
「スポーツコンピテンシー」とはビジネスで用いられる「コンピテンシー=成功者に見られる行動特性」をスポーツに当てはめたもの。
そんなトップアスリートが兼ね備えたスポーツで結果を残す秘訣や人生を成功に導くヒントに迫ります。
第5回のゲストは野村忠宏さん。
※敬称略
中学生のころは女の子に負けた経験も。大学時代に練習の質を変えトップレベルまで飛躍!
深堀:今回から柔道の日本代表として、オリンピック3大会連続金メダルの偉業を成し遂げた野村忠宏さんにお話を伺います。野村さんは柔道一家で、祖父が営む道場で3歳から柔道を始められたそうですね。
野村:はい、柔道は生活の一部でした。しかし、両親や祖父からプレッシャーは一切感じませんでしたね。「試合に勝て」ともいわれず柔道を楽しめる環境でした。
深堀:子供のころは女の子に負けた経験があると聞いたのですが。
野村:事実です。中学1年生のときに市民体育大会で負けました(笑)。実は中学校へ入学した当時、体重が32㎏、身長も140cm程度しかなかったんです。柔道の場合、中学校の最軽量級で55㎏以下ですから23㎏近く足りない状況です。それでも自信を持って臨んだのですが、結果は女子選手に1回戦で負けて、柔道人生で初の挫折を味わい「強くなりたい」と心から思いました。
深堀:高校は当時お父様が柔道部の副部長を務められていた名門の天理高校を選ばれていますよね。
野村:実は中学時代に思うような結果を残せなかったので、進学の際に迷いもあったんです。体重も45㎏程度しかなかったですから。高校の最軽量級は60㎏以下で、一般的に通常時に63㎏ぐらいある選手が減量して試合に臨むことが多いんです。しかも、高校日本一を目指す学校に進むわけで。そんなときに父が、私を気遣ってだと思いますが「柔道を続けなくてもいいぞ」といったんです。この言葉が悔しかった。中学生のころから強かった兄が天理高校に進学する際は「人の三倍努力する気がなければ柔道部に来るな」といっていましたから。つまり、期待値が違うわけです。ここから「見とけ! いつか認める選手になってやる」という反骨精神が原動力になりました。
深堀:お父様が師匠になって柔道のスタイルが確立されたのでしょうか。
野村:実は父から技術的なアドバイスはなかったんです。しかし、天理の柔道は正統派で「組んで1本が取れる技を磨く」という形で、体が小さい私もそういう柔道を目指しました。ところが、天理高校は大きい選手ばかりで、真正面から向かっても通用しません。そこでスピードを活かす柔道、組み合うより相手をつかんだら「すぐに技に入り動きで翻弄するスタイル」を取り入れたんです。その結果、戦えるようになりましたが、父には「今だけ勝ちたいなら現状でいい。しかし本物の力をつけたいなら負けても組め」と注意されました。最初は「何で」と思いましたが、アドバイスをくれなかった父の最初の言葉だったので「信じよう」と、元の形に戻したんです。結果的に、小さい私が大きな相手とまともに組むことで「柔道の力=組む・相手を崩す」が身についたと思います。
深堀:お父様は先のことも考えて、野村さんの柔道を見ていたんですね。高校卒業後は天理大学へ進学されて、細川伸二監督に師事されました。この出会いが素晴らしいものだったそうですが。
野村:はい、大学2年生のときに細川先生から練習姿勢についてアドバイスをいただきました。厳しい練習が続くと「意味のある努力をしているか」「目的が練習になっていないか」など、判断が曖昧になってきます。残り何本やれば「メニューが終わる」と考えたり。先生はそこを見抜いたわけです。そして「これ以上動けないという領域まで追い込んだら休んでいい」から「目前の1本に集中し、練習を全部試合だと思い緊張感を持って攻めなさい」と。この言葉で試合に近い状況が作れるようになり練習の質が変わりました。
深堀:意味のある練習を見出すことは大切だと感じます。実際、結果にも現れましたか?
野村:前述の練習をするようになって半年も経たないうちに、当時の世界チャンピオンを破り「全日本学生体重別選手権」で優勝しました。
深堀:そこから野村さんは注目を浴びますよね。2年後の1996年にはアトランタ五輪が控えており、1995年ころからは選考レースもスタートしたと思うのですが。
野村:当時の私は4番手ぐらいで代表に入る意識は低かったです。年齢的にも次のシドニー五輪に出場できれば、と考えていました。しかし、ヨーロッパの国際大会で、強豪国に派遣された同じ階級の上位選手達が揃って負けたんですね。そんな中、実力的に少しレベルが低い国に派遣された私だけが優勝したんです。これにより、最終選考会で優勝できれば「アトランタ五輪の代表になれるかも」という可能性が出てました。まさに、最終選考会の少し前にオリンピックを意識し始めた感じです。
深堀:直前でオリンピック出場が視野に入ってきたわけですね。
常に前に出る、ピンチがきても顔に出さない、絶対に諦めない。これを貫き金メダルに輝く!
深堀:野村さんにアトランタ五輪の最終選考会で「初めてオリンピックを意識された」というお話を伺いました。このときにメンタル面などに変化はありましたか?
野村:代表の可能性があるなら「全力で勝負しよう」という気持ちになりました。当時の僕は、失うものがありませんでしたから。実際に、有力候補として同じ歳の徳野和彦選手がいたんです。彼とは高校のときに対戦経験があったのですが、強過ぎて逃げ回ることしかできず引き分け。これがトラウマになっていて……。そんな徳野選手と最終選考会の準決勝で対戦となり「ここで負けたら自分は同世代の中で一生2番手だ、絶対に勝ちたい」と。そして、最高の背負い投げで一本勝ちを決めたんです。決勝も、その勢いで園田隆二先輩に判定で競り勝ち優勝できました。
深堀:オリンピック出場が決まったときの心境は?
野村:代表が決まったのを聞いた瞬間「イエーイ」と思いました(笑)。ただし、この気持ちは3日間ぐらいだけでしたね。実績のない若造が「日本柔道の60㎏級を背負う」わけで、自分で本当にいいのかと。
深堀:オリンピック出場が、徐々に重圧に変わっていったんですね。
野村:はい、代表合宿の途中で怪我をするなど厳しい時期でしたが、「できることを精一杯やるしかない」と思い練習に取り組みました。周りに他階級で世界チャンピオンになっている先輩方がいましたから、その人たちの練習を間近で見られたのも勉強になりましたね。その結果、自信が持てるようになり、代表としての覚悟や自覚も芽生えました。
深堀:アトランタ五輪の開催直前には、お父さんから言葉をもらったと伺ったのですが。
野村:父からは「不安はあると思う。しかし、スポーツ選手でオリンピックのプレッシャーを感じられるのは一握りだけだから、素晴らしい舞台で戦えることに喜びを感じて精一杯やってこい」といわれました。これで気持ちが楽になったんです。
深堀:アトランタ五輪では、3回戦で当時の世界王者で金メダル候補のニコライ・オジェギン選手(露)と対戦。ラスト11秒での逆転勝利でしたが、下馬評を覆した要因はどこにあったのでしょうか?
野村:自分の想像よりも相手は2割増しで強かったのですが、弱点として「スタミナがない」という点も分かっていたんです。そこで、前半から中盤にかけては何とか凌いで、疲れ始めたときに攻める作戦を立てていました。投げ技のキレには自信があったので、後半勝負に賭けたんです。「自分が実践すべき柔道をして負けたら仕方がない」と考えて、①常に前に出る、②ピンチがきても顔に出さない、③絶対に諦めないという3つのテーマを掲げて戦ったことが勝利につながったと思います。
深堀:野村さんは、その後も勝ち進み決勝戦を迎えられます。決勝では、相手に先にポイントを取られましたが、焦りはなかったのでしょうか?
野村:リードされる展開になっても「最後まで攻め続ける」という意識が強かったので、焦りは出ませんでした。試合中も負ける気は一切しなかったです。「優勝すればヒーローになれる」と考え、常にポジティブな状態で試合に臨んだ結果、金メダルを獲得できたのだと思います。
深堀:お話を伺い「どんなときでも自分で前向きに考えて物事を進めていく大切さ」を改めて感じますね。
野村:実は、素の自分はネガティブでマイナス志向なんです。だからこそ勝負のときに「どういう自分であるべきか」考えて、それを作るために「何をすべきか」など、準備をしっかり行うようにしています。
深堀:野村さんはアトランタ五輪の金メダリストになられたわけですが、周囲の環境なども一変しましたか?
野村:大学生だったので、大きくは変わりませんでした。しかも就職先がなかったんです。スカウトの誘いも全然かからなくて。ですから、天理大学を卒業後は、奈良教育大学の大学院に進学しスポーツ心理などを学びながら、体育協会にお世話になりました。柔道に専念できる環境はあったのですが、実業団に入って競技を続けるのに比べると、金銭面での苦労が大きかったですね。
深堀:アトランタ五輪の翌年には、世界柔道選手権でも金メダルを獲得されましたが、環境が変わるきっかけはあったのでしょうか?
野村:大学院を卒業するタイミングで、ミキハウスさんから声をかけていただきました。柔道部の監督が天理大学の先輩で「今後、野村選手がシドニー五輪で連覇を目指すサポートをしたい」というお話を伺って、入社を決めました。
深堀:オリンピック連覇へ向けて、環境が整っていったわけですね。
勝負師に必要なものを敗戦から学ぶ。そして前人未到のオリンピック3連覇を達成!
深堀:ミキハウスに所属して「柔道に打ち込める環境が整った」と伺いました。このときすでに金メダリストでしたが、技の種類など練習方法に変化はありましたか?
野村:金メダリストとなり、私の得意技である「背負い投げ」は世界中で徹底的に研究されたんです。ですから、同じスタイルでは、4年後のシドニー五輪は勝てないと分かっていました。つまり、技のバリエーションを広げる必要があった。そこで真剣に大外刈りや内股など「1本が取れる別の技」の習得に取り組みました。ところが、ミキハウスに入社した1999年に開催された世界選手権は、選考会で負けてしまい出場できなかったんです。このときは焦りましたね。
深堀:不思議なものですね。アトランタ五輪のときは急に出場が決まり、金メダリストになったら今度は世界選手権の代表から落ちてしまったわけですから。
野村:このときは、本当に申し訳ない気持ちでミキハウスの社長に謝りに行きました。そしたら笑顔で「ええよ、ええよ、世界選手権やろ」と。同時に「野村くんはミキハウスに何をするために入社したの」と聞かれて、「オリンピックで軽量級初の2連覇を達成するためです」と答えたんですね。社長は「その目標があるなら、会社のためではなく自分自身のために頑張りなさい」といってくれて。
深堀:実際に、野村さんはシドニー五輪への出場を実現されましたが、そのときにお父様から手紙をもらったと伺ったのですが?
野村:はい、しかし手紙はすぐには開封しませんでした。「試合の直前に読もう」と考えて、現地に持って行ったんですね。そして、不安で眠れなかったときに初めて目を通しました。書かれていたのは「金メダリストとして4年間努力してきたことは、すべて自信になります。指導者として君は最高の柔道選手だと確信しています」といった内容でした。これにより「自分を信じよう」という気持ちが生まれ、落ち着くことができたんです。試合当日、選手村を出る直前にも手紙を読み返しました。
深堀:野村さんはシドニー五輪で見事オリンピック連覇を成し遂げられましたが、2つ目の金メダルは、どんな意味を持っていたのでしょう。
野村:最初の金メダルは、若さ、勢い、運で取れたものだと思います。しかし一度、金メダリストになり研究された後での優勝はプロセスが全然違います。ですから、一回目よりも感動や喜びが大きかったですね。
深堀:シドニー五輪の後は、すぐに次のアテネ五輪に気持ちが向かったのでしょうか?
野村:体が衰えていく中で3連覇は現実的なのか、という思いもありました。むしろ「最強と呼ばれる状態」で引退した方がカッコいいかもしれないと。ですが実はシドニー五輪の後、1年間休んだのですが、それでも気持ちの整理はつきませんでした。周囲には「現役続行か引退か」決断を迫られました。そこでミキハウスの社長に「日本にいると周囲が騒がしいのでアメリカに行かせて欲しい」と相談したんです。実際にサンフランシスコで暮らしましたが、結果的に、一度競技生活から離れることで柔道の楽しさを再認識できたんです。そして、オリンピック3連覇への意欲も。とはいえ、実質2年間休んだので復帰直後は負け続けました。最初は、自分が勝てない理由が分かりませんでした。しかし、負け試合の映像を見返したとき「笑っている自分」がいた。以前は敗れると号泣するか、怒るかのどちらかでしたから、勝負師としての気持ちに大きな違いがあったわけです。
深堀:野村さんは、そこに気づいて自分を変えることに成功し、アテネ五輪で前人未到のオリンピック3連覇を達成。これを置き土産に、現役引退は考えなかったのでしょうか?
野村:頭にはありましたが、結果はどうあれ4連覇に挑戦すれば「新しい自分に出会える」と思ったんです。それで現役続行を決意しました。
深堀:結果的には、怪我の影響などもあり北京五輪への出場は叶いませんでしたが、40歳まで現役を続けられています。その原動力は、どこにあったのでしょう。
野村:オリンピック代表になれなくても「違うステージで戦いたい」と考えたんです。現状を受け入れつつ、自分の柔道を磨く。そこに生き甲斐を感じていましたね。年齢を重ねるごとに「技術」についても深く考えるようになっていきました。
深堀:年齢を重ねて身に付く技術が「経験」というものに繋がっていくのだと思います。今回は貴重なお話をありがとうございました。
▼野村忠宏/のむら・ただひろ
1974年12月10日生まれ、奈良県出身。1996年のアトランタ五輪からシドニー五輪、アテネ五輪と、柔道史上前人未到の3連覇を達成。2004年には紫綬褒章を受章
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