
「スポーツコンピテンシー」とはビジネスで用いられる「コンピテンシー=成功者に見られる行動特性」をスポーツに当てはめたもの。
そんなトップアスリートが兼ね備えたスポーツで結果を残す秘訣や人生を成功に導くヒントに迫ります。
第3回のゲストは大畑大介さん。
※敬称略
為せば成る…この言葉が少年時代からの柱。小柄のハンデは快足を磨いて克服
深堀:ラグビー元日本代表の大畑大介さんをゲストにお招きして、いろいろ伺っていきます。大畑さんは、小学校3年生からラグビーを始められたんですよね。
大畑:はい、当時は男子小学生の多くは野球をやっていたんですね。住んでいたのが大阪で、みんな阪神タイガースを応援する(笑)。僕はそれが嫌でした。しかし、子供なので友達は欲しかった。そこで、自分から輪の中に入らなくても「興味を持ってもらえる人間になれれば友達ができるかも」と思って、何か違うスポーツを、と考えました。ラグビーを選んだのは、父が経験者で実家が花園ラグビー場に近かったからです。実際に通ったラグビースクールは家から少し離れた場所で、もともとの知り合いはいませんでした。しかし、最初の練習で走ったとき、チームで一番俊足の選手より僕のほうが速かった。その瞬間に、みんなが振り向いてくれました。ラグビーが自分の居場所だと実感しましたね。
深堀:大畑さんは、少年時代から「為せば成る」という言葉を自分の柱にされているそうですが。
大畑:僕は少年時代、自分をラグビーの天才だと思っていたんです(笑)。しかし、中学生ぐらいのときに、成長期に伴う足の痛みを発症して走れなくなって。このときに自分を見つめ直したんですね。すると、足が痛いから仕方ない、みたいに「頑張らなくていい理由」ばかり探していることに気付きました。そして、頭の中に「為せば成る」という言葉が浮かんできて。今自分にできることを「どれだけやれるか」が大事だと。
深堀:成長過程で伸び悩むことは、どんなスポーツでもあると思います。大切なのは、その状況下で「自分を見つめ直せるか」だと感じますね。大畑さんは、その後は地元の東海大付属仰星高校に進学してラグビー部に入部されました。ここでもレギュラーの座をつかむまでに苦労されて、高校の日本代表から落選した経験などもあると伺ったのですが。
大畑:高校の日本代表に落選したときはショックでした。「体が小さいから代表に選べない」といわれたので…。しかし、同時に「君のラグビーの実力は評価している」といっていただいたので救われました。それなら「評価されている部分を伸ばしてハンデを打ち消そう」と考えたんです。強みである足を活かして「誰よりも速く走ってトライする選手」を目指すため練習量も増やしましたね。
深堀:大畑さんは、京都産業大学に進学すると快速プレーヤーとしてラグビー部でご活躍され、日本代表にも選出されました。当時、日本代表の監督だった平尾誠二さんから、さまざまな叱咤激励があったそうですが。
大畑:当時の僕は、選手としてのクオリティは高くなかったと思います。平尾さんからも「バランスの悪いいびつなところがあるけど、ハマッたときにビッグプレーをする選手」という評価で「いびつさを取ったら魅力はない」といわれていました。起爆剤になるという理由で、日本代表に選ばれたのだと思いますね。ところが、1997年に大怪我をして。その結果、本来は「大胆なプレーが売り」なのに、評価を下げないために無難なプレーばかりするようになって輝きを失いました。
深堀:立ち直るきっかけは、あったのでしょうか。
大畑:98年のワールドカップの予選が始まる前にアルゼンチンとの試合があり、このときに平尾さんから「どんなプレーヤーになりたいか自分で考えてグラウンドで表現しろ」といわれたんです。この言葉で「逃げずに持っているものをすべて出そう」と思いました。結果的に試合でもいいパフォーマンスができ、ここから日本代表に定着できたんです。
深堀:大畑さんは、99年にワールドカップ・ウェールズ大会に出場されました。そのときはどうでした。
大畑:僕の中では「いきなり成果が得られる」とは思っていませんでした。ウェールズ大会は、出場経験を積んで、そこから4年間を充実したものにして、03年のワールドカップ・オーストラリア大会を「集大成にしたい」と考えていたんです。
深堀:それでも、大畑さんは予選リーグのウェールズ戦でトライを奪いました。まさに、大畑大介の名を世界に轟かせた瞬間だったと思いますが?
大畑:インパクトを残せたと思いますが、自分は「まだまだ未熟」という思いの方が強かったですね。実際に、チームは1勝もできず予選リーグ敗退ですから。もっと成長しなければ、ワールドカップでは通用しないことを痛感しました。
深堀:敗退はしましたが、学ぶことも多かったわけですね。
アキレス腱を断裂しても前を向く。こだわりと諦めの悪さが自分の原動力!
深堀:大畑さんは、オーストラリアとフランス、2つの海外チームでプレー経験がありますよね。当時は海外でプレーすることに、どんな思いがあったのでしょうか?
大畑:1999年のワールドカップの時に自分が全然通用しなかったので成長が必要だと感じました。それで「環境を変えれば大きなものが得られるのでは」と思ったんです。
深堀:海外と日本で違う点はなんでしょう?
大畑:一番は「自分が外国人」というのを思い知ったことです。日本でプレーしていたときは、与えられた環境の中で、自分のパフォーマンスが安定していれば試合に出場できました。しかし、海外では外国人出場枠を争うことになります。オーストラリアでは、最初は順調に出場できたのですが、突然出られなくなったんです。チームに怪我人が出て、外国人枠がフォワードの選手で使われることになって。さらに周りの選手は「大畑大介」を知りませんから、信頼を得なければボールも回ってきません。僕はタックルなどの「ボールを持たないとき」のプレーが苦手だったんです。しかし、克服しないと試合へ出場できない環境に身を置いた結果、徐々にできるようになりました。自分の成長という面では「ボールを持たないときのプレー」が身についたのが大きかったです。
深堀:大畑さんは、海外クラブに移籍するなど、プレーヤーとして研鑚を積みながら、03年のワールドカップを迎えられました。当時コンディションは、どのような状態だったのでしょうか。
大畑:世界的なレベルで「自分たちがどの位置にいるのか」感じられる経験値はなかったですね。個人としては、海外で試合に出場できない期間が続く経験をしたので「気持ちの作り方」が上手くなったと思います。
深堀:ゴルフの場合は、海外に行くと外国人選手の一打に対する執着心のすごさを肌で感じることが多いんです。ラグビーにも、そのような印象はあるのでしょうか。
大畑:日本の場合、当時は社会人ラグビーですから、企業の社員という立場です。一方、海外は「一つ一つのプレーでご飯を食べている」ため、そこのテンションは大きく違いました。契約を勝ち取るという、プロ意識の面で刺激を受けましたね。
深堀:厳しい経験をされて、03年のワールドカップに挑まれたわけですが、結果は前回と同じで4戦全敗でした。この成績は、どのよう受け止めていたのでしょう。
大畑:99年と比べれば、プレーヤーとしては成長できた部分も感じたのですが、勝てなかったことが、すごく悔しかったですね。
深堀:終了後、目標をすぐに07年のワールドカップに切り替えられたのですか?
大畑:難しかったですね。03年に対しての想いが強かったので。僕はスピードが命の選手ですけど、そのころからアキレス腱の調子も悪くなっていましたから。
深堀:それでも、大畑さんは国際テストマッチなどでトライを重ねて当時の世界記録(通算65トライ)を達成されました。最終的に69まで伸ばしますが、トライに対して特別な想いはあったのでしょうか。
大畑:ラグビーにはさまざまなプレーがありますが、僕に与えれた役割は「トライすること」だと思っていました。自分の使命と信じてプレーしていましたね。
深堀:ワールドカップイヤーの07年には、31歳で右足のアキレス腱を断裂する大怪我をされています。そのときに「これまでか」という気持ちにはなりませんでしたか。
大畑:正直、アキレス腱が切れたときは、それほど落ち込みませんでした。すぐにドクターのところに行って「どれぐらいで間に合うか」話をしていたんです。最短なら「半年で復帰できる」と聞いて、それならワールドカップに間に合うと思ったんです。このとき、完全に気持ちを切り替えました。しかし、ワールドカップの2週間前の試合で今度は反対の足のアキレス腱を断裂して、さすがに出場を断念。応援する立場で大会を迎えました。
深堀:それは本当に大変な状況だったと思います。最後にお伺いしたいのですが、成功しているスポーツ選手は「執着心」を持っている人が多いと思うのですが、大畑さんはその辺りはどう思いますか。
大畑:自分たちの強みを出すために、どんな「こだわり」を持つのか、だと思います。「こだわること」がすごく重要ではないでしょうか。僕自身も「諦めの悪さ」が自分の唯一の才能だと思っていますから。
深堀:何度でも挑戦する「諦めの悪さ」は大切ですよね。そんな「執着心」が成功をつかむために欠かせないと改めて感じます。今回は貴重なお話をありがとうございました。
▼大畑大介/おおはた・だいすけ
1975年11月11日生まれ、大阪府出身。ラグビー元日本代表。93年、03年にラグビーワールドカップに出場。11年に現役引退、16年にはラグビー世界殿堂入り
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