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【テキスト版】CROSSOVER「スポーツコンピテンシー」深堀圭一郎×荻原健司

リレハンメル五輪で個人戦4位と不本意な結果。学んだのは闘志の大切さ!

深堀:健司さんは、1992年に開催されたアルベールビル五輪のノルディック複合の団体戦で、金メダルを獲得。個人と団体で競技に挑む考え方は違うのでしょうか。

荻原:団体戦で勝利するには、チームの雰囲気が重要ですね。そして、全員が同じ目標を共有してトレーニングをする必要があります。

深堀:チーム力が大切なんですね。当時はスタッフも含めてよい関係が築けていたのでしょうか?

荻原:選手が疑問に感じたことをトレーナーに伝えられる環境でしたし、的確な回答も得られましたから。当時の日本チームには「風通しのよさ」がありました。

深堀:個人では92年からワールドカップ3連覇、世界選手権でも93年に個人と団体で優勝という快挙を成し遂げています。94年にはリレハンメル五輪もありましたが、モチベーションやコンディション面はどうでした。

荻原:どれが上というのはなく「全部のタイトルを獲りたい」と思っていました。

深堀:そういう意味では、リレハンメル五輪は満を持して臨んだ大会でしたか?

荻原:実は勝つことに慣れてくる中で「油断」が生じた部分があったと思います。例えば、どんなスポーツにも「朝何時に起きて会場に向かい少しずつ練習行う」みたいな大会を迎えるまでのルーティンがありますよね。当時、私にも「勝てるルーティン」がありました。そして「これを守れば大丈夫」と考えてしまったんです。それが失敗で、団体戦は2連覇できたものの、個人戦は4位に終わりました。「絶対に勝ちたい」という闘争心が失われていたと思います。競技では淡々とルーティンをこなすのではなく、常に「勝つんだ」というファイティングスピリットが絶対に必要です。これを忘れた瞬間に「負けること」を強烈に経験しました。

深堀:リレハンメル五輪後はジャンプで先行してクロスカントリーで逃げ切るスタイルの日本にとって不利なルール変更も行われました。そんな状況で、97年の世界選手権のトロンハイム大会で、見事に勝利。あのときは、どんなレースだったのでしょう。

荻原:私自身は調子がよくなかったんです。しかも、リレハンメル五輪で守りに入って負けた苦い経験もありました。そこで、順位ではなくベストパフォーマンスを出すことだけに集中したんです。

深堀:翌年に開催予定だった長野五輪に向けては、どのような気持ちだったのでしょう。

荻原:難しかったですね。ワールドカップ転戦の中で「今の自分に以前の勢いがない」と感じていましたから。しかも、1年後に今以上のパフォーマンスが発揮できるか不安もありました。それでも、オリンピックの個人戦で金メダルが獲れていなかったので「何とかしたい」と。長野五輪では個人戦の金メダルが大きな目標でした。

深堀:結果的には、個人戦が4位、弟の次晴さんと出場した団体戦が5位で惜しくもメダルには届きませんでした。しかし、兄弟揃って入賞するなど成果を残されたと思います。その後、弟の次晴さんは引退されたわけですが、健司さんが現役続行を決めた理由は何だったのでしょうか。

荻原:実は長野五輪が終わった翌日の新聞で弟の引退を知ったんです。驚いて本人に確認しました(笑)。このときに「自分の引退時期」についても真剣に考えるようになって。長野五輪でメダルを獲れなくて「スキーをやりたくない気持ち」もありましたから。しかし、本当にこのまま引退していいのか、と冷静に考えたときに辞めたい理由が「スキーが嫌になったから」でした。楽しくて始めたスキーなのに嫌いになって投げ出すのはダメだなと。ここで引退したら、いつか後悔する。やはり「スキーをやってよかった」という気持ちで辞めたいと思いました。そして、次のソルトレイクシティ五輪で、すべてを出し切り「自分の競技人生の集大成にして引退しよう」と決めたんです。

深堀:実際に、健司さんは02年のソルトレイクシティ五輪に出場されました。残念ながら、メダル獲得とはなりませんでしたが、同年のシーズンが終了時に引退。当時の心境はどうでしたか。

荻原:「これでいい」という感じで、卒業式を迎えたような気持ちでしたね。少し寂しさもありましたが「アスリートとして実践すべきことは全部やった」という充実感に溢れ、晴々した瞬間でした。

深堀:そういい切れる人は少ないと思います。すべてを「やり切った」という言葉には本当に重みがあります。今回は貴重なお話をありがとうございました。

▼荻原健司/おぎわら・けんじ

1969年12月20日生まれ、群馬県出身。スキーノルディック複合で4度オリンピックに出場、団体戦では2大会連続で金メダルを獲得。現在はジュニアの育成に力を注ぐ。

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