Smart Sports News

体育を赦し、スポーツと和解する。御田寺圭コラム

UPDATE 2021/12/20

  • SHARE

『白饅頭note』の著者であり、有料noteにも関わらず57,000以上のフォロワーを持つ御田寺圭(みたてら・けい)さんの連載コラム第二回。

今回のテーマは「体育を赦し(ゆるし)、スポーツと和解する」です。

「感動を与えたい」、「勇気を与えたい」。アスリートのこういった発言に強い反発心を向ける人がいることをご存じでしょうか?

御田寺さんは、その淵源(えんげん)に学校教育の『体育』による苦い経験があるといいます。そうしたスポーツ嫌いの人びとの思いに触れ、本来のスポーツのあり方について綴っていただきました。

■クレジット
文=御田寺圭

■目次

「感動や勇気を与えるスポーツ」への違和感

「感動を与えたい」「勇気を与えたい」

──マイクを向けられたアスリートたちは、しばしばこのように述べる。

実際のところ、彼らの頑張りに対して心打たれる人は少なくない。

自分にはとうてい成しえない偉業、計り知れない努力が結実したその瞬間に居合わせたとき、言葉にはできないほどの力を分けてもらえたり、日常では味わえない高揚感を味わえたりする。

あるいは、自分が偉大なアスリートと同時代人であること、同じ国に生まれたことを誇らしく思ったりする人もいる。

……だが、そうならない人もいる。

アスリートたちから感動や喜びや勇気を受け取るどころかむしろその逆で、彼らのこうした言動に強い反発心を向けることもある。

「感動を押し付けようとするな」「勇気の押し売りをやめろ」と。とりわけSNSでは、アスリートが異口同音に表明しがちなこの「感動」や「勇気」に対して辟易する人の存在がはっきりと可視化される。

ただし彼らの多くは(彼らからすれば「無神経」な言動を取っているように見える)アスリート個人のことが嫌いなのではない。スポーツのことが嫌いなのである。スポーツが「すべての人に勇気や感動を与える」ものとしての地位をいつのまにか獲得していたことに、まったく同意できないからだ。

なぜ同意できないか。

そうした人びとの「スポーツ」の原風景は、学校教育における「体育」だからだ。彼らのなかでは学校教育における「体育」と「スポーツ」が往々にして強く結びついているからこそ、スポーツが勇気や感動を、あるいは連帯感や誇りを与えてくれるものであるという、誰もがなんとなく合意しているその前提に諸手を挙げて賛同できない。

「体育」の罪

運動神経の鈍い人にとって「体育」の時間は苦痛そのものだっただろう。

そうした人にとって「体育」で行なうさまざまなスポーツの時間は、必ずしもスポーツをすることの楽しさや達成感、あるいは同級生たちとの連帯感を教えてくれるものではない。

楽しくないどころか、自分の身体能力のなさ、才能の乏しさ、集団のなかで足を引っ張る劣等感や屈辱感を、じっくりと味わわされるような時間にさえ感じてしまうことがある。

「体育」の時間において、かれらはスポーツから「勇気」や「感動」など、それこそ1ミリも与えてもらったことなどないのだ。場合によっては、自己肯定感を奪い、自尊感情を喪失させる、深いトラウマ的な体験となって記憶に深く刻み付けられていることもある。

そのような「傷」を持つ人にとってみれば、偉大な記録を打ち立てたアスリートたちが画面越しに語りかける「日本の皆さんに勇気と感動を与えることができたら、夢や希望を与えることができたら」といった言葉が、きわめて無責任で無神経で軽薄なものに思えてしまうのだ。自分がこれまでスポーツに味わわされた負の記憶を、軽く見られているかあるいは無視されているような気分になる。

称賛を浴びるトップアスリートたちは、そのような「体育」で活躍できた運動神経が卓越した人びとのなかでも、選りすぐりの傑物であることは言うまでもない。

そんな彼らの言葉は「自分のような運動神経が鈍くて、スポーツのせいでさんざんな目に遭った人のことをまったく配慮していない」ようにも見えてしまう。

運動神経の良かったクラスメイトに「お前って本当にヘタクソだな」となじられ、笑いものにされてしまった経験を持つ人は想像するよりも多い。そんな屈辱的な経験を持つ人からすれば、運動神経の優れた人たちが、「世の中にいい影響を与えている」とみなされていること自体に、ある種の腹立たしさを覚えてしまうこともある。

このような不幸は、アスリートたちの言動にデリカシーがないせいで起こっているわけではない。そうではなくて、日本人がスポーツに触れるきっかけの大部分を学校教育における体育や部活動に独占されていることによって起こっている。

体育や部活動に依然として残っている、旧態依然とした「修行道」的な考え方が、多くの人に「スポーツ=楽しいもの」ではなく「スポーツ=我慢するもの、つらいもの、できないとバカにされるもの」という価値観を植え付ける。

その価値観が少なからず浸透してしまっていることが、やる人だけでなく、見る人にも勇気や感動や連帯感や肯定感を与えるというスポーツの利点を阻害してしまう。

体育を赦し、スポーツと和解する

スポーツをこの国の大きなカルチャー、あるいは世界的なコンテンツとして盛り上げていくためには、そのマーケットの担い手である日本人に対して「体育を赦し、スポーツと和解する」道筋を可能なかぎり開いていくことが重要になる。

「スポーツ嫌い」の人を増やさない、あわよくば、たとえ自分自身がスポーツから離れても、スポーツや選手たちのことをうっすらと好きでいてくれる人を増やす──。そのための大きなヒントは、すでに現場から見出すことができる。

『慣習的な少年野球の常識を取り払ったチームが、徐々に注目を集めている。2021年から活動を開始した「練馬アークス・ジュニア・ベースボールクラブ」。練習中は罵声が飛ぶことはなく、勝利至上主義を否定する。代表を務める中桐悟さんは、時代を経てもなかなか変わらない練習への疑問から大きく舵を切った。(中略)

チームには“9つの約束”がある。「罵声や高圧的な指導を完全禁止」をはじめ、「ばっちこーい!」など野球独特の「ロジカルではない声出しは行わない」や「活動は休んでも構わない」との項目も。共働きの家庭も多いため「保護者の時間的負担一切なし」と掲げている。

引用:罵声禁止、休んでOK、保護者の負担なし… 少年野球の常識を疑う新設チーム“9の約束”
https://full-count.jp/2021/11/25/post1159834/|Full-Count|2021年11月25日

『生徒の中には運動が苦手で、運動会や体育祭が憂鬱な気持ちになる生徒もいます。大縄跳びや全員参加のリレーなどでは、自身のミスが原因で周囲に迷惑をかけてしまうこともあり得ます。「クラス対抗」の場合、そうした失敗でクラスの仲間から責められ、人間関係にひびが入ることもあります。

「全員が楽しむ」ためには、運動が苦手な子にも居場所を作る必要があります。もし「クラス対抗」の形で勝敗を意識すれば、勝ったクラスを除く大半の生徒は悔しい思いをし、運動が苦手な子は肩身の狭い思いをします。当然、「全員が楽しむ」ことなどできません。

その点で、3年生が自分たちで、それまでの体育祭とは異なる形を自ら考え、選択し、クラスを解体して、「1日限りのチーム」で競い合い、終わったらそこで解散という仕組みを考えて実行したことは、とても素晴らしいことでした。これでどの生徒も喜びを感じることができて、悔しさがあっても、後を引くことはありません。

引用:『すべての組織改革のヒントになる「千代田区麹町中学校」の変革【第4回】
「競争しない体育祭」の成功から考える…目標の在り方とは?』
https://gentosha-go.com/articles/-/20541|幻冬舎GOLD ONLINE|2019年3月27日

「体育」や「部活動」の在り方を批判的に再構築し、とりわけ運動が得意でない人が植えつけられがちな、スポーツに対する「負」の経験を取り払っていく。そうすることで、スポーツの持つエネルギーやアスリートたちが届けようとする想いを、わだかまりなく受け取れる人はきっと増えていく。

多くの人にとって、人生で初めてスポーツに触れる機会が「体育」であることは、おそらくこれからも変わりはない。「体育」は、「運動が得意な子どもたちだけがなんのストレスもなく楽しく過ごせる時間」であり続けてはならない。

「体育」の教育が往々にしてスポーツに結びつけてしまうネガティブな側面を、社会全体(とりわけスポーツにかかわる人びと)が意識を向けてこれを改革していくことで、スポーツは人びとにとってより身近で親しいものになり、より感動的なものになっていくだろう。

「スポーツの素晴らしさ」は、「卓越したヒーローが勇気や感動や夢や希望を語る」以外の方法でも、人びとに伝えることができる。

「スポーツ」は決して敵ではなく、本来はすべての人にとって生涯の友となりうることを、私たちは思い出さなければならないだろう。

■プロフィール
御田寺 圭(みたてら・けい)

文筆家・ラジオパーソナリティー。会社員として働くかたわら、「テラケイ」「白饅頭」名義でインターネットを中心に、家族・労働・人間関係などをはじめとする広範な社会問題についての言論活動を行う。「現代ビジネス(講談社)」「プレジデントオンライン(プレジデント社)」などに寄稿多数。著作に『矛盾社会序説』(2018年)。

Twitter:@terrakei07。「白饅頭note」はこちら。​

■関連記事

  • SHARE