• HOME
  • 記事
  • その他
  • スキージャンプ・伊藤有希「夢、もっとあります」_CROSS DOCUMENTARYテキスト版

スキージャンプ・伊藤有希「夢、もっとあります」_CROSS DOCUMENTARYテキスト版

梅雨空の沖縄県宮古島—

彼らは、美ら海の浜辺を、もうどれだけ走っただろうか。北海道に拠点を置く、土屋ホームスキー部恒例の、宮古島合宿。監督でもある、レジェンドジャンパー・葛西紀明。北京オリンピックノーマルヒル金メダリスト・小林陵有。錚々たるメンバーが、足場の悪い砂浜でダッシュを繰り返す。そしてその中に、紅一点、男子選手に引けを取らない運動量を見せている選手がいた。

伊藤有希。オリンピック3大会連続出場、W杯通算5勝。あの高梨沙羅に次ぐ実力者は28歳となった今年も、現役続行を表明した。

「新たな4年のスタート。新鮮な気持ちで、新たな目標、ヴィジョンを持って、ここに来ました」

決して満足いく結果ではなかった北京オリンピックから3ヵ月。彼女は今、何を思い、何を見据え、砂浜を走るのか? 伊藤有希の新たな4年への原動力に迫った。

合宿での練習メニューは全て、監督の葛西紀明が組み立てているという。その様子を覗いてみると、意外にもビーチバレーに興じている姿が。

「きついトレーニングも楽しみながら」

笑顔で答える葛西監督だが、これを額面通りに受け取ってはいけない。ビーチバレーの足腰への負荷は、想像をはるかに上回る。現に—

『楽しんでるか!』

その掛け声に、伊藤はただただ苦笑い。

ビーチバレーの後は、葛西監督がクールダウンと称する、砂浜でのトレーニング。様々な動きを取り入れながら、約1キロの浜辺を幾度も往復する。これがまた尋常ではない過酷さなのだ。それでも、伊藤は歯を食いしばって、男子選手たちと同じメニューをこなしていく。

本物のクールダウンの最中に、この過酷な合宿について、伊藤に聞いてみた。

「男子と一緒に(男子並みの)トレーニングがしたくて、このチームにいるので、希望通りです!」

彼女は豪快に笑った。側で見守る葛西監督も、彼女のそんな様子に目を細める。

「またワールドカップで勝たせてあげたいし、勝てますよ」

伊藤有希は葛西監督と同じ北海道、下川町の出身。1994年、リレハンメルオリンピックの年に、ノルディック複合選手の父、アルペン競技の母のもとに生を受けた。自身も、まだ2歳に満たない頃からすでにゲレンデを滑っていたという。ジャンプ競技は4歳から。父がコーチを務める下川ジャンプ少年団で腕を磨いた。その少年団は、幾人もの偉大なオリンピアンを輩出している。伊藤の師である、レジェンドジャンパー・葛西紀明もその一人だ。伊藤は自然と、彼らの背中を追うようになった。

「ここで練習していれば、オリンピックに出られる—そんな夢を見させてもらいました」

その夢が現実味を帯びてきたのは、12歳。札幌で開かれた大会でテストジャンパーを務めた彼女は、120m越えの大ジャンプで、周囲の度肝を抜く。そのジャンプを目撃した関係者から声がかかり、伊藤は急遽、国際大会へ出場することが決まる。降って湧いたようなチャンス・・・そこで彼女は、当時の世界トップクラスの選手を向こうに回し、大会史上最年少で表彰台へ上がる快挙を達成。「スーパー小学生登場」と大きく報じられた。伊藤はその後も順調に成長し、故郷の偉大な先輩でもある葛西紀明に誘われ、チームメイトとして、共にオリンピックを目指すことになったのだ。

宮古島合宿中、たびたび見かけたのは、伊藤が自身のジャンプフォームをチェックするような仕草。実は昨年の夏から、彼女はリスキーなチャレンジに臨んでいた。

《フォームの改造》

当時、オリンピックを控えるシーズンとしては、異例の選択だった。

「よりパワーを出せるように、助走姿勢をより低くして・・・ 踏切の時も、台にしっかり力を伝えられるような形を求めています」

伊藤はWカップでは通算5勝をあげている。しかし表彰台から遠ざかって4年。これはもう一度、世界のトップで戦うための決断だった。

「結果的に失敗だとしても、チャレンジしたことは失敗にならないと思ってました。チャレンジしなかった後悔だけは、絶対に嫌でした」

残念ながら、北京オリンピックでその成果が発揮されることはなかった。しかし、オリンピック後のシーズン後半、兆しが見え始める。ワールドカップ第17戦で久しぶりの3位表彰台に上がるなど、後半全ての試合でベスト10入り。かつての強さを取り戻しつつあった。

「あの時点で(新しいフォームは)まだ本当に出来かけぐらいだったけど、結果が出てきたということは、間違ってなかったということですから、粘り強く確立していきたいですね」

休む間もなく、宮古島の体育館に移動した伊藤は、ウエイトトレーニングを開始する。フォーム改造を決断した時から、欠かさず続けてきた。これが輪をかけて過酷なのだ。だが、単にパワーを付けただけでは、大ジャンプは生まれない。この合宿では、様々なトレーニングをリンクさせ、体の動かし方を理想に近づけていくことをテーマにしている。

そんな中、伊藤はチームメイトの練習にも、熱い視線を注ぐ。

「合宿じゃないと、チーム全員が揃うことは中々無いんです。葛西監督や小林陵有選手の体の動かし方とか、トレーニング方法とか、目で見て学べる絶好の機会です」

休憩時間には、映像でその日一日の、自分の動きをチェックすることも怠らない。

「体の動かし方ひとつ取っても、自分のイメージと、実際の見た目がリンクするのが理想なんですけど、すごく難しい・・・」

まだフォーム改造は、完成を見ていない。

日の長い南の島に、夜のとばりが下りてきた。合宿所の前で、縄跳びを飛び続ける伊藤。早朝からのトレーニングは、休憩を挟むとはいえ、すでに12時間近くになる。憧れの先輩たちを追いかけて、走り続けてきた日々・・・ 3度のオリンピック出場を経てもなお、伊藤有希の視線はまだ次を見つめている。

「私の競技人生の大きな目標のひとつが、フライングを飛ぶことなんです」

フライングは、ジャンプ種目の中で、最も飛距離が出る競技。記録が200メートルを越えることも珍しくない。これまでは男子のみの競技だったが、門戸を広げる機運が出てきたのだ。伊藤のフォーム改造が完成し、フライングを飛ぶことが出来たなら—

「その夢が近づいてきて、今凄くワクワクしてます」

加えて来シーズンには、2年に1度の世界選手権も開催される。かつて、2度の銀メダルを獲得したこの一戦に望むのは、唯一つ。

「ずっと追い続けている金メダルです」

わずか12歳で世界を驚かせた少女は、新たな、そして大きな夢に向かって走り出した!簡単じゃないことは、誰よりも自分が知っている。2歳年下で、今や女子のレジェンドとなった高梨沙羅も、現役続行を表明した。幼いころから切磋琢磨した仲間、そして師匠の葛西監督。

「ジャンプ台に立つのも、飛ぶのも一人なんですけど、絶対に一人ではここまで来られなかったので」

大舞台で不運に見舞われたことも、スランプに喘いだこともあった。フォーム改造への不安で、眠れない夜もあったという。だが、初めてジャンプ台を飛んだ日から、どんな時も一人じゃなかった。大切な人たちが側にいてくれた。だからこそ、あきらめずに夢を追えたのだろう。

「夢、もっとありますよ。私、こう見えて欲張りですから」

伊藤有希、28歳。女子選手としては、ベテランの域に入った。そんな彼女が形振り構わず理想を追い求め、明日も過酷な練習に身を投じていく。より高みを目指して進むその道は、きっと4年後の4度目のオリンピックへと続いているはずだ。

TEXT/小此木聡(放送作家)

関連記事