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ビーチバレー・西村晃一「どうしても勝ちたい場所」_CROSS DOCUMENTARYテキスト版

そこでは、盛大な誕生会が開かれていた。花束を抱え、満面の笑顔を浮かべる50歳の中年男。感謝のスピーチで、彼は吠えた!

 

「まだ僕には、どうしても勝ちたい場所がある!」

 

大都会のど真ん中、東京渋谷の集合商業施設・宮下パーク。その屋上に広がるサンドコートで、ビーチバレーの公式戦が行われていた。

 

来年のパリオリンピックでは、メインコートがエッフェル塔の麓に造られるというビーチバレーは今、世界中の注目を集めている競技だ。そしてこの宮下パークでの戦いは、パリオリンピックを目指す選手たちが集結する、日本最高峰の大会だった。

 

コートでは、機敏な動きでダイビングレシーブする男に、周囲の視線が集まっている。50歳の誕生日を盛大に祝われていた、ビーチバレー界の現役レジェンド・西村晃一その人である。若い選手たちと何ら遜色のない動きに、ギャラリーたちの歓声が上がる。

 

だが、彼が言う『どうしても勝ちたい場所』とは、この試合では無かった。さらに言えば『勝ちたい』のは試合だけでは無かった。

 

 

西村は1998年、インドアバレーの日本代表に選出され、守備の専門職≪リベロ≫として大活躍した。身長は175cm。バレーではハンデとなる低身長を跳ね返し、世界がその実力を認めたのである。

 

ところが2002年、彼は突如としてビーチバレー転向を表明。日本初のプロチーム
≪WINDS≫を結成し、今もなお、第一線の現役を貫いている。年齢の壁、身長の壁、すべてに抗い戦い続ける男の目指すものを知りたくなった。

 

ある日の、鵠沼海岸(神奈川)。西村が若手選手と練習している。その動きに、50歳という年齢は感じない。

 

「何年経っても出来ないことが沢山あるし、まだ上手くなれるって自分の中で思っているので。まだまだ年齢は関係なく、向上心は持っていますよ」

 

その体と心の充実の源は、どこから来るのだろうか?

 

鵠沼海岸での練習を終えた西村は、都内某所に場所を移す。そこは、彼が運営するプロビーチバレーチーム≪WINDS≫の拠点。天候を気にする必要のないインドアに砂地を作るなど、ビーチバレーに集中出来る環境が整っている。

 

すぐに個人練習を再開する西村。自身を「世界一のバレー好き(インドア、ビーチ含む)」と公言する彼にとって、ここは最高の遊び場であり、飽くなき研鑽を積める場所なのだ。

 

「大事にしているのはバランスです。ボールを拾ったらすぐ動けるかとか、ビーチバレーはレシーブしたら終わりじゃないので。レシーブ、トス、アタックを2人で全部こなしていくので、動きの連動性のためにも、バランスは日々鍛えていますね」

 

 

貪欲にトレーニングを続ける西村。なぜ50歳の体にそこまで鞭を打てるのか? それは、順風満帆ではなかった、彼のバレー人生に端を発している。

 

西村は中学、高校と、インドアバレーのエースアタッカーとして、それぞれ全国優勝を果たしている。しかし卒業後の進路として、大学や実業団からのオファーは来なかったという。

 

「バレーは背が高くないとダメって、子供の頃から言われてきたんですよ。でも、背が高くなければバレーしちゃいけないの? って、そういう反骨真でずっとやっていました。この身長(175cm)でも、日本代表になってやるって。でも現実は厳しくて・・・」

 

そんな時、リベロ制度の導入で、西村に道が開ける。1998年に代表チーム入りを果たすと、日本代表初のリベロとして、海外選手の強烈なスパイクを拾いまくった。世界選手権やアジア選手権では、ベストディガー(レシーブ)賞も受賞している。西村晃一の名は世に知れ渡り、ついに世界最高峰のバレーリーグ・セリエAからオファーを受けた。だが・・・

 

「契約寸前までいって・・・あれ? 何か違うって思ったんです。リベロで、レシーバー専門で終わりたくなかったんでしょうね。スパイクも含めて、大きい選手を負かしたいという思いでバレーをしてきたんですよ。やっぱり(スパイクを)打ちたかったんです」

 

魅力的なオファーを蹴り、西村は原点回帰を選択した。

 

「サーブ、レシーブ、トス、アタック(スパイクの別称)、全部が出来るビーチバレーという存在が、僕には輝いて見えたんです」

 

2002年のビーチバレー転向後、彼は正に『水を得た魚』となった。それから20年経った今も、その思いは色褪せていない。自分がどこまで行けるか? 明日、自分がどれだけ進化しているか?

 

「ワクワクが止まらないんですよ」

 

 

そんな現役レジェンドプレーヤーの西村には、大事な使命が課せられている。ビーチバレーの普及と、次世代の育成がそれだ。2020年にオープンした宮下パークにサンドコートが誘致されたのも、普及と育成に賭ける西村の奔走の賜物だった。

 

「都会の真ん中にビーチバレーの環境があれば、より身近に感じてくれる人が増えるはずですし、なんだこれは?って思ってもらえるだけでも成功なんですよ。実際、その効果も表れていますしね」

 

サンドコート誘致の際、共に汗をかいてくれた三井不動産の松本和之さんとは、今も交流が続き、この日もランチを共にしていた。

 

「最初に話を聞いた時・・・びっくりするでしょ? 普通。でも西村さん、しつこくて(笑) 都会で身近に(ビーチバレーの)ああいう光景を見られるっていうのは、他に無かったことなので、いつのまにか、私も一緒になってワクワクしてました」

 

夜になると、西村に誘われ、宮下パークのサンドコートに出向いた。

 

「集合」

 

西村の掛け声で、8歳から14際の子供たちが集まってくる。次世代のビーチのスター候補のためのジュニアスクールだ。上手くなりたい、子供たちのそんな真剣な眼差しに、西村も本気の指導で応える。

 

 

「この年代(ジュニアスクールの子供たち)の層が厚くならない限り、ビーチバレーの未来は無いとまで思っています」

 

丁寧に教えれば教えるだけ、子供たちはそれをスポンジのように吸収して、上達していく。そんな姿に目を細めながら、未来のオリンピアンがこのサンドコートから育つことを、西村は夢見ている。一人の生徒に、将来の夢を聞いた。

 

「ビーチバレーの選手の中で、一番強い人になりたいです」

 

また別の日、西村はビーチバレー普及のため、渋谷のとあるオフィスを訪問する。面会したのは、日本のマイナースポーツ発展を図る、経済同友会≪スポーツとアートの産業化委員会≫副委員長の木村弘毅さん。

 

「いわゆるマイナースポーツの普及では、色々苦労するところがあるのですが、渋谷のど真ん中でビーチバレーを旗揚げされた西村さんの活動は、モデルケースとして、様々なマイナースポーツの参考になると思っています」

 

この日2人は、様々な意見を交わし、ビーチバレーを始めとした、様々なスポーツの環境向上を目指すことで、その一致を見た。第一線の現役プレーヤーでありながら、日々ビーチバレーの発展のための活動で、西村のスケジュールは埋め尽くされているのだ。

 

「辛いとは思わないかな。これで自分のフィールドが熱くなって、思う存分バレーが出来るんですから」

 

宮下パークで、西村主催のあるイベントが開催された。集まった大勢の参加者の中には、ビーチバレーに触れたことが無い人も多く含まれている。一般人向けのビーチバレー体験会だ。この日、主に盛り上げ役に回った西村は、初めて砂の上でボールを追いかける参加者の笑顔に触れ、それ以上の笑顔を爆発させていた。

 

と、このイベントに、西村によく似た子供2人の姿を見つける。

 

「愛息子たちです」

 

西村が紹介してくれた。彼らは、純粋にプロビーチバレー選手の父のことが大好きだ。

 

「将来の目標は、お父さんと一緒にオリンピックに出ることです」

「どれだけ(選手を)やらないといけないんだよ!」

 

突っ込みながらも、西村はデレデレだった。親子では無理かもしれないが、兄弟でオリンピックに行って勝ってくれたら・・・西村の幸せはピークに達するだろう。

 

最後に西村は、プロビーチバレー選手としてのこれからを話してくれた。

 

「僕は誰よりもビーチバレーが好きで、バレーボールが好きで、だからずっとやっていたいんです。一日中やっていたいんです。50歳でも優勝するの? 50歳でも日本のトップなの? 世界で勝っちゃうの? って言われたいんです。それをこれからの現役人生で証明していきますよ」

 

 

長年、日本のトップクラスにいながら、西村はまだオリンピックの舞台に立ったことは無い。2021年の東京オリンピックでは、その座に手を掛けながら、パートナーのコロナ感染で夢破れている。

 

現役のレジェンド・西村晃一、50歳。

 

来年のパリオリンピック、エッフェル塔の舞台に立つことを、彼は諦めていない。

 

 

TEXT/小此木聡(放送作家)

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