SASUKEに挑む勇者たち。御田寺圭コラム
「賢く生きる道」から背を向ける
「これが、自分の人生を賭けるに値するものだ」と心から信じて前に進んでいく。そうすることで、人の人生は変わる。
人の一生のどこかには、自分の人生を決定づける天命や天運と呼ぶなにかが与えられる。それがSASUKEだった人がいた、ただそれだけのことだ。はじまりはバラエティ番組のアスレチックゲームだったかもしれない。だがもうSASUKEは、少なくない人びとにとって「人生を賭けてでも挑みたい砦」になった。その人にとって、天運が導いた人生の問いになった。
以前の私は、お茶の間で軽い気持ちでSASUKEを視聴していたが、かれらが本当にSASUKEを中心とした日々を送って、全身全霊でこの日を迎えていたことを知り、真剣に視聴するようになっていった。自分の人生の「使いどころ」を見出して、それにひたむきな情熱を傾ける人の姿には背筋が伸びる。
私たちは「なにかに本気を出すこと」に、知らず知らずのうちに怯えて、それを回避しようとしてしまう。本気を出すことをうまく回避してさえいれば、自分の「いまの力量の限界」を知らずに済むからだ。どうあがいても勝てそうにないが、しかしそれでも挑まなければならない──そんなシーンさえ自分の人生につくらなければ、自分自身にはこれからもずっと「無限大の可能性」を信じていられるからだ。
自分自身の限界を知りたくないからこそ、あるいは自分自身が本当は(自分が期待しているほどには)大したことのない人間だという現実を突きつけられたくないからこそ、私たちはついつい「くだらないことに本気を出す人間はダサい」と斜に構える雰囲気に流され、これに同調してしまう。自分が本当にやるべき使命、つかむべきチャンスに出会ったときにすら、「スマートな自分」のセルフイメージを守ろうとして、それらを逃してしまう。
だが、真剣勝負のSASUKEプレイヤーたちは違う。「いま本気を出さない。けれど、いざとなったら本当は自分はすごいんだ」という自分のセルフイメージをずっと守っていける「賢明な道」をかれらは選ばなかった。反り立つ壁に跳ね返され、回転する丸太にしがみつけずに振り落とされる。泥水のなかに落ちて、涙を流す。山の頂にたどり着けない自分の弱さ、至らなさをそのたびに突き付けられて、それでもあきらめずに捲土重来を誓うのだ。
「賢明な道」から離れて、等身大の、期待を下回る自分と向き合い、それでも自分のすべてを賭けて挑むことを決めた者たちにこそ、人生の変化はやってくる。たまたまSASUKEがそうであった者たちの姿を、私たちはテレビ画面を通して見ることができる。心を打たれる。
自分の力量の限界を披露せず、自分にも周囲にも無限大の可能性をほのめかし続けられる「賢明な道」は、たしかに傷つかずに済むかもしれない。自分が本当は大したことがなかったのか、思っていたほどすごくなかったのか……と、落胆することもないかもしれない。
けれども、その「賢明な者」として生きる道のなかでは、自分が探し求めていた「本当の場所」を見いだせない。喩えるならば、真のエンディングに到達することのできないイージーモードだ。
至らなくても、スマートでなくても、格好よくなくても、もっといえば、その砦を生涯においてついに攻略することができなかったとしても「賢明でない道」を選んだ者にこそ、この世界はたどり着くべきだった「場所」を教えてくれる。たとえ自分が望んだ結果が得られなくても、大きく描いた夢がかなわなくても、なんらかの形で、世界は自分に報酬を与えてくれる。
SASUKEを「生きる意味」そして「死に場所」として求め、自分のすべてを賭けて挑戦してきた人びとのなかで、全ステージの完全制覇の夢をかなえた者はごくわずかだ。20年以上の歴史のなかでたった4人である。だが、その4人以外のその他大勢の敗退者たちの血と汗は無駄だったわけではない。かれらはSASUKEによって「賢明な道」を離れた結果、人生に次々と変化を起こしていった。ある者は仕事を得て、ある者は家族を得て、ある者は仲間を得て、ある者は社会とのつながりを得た。もちろん、名声や富を得た者もいた。
そしてなにより、「自分自身の存在理由」をさえを見出した者もいた。
泥だらけの勇者たち
「人生はSASUKEのためにある」
「自分にはSASUKEしかないんですよ」
「今日この日のためにすべてを捧げてきました」
──SASUKEにすべてを賭けてきた男たちが、泥にまみれながら絞り出した言葉を「たかがテレビの企画にマジになってバカみたいだな」と、嘲笑まじりに見ている人は多いのかもしれない。
だが、いまの私は挑戦者たちの姿を見て、まったく面白おかしいとは思わなくなった。むしろ私もかれらのように、自分の命を費やすべき「場所」を見つけ出したい、「本物の男」になりたい、そう思うようになった。かれらはまぎれもなく、「真のエンディングがある道」を本気で進んでいる。そこにいつかたどり着けると、本当に信じている。きっと辿りつけるだろう。
周囲の人間に、なにより自分自身に「底」を見せないことは、たった一度きりの人生で、そこまで重要なことなのか。「底」さえ見なければ自尊心は守れるかもしれないが、歩みの速度は遅くなる。かっこよく見える歩き方ばかりを気にして、少しも前に進めない。泥まみれでも、不格好でも、がむしゃらに前に進める人間が、最後には大きな果実を手にする。
もちろん、人間はいつだって勇猛でいられるわけではない。がむしゃらに頑張っているのに、努力しているのに結果が伴わないと、心が弱ってしまったり、不安になってしまうことがある。不安に駆られて、無意識的に「賢明な道」に戻ろうとしてしまうときもある。自分自身の未来に変化を求めるのをあきらめて、傷つかず変化のない場所で安楽を得ようとしてしまう。
そんなとき、年末になるとテレビの向こう側で、「賢明であることをやめた者たち」の姿が映し出される。壁に跳ね返され、崖から落ち、足場から滑り、泥水に叩き落される者たちの姿が。
仲間の成功に歓喜し、脱落に悔し涙を流すかれらの姿が、私に問いを投げかける。「お前は、悔いなく生きたいんじゃなかったのか? 賢明であることを選んだのか?」──と。
泥まみれの勇者たちの姿を見て、私はまた、進むべき道を思い出す。
「賢明な道」に背を向けて、ゆっくりと歩きはじめる。
■プロフィール
御田寺 圭(みたてら・けい)
文筆家・ラジオパーソナリティー。会社員として働くかたわら、「テラケイ」「白饅頭」名義でインターネットを中心に、家族・労働・人間関係などをはじめとする広範な社会問題についての言論活動を行う。「現代ビジネス(講談社)」「プレジデントオンライン(プレジデント社)」などに寄稿多数。著作に『矛盾社会序説』(2018年)。
Twitter:@terrakei07。「白饅頭note」はこちら。
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