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イチローは、本当に後悔していなかったのか。短すぎる人生と、アスリートへの喝采。

UPDATE 2021/11/22

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『白饅頭note』の著者であり、有料noteにも関わらず57,000以上のフォロワーを持つ御田寺圭(みたてら・けい)さんの連載コラムがスタートします。

第一回となる今回のテーマは、「短すぎる人生と、アスリートへの喝采」です。

競技アスリートに、引退は必ず訪れます。溢れんばかりの創造性を持ったとしても、それに見合った若く健やかな肉体は、少なくとも現時点で永遠には保持できないのです。

そうした事実に、御田寺さんは「怒り」を洞察します。スポーツ畑のコラムニストとは全く違う観点からの、スポーツへの愛を綴っていただきました。

■クレジット
文=御田寺圭

2021年5月――世界中で愛された漫画家・三浦建太郎がこの世を去った。

彼の代表作である『ベルセルク』は、三浦のイマジネーションの中ではすでに結末は描かれていたが、彼がどのような物語の帰結を想像していたのかは、我々にはそれを目の当たりにする機会が永久に失われてしまった。

平成期を代表する日本の野球史上最高の選手のひとりであるイチローが引退を決心したとき、彼は記者会見で「やりきった、後悔などあろうはずもない」と語っていた。だが私にはとてもそうは思えなかった。引退者らしい締めくくりの言葉を語る彼のその瞳には、はっきりと怒りの発色が見えたからだ。

彼はあきらかに憤っていた。自分にろくな出場機会を与えなくなったマリナーズの指導陣にではなく、自分が頭の中で練り上げたバッティングの技術や理論、それがただしいのか間違っているのかも検証不可能なほど、すっかり衰えてしまった己の肉体に対して。

パンデミックのさなか惜しまれつつ世を去った喜劇王・志村けん。彼は「バカ殿様」の作中で、家来を刀で脅すギャグシーンのためだけに、居合術の手ほどきを受けに行くほどの人物だ。

彼の頭の中にあった「引き出し」には、おそらく生涯いちども開けられることなく終わってしまった「芸」が、それこそ星の数ほど存在していたのではないだろうか。彼の頭の中にある創造性のすべてを私たちが見るには、彼に与えられた時間はあまりにも短かった。

芸術でもスポーツでも、それらの領域にいる「傑出した表現者たち」にとって、人間の肉体がいかに不完全なのか、人間の命がいかに短いのか、若く健やかな時間がいかに儚いのか、嘆かわしく、腹立たしく感じてしまうのではないだろうか。表現者としての自分のなかに洪水のように溢れる創造性に見合った肉体や生命がない。いくら渇望しても手に入らない。

『アンパンマン』の原作者・やなせたかしが最晩年に密着ドキュメンタリーを受けていた。ある日のやなせは悄然として語った。「毎朝起きるたび、少しずつ身体が弱っていくのがわかる。俺はもうすぐ死ぬのがわかる。死にたくない。どうして死ななくちゃいけねえんだよ。これからが面白くなっていくところなのに」と。

やなせを囲むスタッフたちは、年を取って少し弱気になっているのだなと思ったらしく「そんなこと言わないで先生、まだまだ元気じゃないですか」と励ましていたが、私はそうではないと感じた。やなせは、たんに衰えや死が恐ろしかったのではない。自身のなかにある巨大な創造性に、自分の創造性の器となっている肉体や寿命がまるで追いついていなかったことへの悲憤を、つい我慢できなくなってしまったのだ。

加藤唐九郎という稀代の陶芸家がいた。彼が死んだその日の朝に窯から出された最後の作品を見たことがあった。それは鮮やかな赤褐色と、そして際立つ橙色の光を放つ器だったと記憶している。これまでの加藤の作風とはまったく違うテクスチャーや輝きたたえた作品であった。本人としては、これまでやったことのない新しい技法を試そうとしていたものだったという。加藤はあの日の朝、死ぬつもりなど毛頭なかったのだ。加藤のなかにあった創造性を、やはり加藤の肉体や命では支え切ることができなかった。

私はスポーツのなかでも格闘技が好きである。

何年も同じ格闘家を追いかけて応援していることが多い。しかしながら、かれらはおおよそ30歳を過ぎたころから「自分の表現に見合った肉体がない」という壁に次々と直面する。大きなケガをしたり、長年の(脳への)ダメージが一気に噴出したり、気力が衰えたりと、きっかけはさまざまだが「肉体に若さがあるゆえに表現者たりえた」という人びとは、軒並み苦しくなってくる。

それを見て切なさと悔しさを感じる。どうして人間はこうも不完全な生き物なのかと。

しかし、こうも考える。人間は不完全で、しかも肉体や命に限りがあるからこそ、至高の「美」を追い求めずにはいられないのではないかと。

人間の肉体や命の健やかなる時間は、あまりにも乏しく短い。しかしそのような限りがあるからこそ、私たちはなにかを生み出そうと、文字どおり命を賭してまで必死になれるし、ときにそれは神ですら到達しえない高みにまで辿りつけるのではないだろうか。

不滅の存在である神は、たしかに人間が味わう「命の短さ」「肉体の衰え」の苦しさや恐怖や憤りからは解放されているかもしれない。しかし解放されているがゆえに、神々は人間のような時間軸で世界を見ることができない。《いま》この瞬間にこそ美しいものを作りだせるのは、宇宙全体のスケールに比べて、人間があまりにも短い時間を生きているからこその特権であるともいえる。

もしも、神が芸術家なら、また実際にこの世に芸術作品を生みだしたと仮定するならば、途方もない年月の積み重ねによってつくりだされる鍾乳洞や大樹が、あるいは天の川銀河がそうかもしれない。それらはたしかに息をのむほどに美しいことにはなんの異論もない。しかし一方で《いま》この瞬間を生きる者たちによる、圧倒的で鮮烈な火花を散らすような美しさではない。

だがスポーツはそうなのだ。途方もなく長い宇宙の時間にくらべて、わずかな時間しか生きられない人間にしか作り出せない命の輝きがある。

90歳近くなり、死の床についた葛飾北斎はある日、深くため息をつきながらこう言った。「十年、いや五年でもよいから、私の寿命を延ばしてくれたら、私はこの世で最高の絵描きになって見せるのに」と。

北斎がもし、この世で何百年も若々しいまま生きる天狗であったなら、彼の臨終前の願いはかなえられたかもしれない。

しかし、もし北斎がそのような寿命を手にしていたら、おそらく彼は、作品で見事に描いて見せたような「人間の命がいきいきと燃えるときの美しさ」にはまったく迫れなかっただろう。『富嶽三十六景』は、美しい富士の佇まいがとくに注目されるが、日本橋や仲原など、各地で《いま》その瞬間を汗して働き、懸命に人びとの姿こそが美しい。そこには北斎による「人間賛歌」があった。

しかし北斎が天狗になってしまえば、それを描くことはできなかったはずだ。途方もなく長い時間を生きる天狗にとって、人間が《いま》その瞬間を必死に生きることになぜこうもがむしゃらなのか、まったく理解できないだろうからだ。

北斎は人間であり、人間として有限の時間のなかで生きていたからこそ、ときに悔しさに身を灼かれながら、名もなき生活者たち一人ひとりのなかにある命の輝きを知り、不滅の神々では知りえない場所にある真実に辿りついた。

多くの卓越した表現者たちは、しかし自身の内なる創造性をこの世に送り出しきることができず、「未完」を残したまま去っていく。

かれらの創造性は、すでにかれらの肉体や命の《リミット》を大幅に追い越してしまっているからだ。

この事実は、ひとりの観客としてはただただ残念かもしれない。しかしかれらは「未完」の表現者を宿命づけられているからこそ、この世に多くの足跡を残すことができるともいえる。アスリートたちの息をのむパフォーマンスは、偉大な大記録は、忘れられない名試合は、私たち人間が「未完」だからこそ存在する。

私たち自身も、かれらと同じ時間軸を生きているからこそ、かれらの生み出すものによって心打たれるし、ときに人生に大きな影響を与えられる。

私たち人間の命は短い。短いからこそ、命は煌々と輝く。

この世界のアスリートは、神には生みだせない、鮮烈な光を私たちに届けてくれる。

その光に私たちは、今日も喝采を送る。

■プロフィール
御田寺 圭(みたてら・けい)
文筆家・ラジオパーソナリティー。

会社員として働くかたわら、「テラケイ」「白饅頭」名義でインターネットを中心に、家族・労働・人間関係などをはじめとする広範な社会問題についての言論活動を行う。「現代ビジネス(講談社)」「プレジデントオンライン(プレジデント社)」などに寄稿多数。著作に『矛盾社会序説』(2018年)。

Twitter:@terrakei07。「白饅頭note」はこちら。​

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