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早川周作(琉球アスティーダ)。スポーツ経験ゼロの社長が、卓球界に起こす変革。

卓球のプロリーグ「Tリーグ」が、2018年10月24日(水)に両国国技館で開幕した。各地域を“ホーム”として男女ごとに4チームを作って始まるこの新たなプロリーグには、世界中の強豪選手も参戦することが決定している。

その参戦チームの1つである、沖縄を本拠地とする琉球アスティーダの社長を務めることとなった早川周作氏は、スポーツ経験を持たず、学生時代からビジネスに尽力してきた。スポーツ業界にとって異色とも言える早川氏は、なぜプロスポーツクラブの社長に就任したのか。

就任の背景にある学生時代の経験と、沖縄という土地柄を生かしたスポーツビジネスへの挑戦に迫った。

Jリーグの社長になる可能性もあった。

–琉球アスティーダの社長に就任するにあたって、日本の卓球界にどのような印象を抱いていましたか?

もともと私はコンサルティング業務を担っていて、ベンチャー企業の支援を行ってきました。その後、沖縄へと移住しました。

様々な活動をしていたのですが、その1つに琉球大学の非常勤講師もありました。そこでたまたま松下浩二さんという卓球界のレジェンドとお会いする機会があったのですが、松下さんは「10代半ばでメダルを獲得できる可能性があり、貧富の格差が拡大する中でも、お金をかけずにスターになれるスポーツは卓球以外にありますか?」という話をしていたんです。

私は大学3年で会社を創業して、25歳の時にその会社を離れ、それから2年半くらいは元総理大臣のもとで勉強をしていて、衆議院の総選挙に出馬しています。なぜ出馬したかといえば、強い地域、強い力に光をあてるのではなく、弱い地域、弱い力に光を当てることが社会において重要だと考えていたからです。

スポーツでいえば、わずかな面積や費用でチャレンジできる卓球は、光が当たるべきだと感じました。

–**卓球は日本人が世界で結果を残しているという意味でも、光が当たるべきだと感じたのでしょうか?**

中国があれだけお金をかけて選手を育てているにも関わらず、日本の選手は世界ランクの上位に数多くランクインしています。中国やドイツにはプロリーグがありますが、日本はプロリーグがない中で上位にいて、東京五輪でもメダルラッシュが期待されているんです。

また、沖縄は他のアジア諸国にも近い地域です。私たちが獲得した荘智淵選手は、台湾代表として現地で高い人気を誇っています。台湾と沖縄は1時間くらいで行ける距離ですし、上海や香港にも非常に近いです。

そういった意味で、沖縄はアジアの有能な選手を獲得しやすい環境にあります。綺麗な海を見ながら、ゆったりとした環境で卓球を楽しむこともできます。

地方の活性化や、アジアとのパイプ作りもできますし、スポーツにおいて光が当たっていない沖縄にチャンスを与えることもできる。そう考えた時に、すごくやりがいがあると感じて引き受けることになりました。

–早川さんはもともとスポーツの経験はお持ちだったのでしょうか?

正直にいうと、スポーツには全く関心がありませんでした。ただ、今まで培ってきた自分のノウハウを少しでもスポーツに役立てられないか、とは考えていました。

実はJリーグの社長になるという話も随分前に来ていて、その時はあまり前向きに考えられませんでしたね。それでも、40歳を過ぎて、周りの子どもたちが成長する姿を見てきた中で、スポーツは非常に地域社会と密接で、地方を活性化しますし、海外とのコミュニケーションを図っていくツールとしてもすごく有能だと感じていました。

そのタイミングで先述したように松下さんに出会うことができて、今に至っています。卓球界の人間だけでなく、元ハンドボール日本代表キャプテンの東俊介さんや、元競輪選手のメダリスト長塚智広さん。そして3500億円規模の「さわかみファンド」を作り上げた仲木威雄さんなど、様々な業界の方を役員に据えています。

スポーツビジネスは儲からないというイメージを払拭する意味では、他の競技の考え方や、企業の仕組みなども取り入れた上で、スポーツの価値を上げていかなければなりません。

苦悩の末の大学進学から企業、そして沖縄へ

–学生時代はどのような生活を送っていたのでしょうか?

中学まで地元の秋田で過ごしていて、地元の高校に進学を希望していましたが、どの高校にも受かることができませんでした。その後、やはり高校に行きたいという思いが強く、高校浪人をして夏から猛勉強を始めました。

結果的には偏差値が30から70ぐらいまでに上がって、当時通っていた予備校の先生に、千葉の志学館高校という進学校を紹介していただき、秋田から関東に出てきました。

大学では医学部を目指していました。しかし大学受験直前で「父親が会社を潰していなくなった」という報告を受けました。秋田に戻ってみたら、家のガラスが割れたり、冷蔵庫に差し押さえの紙が貼られたりしていて、進学どころではない状況でした。

弁護士に相談に行きましたが、その時になぜ社会基盤は、強い地域や強い力にだけ働いて、弱い地域や弱い力には働かないんだろうと感じたんですよね。セーフティネットと言いながらも、光の当て方が違うのではないかと。

–**かなり壮絶ですね。その後、どのように大学に進学したのでしょうか。**

私は、父親の会社が潰れた時に弁護士に助けてもらって、本当に世の中で困った人を助けられるのは弁護士だと感じました。それをきっかけに、弁護士を目指すことを決めました。

その後は大学進学のために上京して、新聞配達のアルバイトで資金を貯めて、明治大学の夜間の法学部に入学しました。理由は、1番学費が安く法律の勉強ができるからです。

大学に通いながら法律事務所に勤務をしていて、その事務所の弁護士の中に、元検察で参議院議員も兼務している佐藤道夫さんという方がいました。佐藤先生は他界されましたが、オウム真理教事件の時にずっとテレビに出ていて、検事であるにも関わらず、NHKでドラマ化もされていました。

その姿を見て、法律家を目指しながら、政治家にもなりたいと考えました。大学1年生で議員会館に足を運びました。

–**大学在学中に会社を立ち上げたと聞きましたが、もともと起業に興味があったのでしょうか?**

勤務していた法律事務所の投資家から「サラリーマンになるよりも、自分の手で会社を設立してみないか」という話があり、5千万円の出資を頂き会社を設立するに至りました。

3年くらいでその会社は売却して、金銭的な余裕もできたので、その後は2年半勉強をして、28歳で衆議院議員にチャレンジしました。

–**そこから沖縄に移住することになった経緯を教えてください。**

東日本大震災の翌々日に、さわかみファンドの澤上さんと一緒に沖縄でセミナーをする機会がありました。地震による被害が心配だったので家族も連れて行って、セミナー後も家族で沖縄に40日間滞在していました。

その時に最初の1週間は楽しかったものの、だんだんとやることがなくて飽きてしまって。知人に会ったら「良いマンションがある」と言われてマンションを買ってみたり、事業会社を買ってみたりしていたのですが、それから沖縄での生活が楽しくなって、家族にも許可を得て沖縄に移住することを決めました。

早川周作氏

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