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“世界のトヨタ”の社員が慶應大学の助監督を務めた意味とは――竹内大助、『助監督日記』の完結【第5章】

母校・慶応大の2度の日本一などに貢献した竹内。トヨタ自動車の社業に復帰した彼は、教育機関での経験をどう活かそうとしているのか。写真提供:竹内大助
昨年末で慶應大学野球部を離れ、1月から所属するトヨタ自動車の社業に復帰した竹内大助。

助監督として在籍した3年6シーズンで、慶大はリーグ優勝3度、日本一2度。指導者として胸を張れるだけの好成績にも、「それは選手と監督が残した成果ですから」と、自らの実績にしようとはしない。

マニュアルもなく、手探りで始めた助監督の仕事を、彼は3年間でどんなふうに成熟させていったのか。「助監督・竹内大助の知られざる野球人生」、その最終章は、助監督の仕事の総括と、竹内のこれからにも触れていく。

―――◆―――◆―――

竹内は、今、“会社員”としての新しい生活をスタートさせている。

野球の現場は離れたが、トヨタ自動車のスポーツ全般に関わる部署に配属され、慣れないデスクワークに苦戦する日々だ。それでも、「充実しています」と言う。現役時代から、引退後はトヨタの一社員として、縁があればスポーツにも関わっていけたらいいな、という願望があった。現場ではなく、いわゆる「フロント」という立場でスポーツを見てみたかった。

トヨタ自動車は、野球以外にもバスケット、ソフトボール、ラグビーなどのチームを抱え、それぞれの競技で「強豪」と呼ばれるポジションにいる。また個人競技でも、先日の北京冬季五輪でメダルを獲得したフィギュアスケートの宇野昌磨や、フリースタイルスキー・モーグルの堀島行真らトップアスリートが数多く所属。日本の企業スポーツを牽引していると言ってもいい存在だ。それだけに、それをマネージメントするフロントの仕事は重責だが、面白さもあるはずだ。
会社を離れていた助監督在任中も、竹内には常に「トヨタ自動車」の看板を背負っているという意識があった。

野球部出身者としては、現役引退後に「出向」という形で、なおかつ教育機関で仕事をするのは、竹内が初めてのケースだった。何かしら成果を上げて、「成功した」というイメージを作りたかった。そうすれば、今後も会社がこうした形で人材を外に送り出しやすくなる。

とはいえ、今はまだ「成功」の基準がわからない。

「トヨタに帰って、助監督の3年間をどういう形で活かせばいのか。やってきたことに、汎用性があるのかないのかも今はまだわかりません。それを探さなきゃいけないというのが僕の緊喫の課題というか、テーマかもしれませんね。プログラミングが書けるようになったとか、多言語を扱う能力が出来たとか、そういう目に見えるようなスキルが上がっているわけではないですから。それでも、その状況でどうやって勝負していくのかが、今後の僕に続く人、アスリートのセカンドキャリア拡充に繋がってきます。

もし僕が野球の世界でしか生きられない人間になってしまったら、僕自身はそれでよくても、会社にとっては次の選択肢が閉ざされてしまうんです。会社に戻った僕が、どんな環境でも生きていけるようなスキルを持っていれば、こうして教育機関に出向させることを、ある程度スタンダードにしてもいいということになるでしょう。だから僕の成果報告というか身辺整理の仕方はすごく大事だと思っています」

竹内はそう言って考え込む。ビジネスマンである以上、自分の仕事の成果を内外に向けてアピールしていく必要がある。だが、やるべきことをやってきたという自負はあっても、それはパッと見て、すぐに見えてくるものではないもどかしさがある。 助監督の任期が残り少なくなった昨年末、竹内は自分の仕事を振り返るかのように「助監督日記」と題して、自身のTwitterを使って自らがしてきた仕事の内容をまとめ、発信している。

それは彼にとって、助監督としての3年間の業務報告だったのかもしれない。本人の許可を得て、ここに掲載させてもらおう。

助監督の仕事1 「監督を助ける」
一言で表すとこの言葉に尽きます。読んで字の如くですが、まさにこの言葉を念頭に置いていました。監督の困りごとを解決する、監督が仕事をしやすい環境を整える。選手ファーストの考え方はもちろんですが、監督との二者間では常に監督ファーストです。

助監督の仕事2 「安全管理」
グラウンド内外問わず、常に意識していました。怪我・故障をしない環境づくり、仕組みづくりをすること。危険な場所を作らない、危険行為を未然防止する注意喚起。安全第一・健康第一が成長するためのキーワードです。

助監督の仕事3 「ヒト・モノ・カネの管理、最適化」
監督とともに、限りある資源をどうすれば有効活用できるか考え、環境を整えていました。一定程度成果の上がったものもあれば、思うようにいかなかったことも……。試行錯誤の連続でした。

助監督の仕事4その1 「投手コーチ」
慶應大学に対しては、前任の林卓史助監督から“助監督=投手コーチ”という印象を持っていただいているかもしれません。監督が野手出身ということもあり、ある程度役割分担されていました。私自身、もっとも時間をかけて、試行錯誤していた領域です。

助監督の仕事4その2 「データ活用」
投手担当として試行錯誤したことの一つです。科学データ、統計データなどを用いて投手育成、相手分析に苦心していました。専門家の方々の力も借りて、学生と一緒に考えながら。手段と目的の混同に注意し、データと感覚の擦り合わせを行っていました。
助監督の仕事4その3 「オープン戦登板予定検討」
これも個人的に重要な仕事。「故障させない⇆限界まで鍛える」。常にせめぎ合いをしていました。圧倒的な実戦練習量が堀井哲也監督の、いわば“堀井スタイル”です。選手を守ることが仕事ですが、ギリギリを攻めることによって成長すると信じ、予定を組んでいました。

助監督の仕事4その4 「投手継投の相談」
神宮球場でブルペンとベンチを行ったり来たり。試合展開と投手の状態を考慮しながら監督と相談していました。最終判断は監督ですが、自分の意見は全てぶつけていました。試合に勝つための、本音の議論。監督、懐深いです。

助監督の仕事5 「監督と学生の通訳」
年齢が監督と学生の間であること、ポジション的なこと(野手と投手)から、監督からも常々依頼されていました。とくに監督の話を、温度感は保ったまま投手に伝えることには身骨を砕いてました。ただし、学生たちの若者言葉には、「???」なことも多々ありました。

助監督の仕事6 「悩み相談のカウンセラー」
投手コーチの領域での話がほとんどですが、野手からの相談もいくつかありました。投手目線での話、社会人目線での話、切り口はさまざまですが、何よりも相手の話を聞くことを大切にしていました。なかには恋愛相談にくる学生もいました。

助監督の仕事7 「問題解決能力を鍛える」
現状把握、目標設定、やるべきことの明確化。成長するためのロジックを口うるさく伝えてきました。紙に書かせて、対話をして、何度も修正をしながら……。面倒臭い先輩だったと思います。一緒に勉強していました。

助監督の仕事8 「生活指導・進路相談」
身だしなみ、ユニホームの着こなし、言葉遣い……。学校にいた生活指導の先生のようなこともしていました。上級生は進路相談も。就職のことや野球継続のことをわかる範囲でアドバイス。同時に自らの勉強不足・知識不足を痛感していました。

助監督の仕事9 「新しい領域へのチャレンジ」
組織も、個人としても成長し続けなければならず、積極的に行動していました。
・コンディション管理のシステム化
・アナリスト部門の新設
・慶應大学内、他組織との連携強化

これらのことを、周りの方々の力を借りながら進めてきました。 縁の下にいて、陽の当たらない場所からチームを支え続けた3年間の助監督生活。竹内は何を学び、何を得たのだろう?

「どんな世界に行ったとしても、モノを相手にするだけの仕事はないですから。最終的には対人になってくるので、そういう意味での経験値はかなり積ませてもらいました。慶應大学野球部という組織の中には、二十歳前後の学生から、60歳前後の監督、OBには七十代、八十代の方もたくさんいます。ただ、学生がメインの現場で、そういう若い世代の声を聞きながら意思決定をしていくという、“ファシリテート能力”みたいなものは、一定量身に付いた気がします」

竹内は自分に確認するように頷きながら言う。

「でも、それをどう活かしていくのか。現実には、スポーツの現場しか経験出来ていませんからね。あとは僕の努力次第。トヨタという会社の中でどう力を発揮できるか、またトヨタという枠組みが外れた時にも一人の人間としてどうしていくか、というところが大事だと思っています」

竹内は自らの性格を、「“環境まかせ”という受動的な一面がある」と分析する。だから仕事についても、「自分で居場所を作るよりも、与えられた場所で力を発揮したい」と言う。そして、「たとえハードな環境でも、学びのある場所に身を置かせてもらえたら、また充実した毎日が送れる」と。

かといって、決して適応能力が高い人間ではない。むしろ「人並み以上に遅い」と自覚している。でも、好奇心はわりと強いほうだ。そういう人間がポンっと学生の中に放り込まれて、実績を残せた。それは少なからず自信になっている。

今更ながら言ってしまえば、竹内大助という人物は決して指導者向きの性格ではなかった。妻のまりえもこんなふうに言う。

「最初、あなたが助監督なんてやると思わなかったし、やれるとも思わなかった。でも、あまりあたたかくない、冷静で、人に興味がないところがよかったのかもしれないね」

たしかに竹内には人を寄せつけない独特の雰囲気がある。自分自身でも、「僕、友達が少ないタイプなんです」とそれを自覚している。

そんな人間が、少しずつ変わっていった3年間。いつ頃からか、SNSで遊ぶことを覚えた。その一つが、妻のまりえとのTwitterでのやりとり。まりえがその日の夕食のメニューを添えて「待ってるわよ」とツイートすると、竹内が黙ってリツイートを返す。キャラ的にはイケイケの奥様と無口な旦那様。ちょっとした夫婦漫才にも見えてくる。

少し前の時代なら、「指導者ともあろう者が」と怒る人がいたかもしれない。しかしそれも、どうやら確信犯でやっていたところがある。学生たちが見て、茶化したり、ネタにしてくれることで、そこからコミュニケーションが生まれたらいいと思っていた。また、まりえにはそれを一緒に演じられるユーモアのセンスがある。

竹内は、まりえのことを、「僕よりも野球の深い部分を見ていることがある」と言う。それも頷ける。もともとスコアブックを片手に大学野球を観戦するようなコアな野球ファンだったまりえは、今、タレントとして、上原浩治や川上憲伸といったプロ野球の一流選手たちと仕事を共にしている。仕事場で野球を学んでいるようなものだ。

結婚当時、愛知県にいる竹内に対して、まりえは仕事の関係で東京を離れられず、別居生活が続いた。SNSなどで面白おかしく書かれることもあった。当然、本人たちも目にすることがある。だが竹内には、そういう雑音を「どうでもいいこと」と振り払える冷静さがある。まりえは真逆で感情が豊か。そして、出会った頃からずっと「竹内大助の一番のファン」であり続けている。お互いの性格と仕事をリスペクトしあえる、なかなか“おもしろい”夫婦。竹内がユニホームを脱いだことで、二人にとっても新しいフェーズが始まっている。 退任後の竹内と会った前助監督の林卓史は、「すごく明るい表情をしていた。口数も増えて、変わりましたね」とキャラクターの変化に驚いていた。

「データ分析にしても、僕も学生のスタッフがいてくれたらいいなとは考えましたが、あんなふうに組織を作る発想はありませんでした。僕は学生たちを指導しなくてはという気持ちが強すぎて、彼らに任せることが出来ませんでした。そこで学生たちと距離を作ってしまっていたのかもしれません。今の若い子に力を発揮させるには、ああやって同じ目線に立って一緒に考えられる竹内のようなタイプのほうがいいんでしょうね」と自らの指導スタイルを省みる。

だが竹内は、「いや、林さんの時代の緊張感があったから、逆に学生たちは僕を見て、こいつで大丈夫か? 俺たちが頑張らないと、と思ったからよかったんじゃないですかね」と真顔で言った。

トレーナーの高村克己は、竹内の大学時代を懐かしそうに振り返る。

「アイツが指導者をやるイメージはなかったなぁ。でも、大助たちの代が4年生になった時、レギュラーは少なかったけど、彼らが下級生たちを盛り上げて引っ張り上げて、その姿勢がメンバー外にも浸透して、すごく“いいチーム”だったんです。それが下の代にも受け継がれていました。助監督として戻ってきた時に、そういうチームを作ろうとしていたんじゃないかと僕は思っているんですけどね」

竹内が去った今年のチームで、エースの働きが期待される増居翔太は、現在、現役最多の通算7勝を挙げているが、苦笑いしながら言う。

「1年生くらいの時には、一つの目標というか、ちょっと意識していたんですよ。竹内さんは(通算)22勝か。追い越せないかな? って。でも、冷静に考えたら絶対無理だな、と思いました。凄いっすよね、22勝って」

大学時代の恩師である江藤省三(元・慶大監督)はこう言って笑う。

「プロに行きたかったんだと思うよ。行かせてあげられなかったことは申し訳なかったけど、結果的には、行かなくてよかったんじゃないかな。ボールのスピードが少し足りないということは、本人もわかっていたと思う。あのとき夢が叶ってプロに行っても、もう野球を辞めていたかもしれないし。今、こうして野球に関われているんだからさ。そう思ってもらえたら、俺も少し申し訳が立つかな」

卒業する前主将の福井章吾は、この春からトヨタ自動車に入社し社会人野球でプレーする。プロを希望すればドラフト指名も有力だっただけに、社会人の多くの企業から誘いがあったはずだ。そのなかから選んだのが、竹内の所属するトヨタ自動車。進路選択にあたり、竹内の影響が少なからずあったと想像してしまう。

「もちろんトヨタの野球のレベルの高さに対して魅力を感じたのですが、竹内さんから学ばせてもらったデータの活用に面白さを感じていました。トヨタはそういうアナリスト部門が充実していると聞いているので、そういう野球をやりたいと思ったところはありますね」と福井は言う。

福井が竹内からよく話を聞かされ一緒に野球をやるのを楽しみにしていた細山田武史は、昨年限りで現役を退き、今季からコーチに就任した。立場は変わったが、一緒に野球をやることに変わりはない。

そして、こちらも「助監督」から「上司」に立場が変わる竹内には、「トヨタの野球部を変えるくらいの気持ちでやれ。新しい風を吹かせる存在になれ」と叱咤激励を受けている。

余談になるが、「竹内助監督について話を聞かせてほしい」という取材の最後、福井は席を立つ前に、「竹内さんの最高の記事をお願いします」と言ってきた。アマチュア野球を取材する記者たちが、彼の人間性を褒める理由がわかった。そして、ここにも一本の絆があることを知った。

「最高の原稿」かどうかはわかりませんが、一生懸命書かせていただきました(筆者より)

慶大野球部は、今季から中根慎一郎(三菱重工名古屋)が新たに助監督に就任した。新しいシーズンは、もう始まっている。

開幕するリーグ戦、竹内は神宮球場のスタンドから静かに見守るつもりだ。おそらく、妻のまりえと一緒に。

―――終了―――

取材・文●矢崎良一

【関連記事】3.9冠! “陸の王者”を縁の下から支えた男――慶大助監督・竹内大助の知られざる野球人生【第1章】

【関連記事】ハンカチ王子との優勝を賭けた投げ合い。内面に抱えた苦悩とは――慶大助監督・竹内大助の知られざる野球人生【第2章】

【関連記事】ドラフトの挫折。燻る社会人野球生活を変えた元プロ捕手との出会い――。慶大助監督・竹内大助の知られざる野球人生【第3章】

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母校・慶応大の2度の日本一などに貢献した竹内。トヨタ自動車の社業に復帰した彼は、教育機関での経験をどう活かそうとしているのか。写真提供:竹内大助
昨年末で慶應大学野球部を離れ、1月から所属するトヨタ自動車の社業に復帰した竹内大助。

助監督として在籍した3年6シーズンで、慶大はリーグ優勝3度、日本一2度。指導者として胸を張れるだけの好成績にも、「それは選手と監督が残した成果ですから」と、自らの実績にしようとはしない。

マニュアルもなく、手探りで始めた助監督の仕事を、彼は3年間でどんなふうに成熟させていったのか。「助監督・竹内大助の知られざる野球人生」、その最終章は、助監督の仕事の総括と、竹内のこれからにも触れていく。

―――◆―――◆―――

竹内は、今、“会社員”としての新しい生活をスタートさせている。

野球の現場は離れたが、トヨタ自動車のスポーツ全般に関わる部署に配属され、慣れないデスクワークに苦戦する日々だ。それでも、「充実しています」と言う。現役時代から、引退後はトヨタの一社員として、縁があればスポーツにも関わっていけたらいいな、という願望があった。現場ではなく、いわゆる「フロント」という立場でスポーツを見てみたかった。

トヨタ自動車は、野球以外にもバスケット、ソフトボール、ラグビーなどのチームを抱え、それぞれの競技で「強豪」と呼ばれるポジションにいる。また個人競技でも、先日の北京冬季五輪でメダルを獲得したフィギュアスケートの宇野昌磨や、フリースタイルスキー・モーグルの堀島行真らトップアスリートが数多く所属。日本の企業スポーツを牽引していると言ってもいい存在だ。それだけに、それをマネージメントするフロントの仕事は重責だが、面白さもあるはずだ。
会社を離れていた助監督在任中も、竹内には常に「トヨタ自動車」の看板を背負っているという意識があった。

野球部出身者としては、現役引退後に「出向」という形で、なおかつ教育機関で仕事をするのは、竹内が初めてのケースだった。何かしら成果を上げて、「成功した」というイメージを作りたかった。そうすれば、今後も会社がこうした形で人材を外に送り出しやすくなる。

とはいえ、今はまだ「成功」の基準がわからない。

「トヨタに帰って、助監督の3年間をどういう形で活かせばいのか。やってきたことに、汎用性があるのかないのかも今はまだわかりません。それを探さなきゃいけないというのが僕の緊喫の課題というか、テーマかもしれませんね。プログラミングが書けるようになったとか、多言語を扱う能力が出来たとか、そういう目に見えるようなスキルが上がっているわけではないですから。それでも、その状況でどうやって勝負していくのかが、今後の僕に続く人、アスリートのセカンドキャリア拡充に繋がってきます。

もし僕が野球の世界でしか生きられない人間になってしまったら、僕自身はそれでよくても、会社にとっては次の選択肢が閉ざされてしまうんです。会社に戻った僕が、どんな環境でも生きていけるようなスキルを持っていれば、こうして教育機関に出向させることを、ある程度スタンダードにしてもいいということになるでしょう。だから僕の成果報告というか身辺整理の仕方はすごく大事だと思っています」

竹内はそう言って考え込む。ビジネスマンである以上、自分の仕事の成果を内外に向けてアピールしていく必要がある。だが、やるべきことをやってきたという自負はあっても、それはパッと見て、すぐに見えてくるものではないもどかしさがある。 助監督の任期が残り少なくなった昨年末、竹内は自分の仕事を振り返るかのように「助監督日記」と題して、自身のTwitterを使って自らがしてきた仕事の内容をまとめ、発信している。

それは彼にとって、助監督としての3年間の業務報告だったのかもしれない。本人の許可を得て、ここに掲載させてもらおう。

助監督の仕事1 「監督を助ける」
一言で表すとこの言葉に尽きます。読んで字の如くですが、まさにこの言葉を念頭に置いていました。監督の困りごとを解決する、監督が仕事をしやすい環境を整える。選手ファーストの考え方はもちろんですが、監督との二者間では常に監督ファーストです。

助監督の仕事2 「安全管理」
グラウンド内外問わず、常に意識していました。怪我・故障をしない環境づくり、仕組みづくりをすること。危険な場所を作らない、危険行為を未然防止する注意喚起。安全第一・健康第一が成長するためのキーワードです。

助監督の仕事3 「ヒト・モノ・カネの管理、最適化」
監督とともに、限りある資源をどうすれば有効活用できるか考え、環境を整えていました。一定程度成果の上がったものもあれば、思うようにいかなかったことも……。試行錯誤の連続でした。

助監督の仕事4その1 「投手コーチ」
慶應大学に対しては、前任の林卓史助監督から“助監督=投手コーチ”という印象を持っていただいているかもしれません。監督が野手出身ということもあり、ある程度役割分担されていました。私自身、もっとも時間をかけて、試行錯誤していた領域です。

助監督の仕事4その2 「データ活用」
投手担当として試行錯誤したことの一つです。科学データ、統計データなどを用いて投手育成、相手分析に苦心していました。専門家の方々の力も借りて、学生と一緒に考えながら。手段と目的の混同に注意し、データと感覚の擦り合わせを行っていました。
助監督の仕事4その3 「オープン戦登板予定検討」
これも個人的に重要な仕事。「故障させない⇆限界まで鍛える」。常にせめぎ合いをしていました。圧倒的な実戦練習量が堀井哲也監督の、いわば“堀井スタイル”です。選手を守ることが仕事ですが、ギリギリを攻めることによって成長すると信じ、予定を組んでいました。

助監督の仕事4その4 「投手継投の相談」
神宮球場でブルペンとベンチを行ったり来たり。試合展開と投手の状態を考慮しながら監督と相談していました。最終判断は監督ですが、自分の意見は全てぶつけていました。試合に勝つための、本音の議論。監督、懐深いです。

助監督の仕事5 「監督と学生の通訳」
年齢が監督と学生の間であること、ポジション的なこと(野手と投手)から、監督からも常々依頼されていました。とくに監督の話を、温度感は保ったまま投手に伝えることには身骨を砕いてました。ただし、学生たちの若者言葉には、「???」なことも多々ありました。

助監督の仕事6 「悩み相談のカウンセラー」
投手コーチの領域での話がほとんどですが、野手からの相談もいくつかありました。投手目線での話、社会人目線での話、切り口はさまざまですが、何よりも相手の話を聞くことを大切にしていました。なかには恋愛相談にくる学生もいました。

助監督の仕事7 「問題解決能力を鍛える」
現状把握、目標設定、やるべきことの明確化。成長するためのロジックを口うるさく伝えてきました。紙に書かせて、対話をして、何度も修正をしながら……。面倒臭い先輩だったと思います。一緒に勉強していました。

助監督の仕事8 「生活指導・進路相談」
身だしなみ、ユニホームの着こなし、言葉遣い……。学校にいた生活指導の先生のようなこともしていました。上級生は進路相談も。就職のことや野球継続のことをわかる範囲でアドバイス。同時に自らの勉強不足・知識不足を痛感していました。

助監督の仕事9 「新しい領域へのチャレンジ」
組織も、個人としても成長し続けなければならず、積極的に行動していました。
・コンディション管理のシステム化
・アナリスト部門の新設
・慶應大学内、他組織との連携強化

これらのことを、周りの方々の力を借りながら進めてきました。 縁の下にいて、陽の当たらない場所からチームを支え続けた3年間の助監督生活。竹内は何を学び、何を得たのだろう?

「どんな世界に行ったとしても、モノを相手にするだけの仕事はないですから。最終的には対人になってくるので、そういう意味での経験値はかなり積ませてもらいました。慶應大学野球部という組織の中には、二十歳前後の学生から、60歳前後の監督、OBには七十代、八十代の方もたくさんいます。ただ、学生がメインの現場で、そういう若い世代の声を聞きながら意思決定をしていくという、“ファシリテート能力”みたいなものは、一定量身に付いた気がします」

竹内は自分に確認するように頷きながら言う。

「でも、それをどう活かしていくのか。現実には、スポーツの現場しか経験出来ていませんからね。あとは僕の努力次第。トヨタという会社の中でどう力を発揮できるか、またトヨタという枠組みが外れた時にも一人の人間としてどうしていくか、というところが大事だと思っています」

竹内は自らの性格を、「“環境まかせ”という受動的な一面がある」と分析する。だから仕事についても、「自分で居場所を作るよりも、与えられた場所で力を発揮したい」と言う。そして、「たとえハードな環境でも、学びのある場所に身を置かせてもらえたら、また充実した毎日が送れる」と。

かといって、決して適応能力が高い人間ではない。むしろ「人並み以上に遅い」と自覚している。でも、好奇心はわりと強いほうだ。そういう人間がポンっと学生の中に放り込まれて、実績を残せた。それは少なからず自信になっている。

今更ながら言ってしまえば、竹内大助という人物は決して指導者向きの性格ではなかった。妻のまりえもこんなふうに言う。

「最初、あなたが助監督なんてやると思わなかったし、やれるとも思わなかった。でも、あまりあたたかくない、冷静で、人に興味がないところがよかったのかもしれないね」

たしかに竹内には人を寄せつけない独特の雰囲気がある。自分自身でも、「僕、友達が少ないタイプなんです」とそれを自覚している。

そんな人間が、少しずつ変わっていった3年間。いつ頃からか、SNSで遊ぶことを覚えた。その一つが、妻のまりえとのTwitterでのやりとり。まりえがその日の夕食のメニューを添えて「待ってるわよ」とツイートすると、竹内が黙ってリツイートを返す。キャラ的にはイケイケの奥様と無口な旦那様。ちょっとした夫婦漫才にも見えてくる。

少し前の時代なら、「指導者ともあろう者が」と怒る人がいたかもしれない。しかしそれも、どうやら確信犯でやっていたところがある。学生たちが見て、茶化したり、ネタにしてくれることで、そこからコミュニケーションが生まれたらいいと思っていた。また、まりえにはそれを一緒に演じられるユーモアのセンスがある。

竹内は、まりえのことを、「僕よりも野球の深い部分を見ていることがある」と言う。それも頷ける。もともとスコアブックを片手に大学野球を観戦するようなコアな野球ファンだったまりえは、今、タレントとして、上原浩治や川上憲伸といったプロ野球の一流選手たちと仕事を共にしている。仕事場で野球を学んでいるようなものだ。

結婚当時、愛知県にいる竹内に対して、まりえは仕事の関係で東京を離れられず、別居生活が続いた。SNSなどで面白おかしく書かれることもあった。当然、本人たちも目にすることがある。だが竹内には、そういう雑音を「どうでもいいこと」と振り払える冷静さがある。まりえは真逆で感情が豊か。そして、出会った頃からずっと「竹内大助の一番のファン」であり続けている。お互いの性格と仕事をリスペクトしあえる、なかなか“おもしろい”夫婦。竹内がユニホームを脱いだことで、二人にとっても新しいフェーズが始まっている。 退任後の竹内と会った前助監督の林卓史は、「すごく明るい表情をしていた。口数も増えて、変わりましたね」とキャラクターの変化に驚いていた。

「データ分析にしても、僕も学生のスタッフがいてくれたらいいなとは考えましたが、あんなふうに組織を作る発想はありませんでした。僕は学生たちを指導しなくてはという気持ちが強すぎて、彼らに任せることが出来ませんでした。そこで学生たちと距離を作ってしまっていたのかもしれません。今の若い子に力を発揮させるには、ああやって同じ目線に立って一緒に考えられる竹内のようなタイプのほうがいいんでしょうね」と自らの指導スタイルを省みる。

だが竹内は、「いや、林さんの時代の緊張感があったから、逆に学生たちは僕を見て、こいつで大丈夫か? 俺たちが頑張らないと、と思ったからよかったんじゃないですかね」と真顔で言った。

トレーナーの高村克己は、竹内の大学時代を懐かしそうに振り返る。

「アイツが指導者をやるイメージはなかったなぁ。でも、大助たちの代が4年生になった時、レギュラーは少なかったけど、彼らが下級生たちを盛り上げて引っ張り上げて、その姿勢がメンバー外にも浸透して、すごく“いいチーム”だったんです。それが下の代にも受け継がれていました。助監督として戻ってきた時に、そういうチームを作ろうとしていたんじゃないかと僕は思っているんですけどね」

竹内が去った今年のチームで、エースの働きが期待される増居翔太は、現在、現役最多の通算7勝を挙げているが、苦笑いしながら言う。

「1年生くらいの時には、一つの目標というか、ちょっと意識していたんですよ。竹内さんは(通算)22勝か。追い越せないかな? って。でも、冷静に考えたら絶対無理だな、と思いました。凄いっすよね、22勝って」

大学時代の恩師である江藤省三(元・慶大監督)はこう言って笑う。

「プロに行きたかったんだと思うよ。行かせてあげられなかったことは申し訳なかったけど、結果的には、行かなくてよかったんじゃないかな。ボールのスピードが少し足りないということは、本人もわかっていたと思う。あのとき夢が叶ってプロに行っても、もう野球を辞めていたかもしれないし。今、こうして野球に関われているんだからさ。そう思ってもらえたら、俺も少し申し訳が立つかな」

卒業する前主将の福井章吾は、この春からトヨタ自動車に入社し社会人野球でプレーする。プロを希望すればドラフト指名も有力だっただけに、社会人の多くの企業から誘いがあったはずだ。そのなかから選んだのが、竹内の所属するトヨタ自動車。進路選択にあたり、竹内の影響が少なからずあったと想像してしまう。

「もちろんトヨタの野球のレベルの高さに対して魅力を感じたのですが、竹内さんから学ばせてもらったデータの活用に面白さを感じていました。トヨタはそういうアナリスト部門が充実していると聞いているので、そういう野球をやりたいと思ったところはありますね」と福井は言う。

福井が竹内からよく話を聞かされ一緒に野球をやるのを楽しみにしていた細山田武史は、昨年限りで現役を退き、今季からコーチに就任した。立場は変わったが、一緒に野球をやることに変わりはない。

そして、こちらも「助監督」から「上司」に立場が変わる竹内には、「トヨタの野球部を変えるくらいの気持ちでやれ。新しい風を吹かせる存在になれ」と叱咤激励を受けている。

余談になるが、「竹内助監督について話を聞かせてほしい」という取材の最後、福井は席を立つ前に、「竹内さんの最高の記事をお願いします」と言ってきた。アマチュア野球を取材する記者たちが、彼の人間性を褒める理由がわかった。そして、ここにも一本の絆があることを知った。

「最高の原稿」かどうかはわかりませんが、一生懸命書かせていただきました(筆者より)

慶大野球部は、今季から中根慎一郎(三菱重工名古屋)が新たに助監督に就任した。新しいシーズンは、もう始まっている。

開幕するリーグ戦、竹内は神宮球場のスタンドから静かに見守るつもりだ。おそらく、妻のまりえと一緒に。

―――終了―――

取材・文●矢崎良一

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