはもうサッカー協会が選んだ通訳さんがほかに2人いたんです。現地でセミプロのサッカーをやっていた人、ベオグラード大学の体育学部で勉強した人、そういう経歴の方ですね。初めは、トレーニングの通訳は彼らがやり、記者会見やミーティングの通訳を僕がやるという説明だったんです。2007年の3月のペルー戦まで3人体制でした。ミーティングや記者会見だけでなく、トレーニング通訳もほとんど僕がやっていたんですが、3人体制の方がなにかと助かりましたね。

結局、サッカーの通訳としては1年4カ月。その後、オシムさんが2007年11月に倒れた時は、集中治療室から出るまで1カ月半、自宅に帰らずにつきっきりでした。最初は医師団と家族のあいだ医療通訳ですね。意識を回復した後は本人と医師、看護師さんたちとの通訳。集中治療室から退院した後は、リハビリ通訳です。今から考えると笑い話ですが、通訳の方向が変わった。関係が逆転したんです。代表チームの時はオシムさんが「もっと走れ」とか言うのを訳していたけれど、今度は、医者や理学療法士さんたちがやれと指示したことを、僕がオシムさんに伝えるわけですね。「肩を上げて」とか「ひじを伸ばして」とか。オシムさんは文句も言わず、立派にリハビリをやっていました。しかも、ある動作を10回やりましょうと言われると、必ず11回やる。すごい人でした。

医療通訳・リハビリ通訳は2007年11月から、オシムさん夫妻が2009年の1月に帰国するまでの1年ちょっとです。代表通訳とあわせて3年弱、オシムさんとすごしたことになります。

Embed from Getty Imagesオシムの通訳は“スポーツ通訳”ではないオシムさんに最近会ったのは去年(2016年)の夏ですね。僕がむこうへ行った時に顔を出しています。今はサラエボにいます。時々グラーツに行ったりサラエボに行ったりとしています。家が2つあるので。

オシムさんの通訳はたんなる“スポーツ通訳”ではないんです。ヨーロッパの知識人が話していることを通訳する感覚です。苦労しました。その時に気づいたのが、“言った通りに訳す”ということが当たり前だけど大事だということ。過不足なく、しっかり伝えられないと、たとえばジョークを話したときにオチで笑うことができない。日本のダジャレと違って欧米のジョークやユーモアには意味、筋書きがあるので、最初からしっかり訳していないと通じなくなる。ジョークがうまく伝わらなかったら、怒られます(笑)。

ほかの通訳さんの体験談として、“これは訳すとまずいから訳さなかった”と言う話をたまに聞きますが、僕はできる限りオシムさんの発言に忠実に訳していました。オシムさんもスポンサーとの関係など「オトナの事情」は理解していたので、問題はありませんでしたが、仮に何かあった場合、給料はサッカー協会からもらっていたけれど、僕はオシムさん側という立ち位置でやっていました。本来は微妙な配慮をしないといけない場合もあるのですが、全然気にしないでやっていました。それで苦情が来た事は1回もないです。

世界の広がりを人の倍感じるために

語学を学ぶことで世界が広がるというのは間違いありません。インターネットの世界でいうと、何かを調べるときに日本語版のウィキペディアしか読めない人は英語版のウィキペディアを読める人の100分の1ぐらいしか世の中がわからないといえるでしょうか。今の時代、ネットだと特に英語の情報があふれています。

現実問題として、世界で政治・経済のパワーを持っているのはアメリカなので、そこに売り込むための各国の発信も英語が多い。そういう意味でも最初に英語ができないと話にならない。しかし、英語プラスもう1つできると、さらに何倍か世界が広がっていきます。アメリカ中心のものの見方のほかに、日本ともアメリカとも違う角度からさらに物事を知ることができる。僕の場合は、それがたまたまユーゴスラビアで、たまたまオシム監督の通訳をやるというめぐり合わせになりました。そこまで行かなくても言葉ができるというのは世界が広がる、すばらしいことです。いろんな国の女の子とも話せますしね(笑)。

語学ができる“すっきり感”を味わって欲しいサッカーに関して言うと、最近の香川(真司、ドルトムント)なども言葉の壁にぶつかったんじゃないかなと思います。あくまでも推測ですけれど、最初はクロップ監督にすごく気に入られて、彼を中心にしたチームを作ってもらった。本人からすると“これをすれば良い”ということだけをやればよかった。監督からは「シンジがこう行くからお前はこうしろ」という形でほかの選手たちに指示がでていた。最初のころドイツ語ができなくても活躍できたのは、そういう事情かもしれません。ところが、マンUへ行って戻ってきたら、ドルトムントにはクロップがもういない。監督との相性もありますが、“香川を中心にした言葉いらずのチーム”でなくなったのが大きいんじゃないかな。香川は逆に誰かをサポートする側に回らないといけないし、監督の指示がわからないといけない。何週間か試合に出られなかったのは、そういったことがあったのかもしれません。

これは本当にあった話なのですが、僕がベオグラードにいたときに日本人と現地の人が結婚した。彼らは英語で会話をしていました。ところが、夫婦喧嘩になってお互い何を言っているかが理解できないと言う。僕はつまり、夫婦喧嘩の通訳をしたんですよ。お互いそこそこ英語ができるのだけど、細かいニュアンスまでは伝えられない。心のひだを伝えることまではできないという感じですね。それを現地のセルビア語と日本語で通訳した時は10分くらいで分かり合えました。

言葉ができない人ができたときの快感、すっきり感というのはなかなか分かってもらえるものではないかもしれません。それは自転車に乗れない人に乗れる人が口で説明するのと同じようなもので、できないものは感覚を理解できない。

ただ、言葉ができるようになったら、それこそ自転車に乗れるのと同じスイスイという感じになります。海外へ挑戦したいと思っている選手の中には『サッカーには言葉がいらない』と思っている人もいるでしょうけど、言葉がわかってサッカーができることのすっきり感を感じて活躍してほしいです。

外国語はかならずできるようになります。自分を信じてチャレンジをし続けてほしいと思います。学び方なんかは、相談に乗りますよ(笑)。

関連記事