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1980年代後半の世界最高センターはアマチュア選手。“ドリームチームの生みの親”アルビダス・サボニス【レジェンド列伝・前編】<DUNKSHOOT>

1980年代のバスケ界において、サボニスは世界最高のセンターと称された。(C)Getty Images
プロバスケットボールの最高峰であるNBAには、世界中から最も優秀な選手が集まってくる。だが、1980年代後半における世界最高のセンターは、NBAの選手でなかっただけでなく、プロですらなかった。

当時のソビエト連邦(以下ソ連)代表として、アマチュア資格でプレーしたアルビダス・サボニス。ユーゴスラビア代表として、全盛期の彼と何度も対戦したブラデ・ディバッツ(元サクラメント・キングスほか)は断言する。

「あの頃のサボニスは、アキーム・オラジュワン(元ヒューストン・ロケッツほか)やデイビッド・ロビンソン(元サンアントニオ・スパーズ)、シャキール・オニール(元ロサンゼルス・レイカーズほか)級の選手だった」
■1980年代後半における世界最高のセンター

13歳でバスケットボールを始めた頃、サボニスの母国リトアニアはまだソ連を構成する一国だった。1980年、15歳にしてとびきりのエリートだけが選抜されるナショナル・ジュニアチームに加わり、1982年には初めてアメリカの土を踏んで、当時カレッジバスケットで最高の選手だったラルフ・サンブソン(元ロケッツほか)と互角に渡り合う。1984、85年には2年連続でユーロスカー賞(ヨーロッパ人最高の選手に与えられる)を受賞するなど、早くもヨーロッパ屈指の選手に成長した。

1960年のローマ五輪でアメリカ代表のヘッドコーチを務め、日本代表を指導した経験を持つピート・ニューウェルは「あれほど素質に恵まれた選手は見たことがない」とサボニスにすっかり惚れ込んだ。

「広島での大会で観たプレーは忘れることができない。シュートがリムに当たって高く跳ね、リバウンドに跳んだ彼は、空中でボールを片手で掴むと、バックハンドでコートの反対側へロングバスを繰り出したんだ!」

当時はまだ現役だったビル・ウォルトン(元ポートランド・トレイルブレイザーズほか)も、サボニスのプレーに感銘を受けた。

「身長221cm のラリー・バード(元ボストン・セルティックス)さ。私のブレースタイルに似ていて、何でもできる。今すぐNBAに連れてきてもスターになるのは間違いない」

実際、サボニスとウォルトンには多くの共通点があった。リバウンドとブロックでゴール下を思うままに支配した点や、比類のないバスケットボールIQの持ち主であったこと、また手品師のごとき手捌きでアシストパスを送れた点もそう。だが、それに加えてロングシュートも放つことができたサボニスは、ウォルトン以上の万能選手だった。
■1988年のソウル五輪でアメリカ代表を粉砕

とはいえ、一般のアメリカ人ファンはなかなかそのプレーに触れる機会がなかった。1984年のロサンゼルス五輪は、1980年のモスクワ五輪を西側諸国がボイコットしたことに対する報復でソ連は不参加。冷戦の真っ只中でもあり、サボニスがNBAでプレーできる可能性はないに等しかった。

にもかかわらず、1985年にはアトランタ・ホークスがドラフト4巡目77位でサボニスを指名する。年齢制限に抵触して指名が無効とされると、翌1986年はブレイザーズが1巡目24位で指名した。1988年、アキレス腱断裂の重傷を負ったサボニスをブレイザーズはポートランドに招待。4か月にわたって、チームの医療スタッフの下でリハビリに当たらせた。

わずかな期間ではあったが、サボニスはアメリカでの滞在を楽しんだ。「彼の国ではバナナが貴重品らしくてね。毎日大量のバナナを買って差し入れしたから、スーパーマーケットの店員は私らがゴリラでも飼っているのかと思っただろうね」(ブレイザーズの球団関係者)。

リハビリの一環としてブレイザーズの選手たちともプレーを楽しみ、得意のビハインド・ザ・バック・パスを披露して驚かせていた。
アメリカ代表のヘッドコーチ、ジョン・トンプソンは「オリンピックで対戦する敵国の中心選手を手助けするなんて」とブレイザーズを非難したが、その憂慮は現実のものとなる。

1988年のソウル五輪決勝で、ソ連はロビンソンやミッチ・リッチモンド(元キングスほか)ら、のちのNBA選手が揃っていたアメリカを撃破。決勝でもサボニスが20得点、15リバウンドと大暴れし、難敵ユーゴスラビアを下して金メダルを手にした。この敗戦をきっかけにして、アメリカはNBAのスター選手をオリンピックに送ることを決めたのだから、サボニスはドリームチームの生みの親と言えるかもしれない。

ミハイル・ゴルバチョフ書記長が進めた開放政権によって、1980年代末にはサボニスにも海外でプレーできる道が開けた。しかし1989年、彼はブレイザーズではなくスペインリーグのバリャドリーと契約する。アキレス腱を2度も断裂した上、ヒザにも慢性的な故障を抱えていたサボニスは、NBA行きを薦めるコーチに対し「この身体で、NBAでプレーできると思いますか?」と返答した。(後編に続く)

文●出野哲也
※『ダンクシュート』2011年7月号原稿に加筆・修正

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