菊池康平。「1勝14敗」の元ボリビアリーガーが説く、挑戦の価値。

今回は元ボリビアプロサッカー選手・菊池康平さんのインタビューです。菊池さんは大学時代から世界各国のサッカーチームのトライアウトを飛び込みで受ける「道場破り」を続け、その国数は15ヶ国に上ります。その中でついに2008年には南米・ボリビアでプロ契約を勝ち取り、1年間プレーされました。異国の地で体験した壮絶なエピソードと諦めずに挑戦を続ける菊池さんのチャレンジ精神に注目です。

海外挑戦に至るまでの経緯

-まず菊池さんのスポーツ経歴を教えてください。

幼稚園の時に初めてサッカーに触れました。当時の記憶はないので親に聞いたのですが、サッカーをやっている人のユニフォームを見て、格好いいと言ったらしく、そのウェアを着たくて始めたようです。

小学生になってからチームに入って本格的にサッカーをやるようになりました。幼稚園の頃からボールに触れていたこともあって、人よりうまくできたのが楽しくてその後も続けました。ちなみにJリーグが開幕したのもその頃です。

他のスポーツは親がテニスをしていたので、半ば無理矢理連れて行かれてやったことはあります(笑)あとは通っていた小学校が何か部活動に入らないといけない学校だったのですが、僕は中学受験のために勉強する時間を作る必要があり、活動日数の少なかった卓球部に所属していたこともあります。

中学の時は当初サッカー部に所属していましたが、目が悪くなったので、サッカーからは一旦離れ、陸上をやっていました。でも隣でサッカーをやっているのを見ると我慢できなくて結局戻ることにしました(笑)サッカー部に戻るわけにもいかなかったので、元Jリーガーが教えるクラブチームに入りました。コーチがプレーを実際に見せてくれるので分かりやすかったですし、上達もしましたね。同時にユースチームのテストを受けたりしました。そのクラブチームもユースのテストも新聞や雑誌などをチェックし、自分で調べて行きました。

-当時から行動力があったんですね。

行動はしたものの、ユースのテストはなかなか受かりませんでした。ようやく6、7チーム目に受けたFC町田ユースというところに受かることができて入りました。しかし、チームが全国大会などに出場している中で、高校1年の僕はベンチにすら入れず、試合にほとんど出られませんでした。高校2年では試合に出られる環境に行きたいと思ったので、また自分で調べて柏レイソル青梅というチームを見つけてきました。既にセレクションは終わっていましたが、電話で交渉して練習に参加させてもらい、自分を売り込んで入れてもらいました。高校3年では大学受験に向けて勉強する必要があったので柏レイソル青梅をやめ、最後の1年間だけ学校のサッカー部に所属することになります。

-クラブチームと部活、両方のいいところを見て、うまく選択されてきたんですね。

部活は中学の時に少しと高校3年の時だけなので、クラブチームでプレーしていた期間の方が長いです。僕は環境を選択したことが功を奏して無事に進学できましたが、反面受験を理由に途中でクラブチームをやめないでいたらもっとうまくなれたかもしれない、という思いはあります。でも浪人してその期間サッカーができなくなるのは僕にとってマイナスになると考え、自分で決めました。

進学した大学のサッカー部はスポーツ推薦の人を中心に入部させていましたので、大学入学前に高校の先生に大学で練習参加が出来る様にお願いして、参加出来ることになりました。しかし、他の部員とのレベルの差を感じていました。特にボールを止める、蹴るの精度が周りは非常に高いと感じました。これでは4年間試合に出られずに終わる可能性が極めて高いと思ったので、結局入部はしませんでした。

それでもサッカーを諦められなかったので、バイトをいくつも掛け持ちしてお金を貯め、大学1年の夏にサッカーをするために海外挑戦1ヶ国目となるシンガポールに行きました。この時のみ留学コーディネート会社に頼んで渡航しました。

-ついに菊池さんの海外挑戦が始まったわけですね。

シンガポールでは様々な国の選手と話し、知られていないだけで世界各国にリーグがあるという情報を聞きました。昔から自分を売り込むということをしてきたので、言葉さえ少し覚えられればどこにでもいけるのではないかと考えるようになっていったんです。

そこから大学に通いつつ、アルバイトをし、社会人チームで練習をさせてもらいながら、長期休暇の度に海外に行くようになりました。

-菊池さんは大学卒業後、人材関係の会社に入社されています。サッカーだけにこだわることもできたと思いますが、就職した理由を教えてください。

正直ずっとサッカー選手を目指してきたので、就職活動の時期が来ても何がしたいのか分からないままでした。就職活動が始まるギリギリまで海外のテストを受けに行っていたので、志望する会社も何も決まっていないままだったのですが、サッカーと同じでまずは行動することが大切だと思い、80社ほど選考を受けました。その人材関係の会社は社長さんの話が面白く、何かやりたいと手を挙げた時にやらせてくれそうだと感じたので選びました。人材業界のことについてはほとんど知らないままでしたね(笑)

-サッカーをそこでやろうとは考えなかったのでしょうか。

本当はもうサッカーをやめようと考えていました。みんなが卒業旅行で海外に行っている間も海外にテストを受けに行ったりしていたのですが、そこで受からなかったらやめるつもりでした。

当初はスポーツメーカーなどへの就職も考えていましたが、そうなると周りも当然体育会系出身者ばかりです。僕の中では就職してサッカーから離れるということは第2の人生を歩むことだと考えていた部分もあったので、これをきっかけに違うタイプの人と接するような仕事を探しました。

-次に挑戦する国を選択する上での基準はあるのでしょうか。

当たり前ですがその国にサッカーのプロリーグが存在しているのか、またシーズン中なのかどうかは調べました。行ってみて練習も試合も何もやっていないというのが一番悲しいですからね。

-チームと事前にコンタクトを取ったりはしなかったのでしょうか。

当時は取りませんでした。まずはとりあえず行ってみます。現地のサッカー協会に行ってチームのリストをもらい、電話していきました。行ってから初めて実はシーズン中ではないということを知る時もありました。今はインターネットが発達していて、チームもそれぞれfacebookページを持っているケースが多いですが、当時はまだありませんでした。ホームページも協会のものはありますが、チームのものはないところも多かったので、昨年のリーグスケジュールを見て、やっている時期を探ります。あとは現地に直接行ってみてどうか、という感じです。フィジーには2回行きましたが、いずれも試合や練習はやっていませんでした(笑)

菊池康平

2008年にボリビア・サンタクルス1部リーグ、ウニベルシダと契約

-そうして世界各国で挑戦する中でボリビアではプロになることができたわけですね。

ボリビアでプレーをするために会社を1年休職しチャレンジしました。約束だった1年後には日本に戻りました。

海外で強いられた過酷なサッカー生活

-ボリビアは旅行者の間では※ウユニ塩湖が有名だったりはするものの、なかなか日本人には馴染みのない国だと思います。

※ウユニ塩湖:ボリビアの西にある塩湖(塩原)。雨季には雨水が薄く溜まり、大きな水溜りとなって鏡のようになる。それが空を写し出し、絶景が広がる。テレビなどでも紹介され話題となった。

そうですね。でも実は僕、ウユニ塩湖には行っていないんです。2週間ほどオフもありましたが、ボリビアが本当に嫌で外に行きたくなってブラジルに行きました。「苦手なもの」の欄に”ボリビア”と書く位です(笑)やはり始めのうちは差別的なことを言われたりもして、精神的にしんどかったからですね。しかし今になって1年もボリビアにいたのにウユニ塩湖に行っていないのはもったいなかったと思います。

-ボリビアだけでなく、他の国でも差別を受けることはあったのでしょうか。

ありましたね。でもアジアはほとんどありませんでした。むしろ好感を持ってくれるところが多かったです。例えば浜崎あゆみさんやGLAYの歌を知っている、といった文化面での交流があるので、興味を持って話しかけてくれることもありました。

一方、ボリビアを始めとした南米は日本についての情報があまりないのだと思います。それで何となく日本人をバカにしてきたり、得体が知れないので警戒心が強く、疎外するためにいじめのようなことをしてきたりもしました。例えば練習が終わると着替えが水で濡らされていて、その時は仕方なく汗だくの練習着のままか上半身裸で帰りました。また、ボリビアは南米の中でも最貧国の1つなので、日本からわざわざ何をしに来たのか、その飛行機代があるなら、親にあげろと言われることもよくありました。

半年ほど経ってようやく僕が遊びに来たのではなく、真剣にサッカーをしに来たのだと理解してもらえるようになりました。半年くらい、あえて毎日同じスパイクや練習着を着たりもしていました。そのせいでチームメイトに僕が本当に貧しくて困っているやつだと思われたらしく、みんなから少しずつ集めたお金を渡されて新しいスパイクを買ってこいと言われたこともあります(笑)本当は新しいスパイクを持っていたので、断りましたけどね。でもそうして最終的には仲間になることができました。

-全く違う文化や言葉、人種の国で認めてもらうためには様々な努力が必要なんですね。

もちろんサッカーのスキルがあればすぐに認めてもらえたのかもしれませんが、会社を休んで参戦しているブランクだらけの僕にそこまでの力はなかったので、仲間になるには必要なことだったと思っています。

あとは言葉の壁です。僕が悪いのですが、ボリビアだけはスペイン語だったので、言葉が全く通じませんでした。数字すら知らなかったので、練習時間が分からず、クラブハウスの前で朝から待っていたこともあります。常に辞書を持ち歩いて選手に質問しながら少しずつ学んでいきました。今でも読み書きはできませんが、話すことはそれなりにできます。他のアジアやオセアニアの国は英語だったので問題なかったです。

-言葉の通じない人とコミュニケーションを取る上で工夫していたことはありますか。

自分から積極的に接点を持つようにすることです。例えばいきなり日本の歌を歌え、などといった無茶な要求をされたりもしましたが、やらなければそこでコミュニケーションは終わってしまうので、とりあえず応えていくようにしました。

-日本より厳しい環境の中でプレーを続けるモチベーションはどのようなところにあったのでしょうか。

気持ちの面で強くなりたかったからです。成長して強くなるためには厳しい環境に身を置くことが大切だと、大学1年の時に初めて行ったシンガポールで学びました。若いうちにそれを感じることができたのはその後の行動に活かされていったので大きかったです。

あとはなかなか契約できず、失敗が多かったというのもあります。早い段階で契約できていたら挑戦をやめていたかもしれません。たくさん積み重なった悔しい思いが原動力になったと思います。

菊池康平

-様々な場所でプレーされてきたと思いますが、国によってサッカースタイルの違いを感じることはありましたか。

オーストラリアのサッカーは自分とは合いませんでしたね。どの選手も背が高く、体が強いのですが、足元の技術的なプレーがあまり得意ではありません。自分もそういったタイプの選手なので、現地の選手とプレースタイルが被ってしまい、チームは外国人枠で僕を獲る理由がありませんでした。

一方で合っていたのはプロになることができたボリビアです。身体の大きさの面では自分も勝負することができました。反面、トラップなどボールを扱う部分はうまいですし、球際の激しさなど気持ちの強さがあります。でも激しくヘディングをする様な長身の選手は少なかったので、僕のプレースタイルは活きたのだと思います。

-そうなると挑戦する先のサッカースタイルも重要になってきますね。

ただ僕がボリビアでプロになれたのは運がよかったからだと思っています。

僕はパラグアイでチャレンジしてからボリビアに入ったのですが、パラグアイでは田舎の方にいてお店が少なく、ご飯をあまり食べられていませんでした。しかしボリビアに入ってからはお店が選べるほど多くあったので、嬉しくなってたくさんご飯を食べてしまったんです。そのせいで食中毒になり、入院することになったのですが、もう既にアポイントを取っていたチームがあり、今日来ないと練習参加をさせないと言われてしまいました。

たまたまその日は練習試合で、僕は腹痛に耐えながら出ることにしました。でもなぜか自分のサッカー人生の中でも最高にいいプレーができたんです。それを偶然オーナーが見てくれていて、勘違いしてくれたおかげで契約することができました(笑)

【後編】へ続く

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