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WEリーグ初代チェア 岡島喜久子 KIKUKO OKAJIMA Vol.1「私がWEリーグ初代チェアになるまで」

2021年の秋に開幕が予定されている、女子サッカーのプロリーグ「WEリーグ」。女子サッカー界の新たなチャレンジの舵取り役を任されたのが、岡島喜久子チェアだ。
日本初の女子サッカークラブでプレーし、日本代表に選ばれたのち、アメリカの外資系金融機関で結果を出してきた。
新時代のリーダーはどんなキャリア歩んできたのか。そしてWEリーグをどのように発展させていこうと考えているのか。
「SmartSportsNews」の独占インタビューを3回に分けてお届けする。

大学生で女子サッカー連盟事務局長に就任

──まずは岡島さんのサッカー歴やビジネスキャリアについて教えていただけますか?

私がサッカーを始めたのは1972年の中学生のときです。当時は中学校のクラブで、男子の中に交ざって練習をしていました。高校からは日本初の女子クラブチームであるFCジンナンに入りました。日本の女子サッカー界に深く関わるきっかけとなったのが1977年です。

──サッカーを始めてからわずか5年後のことだったんですね。

そうですね。第2回AFC女子選手権に出場するため、台湾へ遠征したのですが、当時はまだ、日本サッカー協会は女子の登録を認めておらず、日本女子代表チームは存在していませんでした。そこでFCジンナンが非公認の単独チームとして参加しました。大会では香港やシンガポール、タイなど、日本以外の参加国はどこも代表チームを派遣していました。それを見て「日本も絶対に女子代表チームを作らなければ」という強い思いが芽生えました。

──そこで強い使命感が芽生えたわけですね。それからは?

高校卒業後は早稲田大学に進学をして、大学4年間はJFAでアルバイトをして協会の仕事しながら人脈を作ることができました。今思えば戦略的だったなと思います。

──女子サッカー連盟の立ち上げの話もその頃だったんですよね。

そうです。三菱重工女子サッカー部ができ、三菱養和サッカークラブに女子チームができたのをきっかけに、三菱養和でコーチをしていた鈴木良平さんが女子チームにも関わるようになりました。当時、JFAの事務局長だった中野登美雄さんと鈴木さんは都立駒場高校の先輩と後輩という間柄で、そこから三菱グループが女子サッカーをサポートしようという機運が生まれました。

──女子サッカー連盟ができるまでに三菱グループの尽力があったと。

その強力なバックアップもあり、1979年に日本女子サッカー連盟が誕生しました。私は連盟の立ち上げに関わっていたので、まだ20歳くらいの現役選手だったのですが理事メンバーに選ばれました。その後、初代事務局長を務めた鈴木さんがドイツでコーチをするために任を離れたのですが、後任を探すときに初代理事長・森健兒さんの「やりなさい」という一言で私の2代目事務局長就任が決まりました(笑)。

──選手兼事務局長というのはすごい肩書きですね。

西が丘で開催された全国大会に出場したときのことは今でもよく覚えています。ユニフォーム姿でウォーミングアップをしているときに「事務局長、すみません!来てください」と呼び出され、スパイクを履いたままオフィスへ行ったことがありました。そんなこともありながら選手をしつつ、事務局長として女子サッカー連盟の土台作りに関わってきました。

金融機関で築いたビジネスキャリア

──大学卒業後は就職をされたわけですよね。

はい。就活ではサッカーを続けるために土日休みを条件に探しました。最初は大手スポーツメーカーの販売促進の仕事を探していたのですが、土日が休めないということであきらめました。そこで条件に合ったのが外資系金融機関。私は大学在学時に1年間海外留学の経験があったので、英語ができ、商学部だったということで面接はいくつも受かりました。そのなかで就職先に選んだのが「ケミカルバンク(現JPモルガン・チェース)」でした。

──どんなお仕事をしていたのでしょうか?

東京支店で働きながら、2年目には審査の研修でニューヨークに1年間行かせてもらいました。そこで商社、銀行、生命保険会社などのクレジットアナリストをしていました。仕事は順調で面白くなっていたのですが、入社して5年後に日本の証券会社へ転職しました。

──転職の理由は?

外資系は日本人を現地採用しかしないため、海外に転勤があるわけでもなく、東京支店でずっと働くしかありません。それに支店なので人数や業務内容も限られていました。せっかく東京で働いているのだから日本の金融機関の本店で働いてみたいと思うようになりました。それで転職先に選んだのが三菱UFJモルガン・スタンレー証券の前身にあたる国際証券です。

──その頃、サッカーはどうしていたのでしょうか?

大学の留学時、ニューヨークでの研修以外はずっとプレーを続けていました。FCジンナンが日産FCレディースになってからも在籍していましたね。国際証券に勤めている間、日興証券の女子サッカーチームから私をコーチにしたいというオファーもありました。証券会社同士なので国際証券の上の人を通して部長に話があったそうなのですが、オファーがあった1カ月後に「岡島さん、こんな話があったけど断っておいたから」と言われました。

──え、断っておいた……(苦笑)。

当時、私は営業成績が良く、2億円近くの利益を挙げていたので会社としては出したくなかったそうです。だからそんな話があったということを私は知らされず、流れてしまったということがありましたね(笑)。

──それだけ仕事ができて、プレーヤーとしてもFCジンナンという名門でプレーされていれば当然そういった話もあったでしょうね。

その後は国際証券に2年間勤めて、子会社のコクサイシンガポールマーチャントバンクというシンガポールの会社へ転勤になりました。ただ、90年代に入ってからずっと日本株が下がっていてもう10年はダメだろうと思い、翌年には退社して今のアメリカ人の夫と結婚しました。

──その結婚を機にアメリカへ移住されたんですね。

結婚がきっかけではあったのですが、大学で留学したときから日本よりもアメリカが好きだなという思いはずっとありました。

──日本では引退ということになっていますが、アメリカでもサッカーを続けていた?

続けていました。私はボルチモアに住んでいるのですが、ワシントンからボルチモアにかけてはサッカーが盛んな地域として有名です。メリーランド州には女子4部リーグまであり、そこに所属するクラブでプレーしていました。それ以外にも女性2名を入れるインドアサッカーや男女が半々でやるアウトドアサッカーなどもあります。アウトドアのほうは女性にもよくボールが回ってきますし、人種もラテン系からイラン人などさまざまで、結構レベルも高くて面白かったですね。

──金融の仕事もずっと続けられていたわけですよね。

アメリカに移住したあともファースト・ナショナル・バンクやリッグスバンク、メリルリンチといった金融機関で働いてきました。最後のメリルリンチに2019年11月まで勤めたあと、昨年WEリーグチェアのお話をいただきました。

Vol.2「コロナ禍での新リーグ立ち上げ」

Vol.3「日本の女性をエンパワーメントする」

■プロフィール

岡島喜久子(おかじま・きくこ)
1958年5月5日、東京都生まれ。中学2年時に男子サッカー部に入部。その後、日本初の女子クラブであるFCジンナンに所属し、第2回AFC女子選手権に出場。79年、日本女子サッカー連盟設立時の初代理事に就任、83年には日本代表として広州女子国際大会に出場。早稲田大学卒業後の83年からケミカル銀行(現JPモルガン・チェース銀行)に入行し、89年の海外転勤を機に引退。91年からは拠点を米国へ移し外資系金融機関で働く。2020年7月、WEリーグ初代チェアに就任。

■クレジット

取材・構成:北健一郎
写真提供:WEリーグ

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