灰田さち(元広島、現ツエーゲン金沢)が語る、Jクラブで働く魅力。

今回ご登場いただく灰田さちさんは、J2ツエーゲン金沢のホームタウン推進室で働く才媛です。

北信越リーグのサッカークラブ、石川県サッカー協会のボランティアなどを経て、オリジナル10(Jリーグ発足時に加盟した10クラブ)の1チームであるサンフレッチェ広島に入社した灰田さん。インターンから正社員への道を掴み、J1優勝争いや残留争いを経験した後、現在は地元・石川県に戻っています。

「もともとはスポーツに関心がなかった」と語る灰田さんは、なぜサッカーの道に進んだのでしょうか。Jリーグのクラブに就職した経緯と、その魅力に迫りました。

とある帰化選手の存在

私はもともとスポーツに関して、やることも見ることもあまり好きではなかったんです。ただ、私の兄が日産自動車サッカー部時代から横浜F・マリノスの大ファンで、1993年にJリーグが開幕して盛り上がっていたこともあり、サッカーは身近な距離にありました。そして、1998年のフランスW杯を見て呂比須ワグナー選手の大ファンになったんです。そして、サッカーが好きになりました。

呂比須選手はブラジルから日本に帰化して、W杯最終予選の重要な時期にお母さんを亡くしているんですよね。それでも帰国せずに予選に出場して、日本代表をW杯初出場に導いたというドラマに感動しました。

兄に1度、ベルマーレ平塚(現・湘南ベルマーレ)の試合に連れていってもらったんですが、呂比須選手は他の選手が帰った後もずっとファンサービスをしていて。私も握手とサインを書いてもらって、この選手をずっと応援したいと思いました。

2002年に呂比須選手は引退したのですが、その時にインタビューで「将来、Jリーグのクラブで監督をしたい」と言ってたんです。Jリーグのクラブで働けばいつか一緒に仕事ができるのではないか、と思ったのがサッカー業界に入ろうと思ったきっかけです。

当時、私は高校1年生だったのですが、当時のサッカー部の顧問の先生が名の知れた方で、Jリーグのスタッフの方を紹介してくれることになりました。ただ、Jリーグのクラブは新卒の公募をしているわけでもないので、「人脈がないと入るのはかなり難しい」と言われました。

目の当たりにした地元クラブの経営危機私は諦めが早い性格だったので、もう無理だと思っていましたけど、高校2年の時に行った修学旅行で、ある大きな経験をしました。私の高校の修学旅行は例年、韓国に行っていたんですが、当時はSARS(重症急性呼吸器症候群)という病気が流行っていて、私たちの代だけ北海道になったんです。札幌では自由行動の時間があったので、コンサドーレ札幌の練習を見学に行くことにしました。

練習見学は初めてだったのですが、そこには楽しそうにサッカーの話をしているおじさんや、Tシャツにサインをもらってキラキラした目をしている子供、一眼レフでお気に入りの選手を撮影しているお姉さんたちがいて。この人たちはコンサドーレ札幌がなかったら繋がることもなかったんだろうなと思った時に、自然と鳥肌が立ったんですよね。石川県には当時プロスポーツチームがなかったので、スポーツ・サッカーを通じて街の人々がつながっている様子を目の当たりにして衝撃を受けました。そして「街の人々をつなげることができるJリーグはすごい!こんな仕事がしたい!」と強く思ったんです。これをきっかけに、どれだけ難しくても私はJリーグのクラブの仕事に就きたいと思いました。

大学は地元の金沢大学に進学したのですが、高校のサッカー部でお世話になった顧問の方のおかげで、石川県のサッカー協会でアルバイトをする機会をいただくことができたんです。それと併せて北信越リーグのフェルヴォローザ石川・白山FCのボランティアスタッフとして、試合運営をするようになりました。

ただ、大学3年になったときに、そのチームが経営危機に陥ってしまいました。熱心なサポーターさんもいたクラブなので、応援していた人々も悲しんでいたし、選手もプレーする場を失ってしまい、みんながバラバラになってしまったんですよね。それを目の当たりにした時にこの業界の怖さも知りましたし、学生で何もできない自分に不甲斐なさを感じてしまいました。

当時はライバルチームにツエーゲン金沢がいましたけど、例えばガンバ大阪がある日突然なくなったとして、サポーターは「明日からセレッソ大阪を応援しよう」とは思わないじゃないですか。それと同じで、当時の私はどうしてもツエーゲン金沢を応援する気にはならなかったんです。だからこそ、今ここで働いていることが不思議ですね(笑)

全て自己負担で臨んだ広島でのインターン

大学卒業後は、まず東京の企業に就職したいと思っていました。もちろんJリーグのクラブで働きたいという思いはゆるいでいなかったです。東京にいたほうが人脈も広がるだろうな、と。とにかくサッカーと全く関係のない職種でも良いので、東京に行こうと決意し、都内のIT企業に就職しました。

本当は大学を卒業してすぐにスポーツビジネス系の大学院も行きたいという気持ちはありました。ただ、学費や生活費を出すのは難しいですし、Jリーグのクラブは新卒よりも、何年か社会人を経験していたほうが採ってもらいやすいという話を聞いていたので。それならば一度就職をして、貯めたお金で大学院に行こうと考えていました。

それから3年後、お金も貯まって、早稲田大学大学院のスポーツ科学研究科に合格することができたタイミングで、会社を辞めました。その大学院で1年の時に1泊2日のスポーツビジネスセミナーに参加したのですが、そこでたまたまサンフレッチェ広島のスタッフの方に会ったんですよ。そこでお話をして、1度インターンに行かせてほしいという話をしたら承諾していただけてかなり異例だったそうですが、開幕前の忙しい時期に、1カ月近くインターンとして採用していただきました。そこではチケットの発券・発送作業や試合運営のお手伝いをさせていただいていましたね。

とはいえ、交通費も滞在費も自己負担だったので、安いユースホステルに泊まっていましたね。5月から営業事務の方が産休に入ることもあり、その代役としてサンフレッチェ広島に就職することが決まりました。ただ、その時はまだ大学院が1年残っていたので、会社に休みの許可をいただいて、契約社員として働きつつ、月1〜2回は大学院に行っていました。

このとき、この職業に就くためには、運とタイミングが重要だと思いましたね。しかも、お声がけいただいたのがオリジナル10のクラブだったので、歴史もあるし、組織としてもしっかりしていると感じました。

正社員になったのは2013年からです。最初は事務仕事がメインだったのですが、最後の2年間はスポンサー営業にも動いていました。スポンサーを獲得する上で大事なことは、クラブの理念に共感してもらうことだと気づきましたね。例えば、自動車メーカーであれば、うちの車はこういう性能で…という話をすると思いますけど、サンフレッチェであれば“日本一の育成型クラブを目指す”という理念を話し、それに共感していただける企業がスポンサーとなってくれます。

サンフレッチェでは優勝争いも残留争いもありましたけど、それぞれポジティブなパワーとネガティヴなパワーがありました。私の中では優勝した時よりも、残留を決めた時のほうが印象に残っています。最後のホームゲームで勝ったら残留が決まる試合の前に、地元の商店街やスポンサーのショッピングセンターなどで、応援メッセージを書こうというボードを飾ってくれていて。試合当日のスタジアムだけでなく、街中が「絶対に残留するんだ」という空気に包まれていましたし、このパワーは絶対に忘れてはいけないと思っています。

家族の病気と、急逝それからは家族の影響もあり、J2のツエーゲン金沢に行くことになりました。

実は姉が2011年に白血病で亡くなってしまって、父は一昨年に脳梗塞になってしまったんです。幸い今は後遺症もなく元気なのですが、何かあった時に帰れないと不安ということもありました。それがちょうど30歳になるタイミングだったのと、自分を育ててくれた石川県に恩返しをしたいという想いもありましたし、私は歳の離れた末っ子で、両親にはたくさん心配や迷惑をかけてきました。だからこそ親孝行をしたかったので、半年くらい悩んで、地元に戻ることを決めました。

もともと石川県サッカー協会でアルバイトをしていたご縁で、ツエーゲンの方と繋がりがあって声をかけていただいたんです。ホームタウンに関わる仕事をやってみたいとは伝えていたので、今は事業企画部次長兼ホームタウン推進室長という形で働いています。

灰田さち氏

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